2018年1月31日水曜日

口にする言葉

 言葉における失敗は、誰もが経験するところで、失言妄想で痛い思いをした人も多いと思います。ヤコブの手紙3章は、言葉について言及されている聖書の箇所で、「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」(2節)と書かれています。
 私は、信仰生活を送って35年になりますが、言葉の持つ力について開かれてきたのはここ数年になります。
 近頃、口で語った言葉がその通りになってしまうという言葉の性質にようやく気が付き始めました。私たちが何を口にするのかということは、非常に重要なのです。
 特に、私は20代半ば、妊娠してつわりで体重が43キロまで下がったのを底辺に、産後は53キロになり、すぐ55キロになりました。そこからは、ノンストップで65キロ、さらにもう10キロと、右肩上がりで体重が増加しました。
 私には癖があって、○○キロになったらどうしようとすぐ不安を口にしてしまいます。
 このままじゃ○○キロになっちゃう、と不安の中で語るので、不安通りの結果を刈り取ってしまいます。「55キロで良かったじゃないか。受けた事を感謝しないで、欲張りすぎているからこうなるんだ」と連れ合いに叱責(しっせき)されました。口にする言葉は不安や恐ればかりで、しかもそれが、その言葉通りに実現して行くのです。
 しかし、不思議なことに、言葉は悪い方に向かうだけでなく、良い言葉は良い事を呼び、信仰の告白はその通りに実現していきました。
 私たちが口にする言葉は、強力な力を発揮します。それ故、私たちは意識して注意して、信仰の言葉を語りましょう。そのとき、私たちは忍耐によって言葉の成就を勝ち取ることができます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年2月4日号(第975号)より転載—

2018年1月24日水曜日

義について

 世にはさまざまな「縛り」があります。信仰生活も、ああしてはならないという「縛り」が付き物です。神さまの前でいい子でなければ受け入れられない、という考えをサタンは投げ込んでくるので、かえって人を恵みから遠ざけます。
 それ故、神さまはいつも変わることの無いお方でありながら、こちら側の状態によって遠く感じたり、近く感じたりするのです。
 キリストの義が現される以前、律法を守ることが神さまに受け入れられる道だと信じられていました。神は、ご自身の選びの民であるイスラエルに「律法」をお授けになりました。この「律法」の全てを守り行うことによって彼らは自分たちが「義」とされ、救いにあずかるはずでした。
 しかし、律法を守ることによって救いを達成することは誰一人としてできませんでした。ただ罪悪感だけが残るのです。
 ローマ人への手紙3章で、パウロは「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(28節)と書きました。
 人が神の前に「義」とされるのはただ一つ、救いの完成者であるイエスさまと、イエスさまが成し遂げられた十字架の贖(あがな)いを信じることにあります。私たちは原罪を持つ身で、神さまから救いを頂くほどの正しさはありません。私たちはみな罪人(つみびと)なのです。しかし、ただお一人正しいお方であるイエス・キリストが成し遂げられた十字架の救いによって、全ての罪は無効となったのです。キリストが下さるのは、信仰による義です。
 こういう訳でキリストは律法を終わらせました。信じる人は皆、その信仰によって「義」と認められます。私たちは、恵みのうちを歩みましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月28日号(第974号)より転載—

