2013年6月26日水曜日


試練
 人生に試練は付きものですが、できるものなら来てほしくないお客さまです。
最近、私を含め、周りにいる友人知人が、一斉に、さまざまな試練に あってい
ます。
 しかし、試練に対してヤコブの手紙1章では「私の兄弟たち。さまざまな試練
に会うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい」(2節)と書いて ありま
す。どういうことでしょう。
 困難、患難はぬかるみのようで、そこに入ってしまうとズボっと沈んで身動き
が取れなくなります。そうならないよう、聖書はさまざまな解決を提示 してい
ます。喜ぶこともその一つです。
 聖書に、ヨシャパテ王が、問題に対して賛美をする者たちを立て、喜びの声賛
美の声を上げた時、神によって敵は打ち負かされたという記述がありま す。こ
れは、信仰の対応です。解決を受けたと信じる信仰を用い、信仰の結果としての
勝利を先取りして、喜び踊るのです。憂えたり、心配する肉なる 性質にあら
がって、信仰を用いて打ち勝つことを、神さまは望んでおられます。
 喜びの声を上げる時、問題はこの上ない喜びに変わります。喜ぶことは、試練
や問題を解決に導く信仰のフィルターのようです。そしていつしか、試 練や問
題は神さまの手によって解決されていきます。感謝して主に委ねる、これが試練
に対する脱出の道です。
 ピリピ人の手紙4章には、「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝を
もってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知ってい ただ
きなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心
と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」と書かれてい ます。これ
は、神さまの私たちへの約束です。     (イスラエル北野)
み声新聞2013年6月30日号(第734号)より転載—

2013年6月19日水曜日


お前はもう死んでいる
 先日、北海道に来られたP牧師は、とても分かりやすい方法で、信仰を使うと
いうことを教えてくださいました。
 数年前の流行語大賞に選ばれた「北斗の拳」の格闘家が、手合わせした相手に
向かってこう言います。「お前はもう死んでいる」。するとどうでしょ う。体
のツボを突かれて、たちまちのうちに肉がさく裂し死んでしまうのです。
 P牧師はこのことを、信仰を用いるということに適用しました。まず、皆さん
が直面している問題を思い浮かべ、信仰を注いでこう言うのです。「お 前はも
う死んでいる」すると、どうなるのでしょう。問題は死にました。
 このことを学んだその帰路で、私は39度の熱を出し、悪寒や喉の痛みに苦しん
でいると、先ほど学んだ信仰の対応を用いてみよう、と思い立ちまし た。それ
で私は、風邪の症状と病に対して、「お前はもう死んでいる」と告白し、詰め
寄ったのです。熱は一気に37度台に落ち、その後平熱に戻りま した。
 それと同様なことが聖書に書かれています。ゼカリヤ書4章7節には次のよう
な言葉があります。それは「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベ ルの前
で平地となれ」というものです。
 ゼルバベルは、ユダヤの総督であり、主の宮の礎を据えた人物です。それだけ
のことをするには、よほどの困難や問題があったでしょう。それに対し て預言
者は前述のように彼に語り、励ましたのです。私たちにしても同様です。問題は
もう死んでいます。そびえ立つ問題の山は平地となりました。問 題が許される
のは、神がご栄光を現してくださるためなのです。
 それゆえどうか、あなたもまた私たちと共に語りましょう。「問題よ。お前は
もう死んでいる」                 (イスラエル北野)