2018年1月17日水曜日

二十六聖人
 今年もあとわずかで日本二十六聖人殉教記念日を迎えます。1597年2月5日、長崎の西坂で、子ども3名、外国人6名を含む26名が磔刑(たっけい)に処せられ殉教しました。彼らは日本で最初の殉教者となりました。そして、その信仰のバトンを受け継ぐ者として、私たちの教会は、毎年この日に集まり、聖会の時を持っています。
 二十六聖人が殉教した同じその西坂に立つことは、特別な恵みです。併設されている記念館には二十六聖人の遺骨の一部が置かれており、西坂には特別なご臨在が注がれています。
 また、二十六聖人のモニュメントには、次のような聖書の言葉が刻まれています。
 「人若し我に従わんと欲せば、己を捨て、十字架をとりて我に従うべし」(だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい)(マルコの福音書834節)これはイエスさまが語られたことばであり、二十六聖人はこのことばに応答し、また全うしたのです。
 殉教者の血は、リバイバルの種であるとよく言われます。聖書でも、詩篇116篇15節に「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」と書かれています。さらにへブル人への手紙1113節にも、「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」と書かれています。確かにその死は無駄に終わることなく、主は報いとしてリバイバルを起こしてくださいます。
 二十六聖人の殉教を皮切りに日本は、おびただしい数の殉教者を出しました。しかし、その血の真の報いはまだこれからだと私は思います。そして今、いよいよリバイバルの本戦が起ころうとしています。 (イスラエル北野)


み声新聞2017年1月21日号(第973号)より転載—

2018年1月10日水曜日

謙遜は栄誉に先立つ

 中国宣教にその身をささげたイギリス人宣教師、ハドソン・テーラーという神の器(奉仕者)がいます。彼の働きで特筆すべきは、彼が宣教の働きにおいて、現地の人と同じ服を着て、現地の人のように生活していたことです。また、経済的に豊かになっても、生活レベルを上げることをせず、その分をささげ、清貧を旨とした生活を送っていたことです。
 こんな信仰を持っている彼を、神さまも豊かに用いてくださり、彼の働きは豊かに実を結んでいきました。
 ところで、聖書の箴言(しんげん)に「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(1812節)という一節があります。ひとたび心が高くなってしまうと、なかなか低い昔には戻れません。そればかりか破滅に向かいます。実に恐ろしいことです。
 数年前、お笑い芸人の登竜門であるテレビ番組がありました。当時まだ無名でしたが、その番組に出演して成功することができたAさんが、先日、雑誌で興味深いことを語っていました。ブームが去り、今は収入が最盛期の十分の一以下になったのに、生活レベルを落とすことができない、というのです。いったん高くなってしまったら、元に戻るのは至難の業です。戻れないといった方が適切かもしれません。
 かつて私は、上から目線で語ってしまった一つの言葉で友人を失いました。こんな苦い経験があるので、今は、随分慎重になりました。高ぶると一切を失います。
 清貧は恵みです。ハドソン・テーラーが、清貧の道を行ったことは、神の御旨にかなったことでした。高ぶりや高慢はやがては自分自身を貫きます。そして多くのものを失います。反対に、謙遜は多くのものを受けるのです。低い心を求めていきましょう。 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月14日号(第972号)より転載—

2018年1月2日火曜日

忘れてはならないこと

 聖書の中で、どの聖句を好むかと問うたところ、多くの人がヨハネの福音書3章16節を上げました。そこには、このように書かれています。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子(みこ)を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
 ひとり子、御子と語られているのは、イエスさまのことです。イエスさまは父なる神のひとり子です。神さまにとって唯一無二の存在です。これを下さったとはどういうことでしょうか。
 これは、イエスさまが十字架にかかって成し遂げられた救いについて語っているのです。神は、原罪のもとにつながれている私たちを愛し、あわれみ、ご自分と世を和解させるため、御子イエス・キリストを世に下さいました。イエスさまは、十字架で私たちの罪を負って死なれ、また、3日目に復活されたのです。
 こういう訳で、今や私たちはイエスさまの十字架によって、永遠のいのちを受けています。
 さらに、ローマ人への手紙8章32節には、こう書かれています。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」
 神は、ご自身にとって最も大切な御子を、私たちに下さいました。御子を下さったということは、すべてのものを下さったということに等しいのです。私たちは、これほどまでも深く神に愛されています。
 確かに、私たちに問題困難は許されます。しかし、神の愛はそれ以上に深いのです。どうしてすべてのことを働かせ益としてくださらないことがありましょう。こういう訳で私たちは、神に信頼いたしましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月7日号(第971号)より転載—