 み声新聞2013年6月23日号(第733号)より転載—

2013年6月14日金曜日


不思議
 私たちの教会は、開拓で始まって以来29年を数えます。今思うと、開拓当初か
ら、この教会には不思議なことが満ちていました。何が不思議かとい えば、や
はり神さまの主任牧会の手があることです。目には見えませんが、神の手が私た
ちを支え続けていました。私はそこで起こったことの証人の一 人です。
 この29年の間に、私は学生であったり主婦であったりして、立つ所もさまざま
に変わって行きましたが、その中で私もいくつかの海外宣教に加わら せていた
だきました。顧みればこれだけでも、私には大きな不思議です。
 教会に海外宣教が開かれたこと自体、大きな不思議なのですが、その費用の与
えられ方もまた不思議でした。主がそうしてくださった、としか言いよ うがな
い形で与えられるのです。ある時には、奇跡の手が動き、お財布の中のお札が増
えていた、ということさえおこりました。
 さまざまな不足の中にあったにもかかわらず、献身してからこのかた、約30
間、神がみこころとされた海外宣教には何がなくても必ず出てゆくこ とができ
ました。なんと不思議なことでしょう。
 先日、家族で感謝の宣言をしました。問題を前に、もう何の可能性もなくなっ
た時、歴代誌に出てくるヨシャパテ王と同じように、私たちは喜びの声 賛美の
声を上げて、問題が既に解決されたことを感謝しました。その結果、私たちは神
さまの大いなる栄光と解決を見たのです。
 主をあがめます。私たちには、神の手が、置かれています。誰であっても主に
信頼するなら、主は不思議なことをなしてくださいます。全ては私たち の信仰
をたてあげるために神さまが許されたことなのです。神さまを恐れ、また信頼し
ましょう。(イスラエル北野)

 
み声新聞2013年6月16日号(第732号)より転載—

2013年6月3日月曜日


忠実さ
 聖書には神さまがくださる賜物について、興味深い二つの記述があります。
 そのうちの一つは、マタイの福音書25章にあるタラントのたとえです。ある主
人が、しもべたちの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラ ントを渡
して旅に出ました。
 彼らは早速商売をして、それぞれ5タラント、2タラントをもうけました。
帰ってきた主人は、よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずか な物
に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに
喜んでくれ、と言いました。
 ところが、1タラントを預かった者は、地の中に隠しました。主人は彼に対
し、悪いなまけもののしもべだ、と叱責し、与えられていた1タラントを 10タラ
ントも持つしもべにやりました。
 ルカの福音書19章にも、同様な話があります。旅に出る主人が、10人のしもべ
に、1人ずつ1ミナを与え、商売をするよう命じたところ、それぞ れ10ミナ、
5ミナをもうけました。しかし、ここでも1ミナを隠していただけのしもべがい
て、彼の1ミナは、10ミナもうけたしもべのものとなり ました。
 だれでも、持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている
物までも取り上げられるのです、というのがこの話の結論です。
 この箇所でよく引っかかるのは、タラントやミナが、人の能力のように聞こえ
るところです。より多くの実を結ぶことはもちろんそれは大切ですが、 多かろ
うか少なかろうか、神の実を結ぶこと自体が大切なことなのです。神さまは、一
人一人がいかに忠実に用いたかという処に目をとめられるので す。数は神さま
がお決めになることです。私たちはただ、与えられたものに忠実でありましょ
う。 (イスラエル北野)

 み声新聞2013年6月9日号(第731号)より転載—

2013年6月1日土曜日


闇から光へ
 モデルの神田うのさんは、数年前芸能人でない男性と結婚されました。お子さ
んをもうけ、産後12kgダイエットしましたが、5号サイズの服は着 られなくな
りました。これはモデルとして失格、と彼女は言いましたが、そのことを後悔し
ている様子はありませんでした。夜遊びに興味がなくなっ た、と語っていたの
が印象的でした。
 芸能界はその華やかさと裏腹に、暗黒で空虚な世界です。人は彗星のように現
れては消えて行きます。スポットライトを浴びる座を巡ってのし烈な戦 いもあ
ります。そこから抜け出し、普通の人として地道に生きること、この平凡な歩み
こそがまことの祝福では、と私は思います。
 ローマ人の手紙12章2節には「この世と調子を合わせてはいけません。いや、
むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け 入れら
れ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさ
い」と書かれています。これは、誰にもあてはまる言葉です。
 世に調子を合わせると真理を見失います。福音が語られていても悟ることがあ
りません。それは罠です。うたかたの世の楽しみは、終わりには苦痛と なり、
やがては私たちを刺し貫きます。
 すべてを知っている神は、そんな私たちを救うためにイエスさまを世に遣わさ
れました。進んで信じるなら、この方は私たちの全ての罪を赦し、永遠 の命を
与えてさる主であると知るのです。
 イエスさまは、「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を
信じなさい」(ヨハネの手紙1236節)とおっしゃいました。今 は、救いの日
です。光の時代です。心の一新によってイエスを迎え、神の祝福に生きましょ
う。  (イスラエル北野)

 み声新聞2013年6月2日号(第730号)より転載—