2017年12月29日金曜日

逃げたらあかん

 のどあめのCMで、歌手の天童よしみさんが「なめたらあかん。人生なめずに、これなめて」とにっこり歌っているものがあります。このCMがよっぽど頭に入っているのか、試練の日に、私は「なめたらあかん」という歌詞が、急に「逃げたらあかん」という風にに聞こえてきました。
 今は、リバイバル本戦の直前で、器の建て上げが急がれています。イエスさまはマタイの福音書16章で「だれでもわたしについて来たいなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい」(24節)と語られました。
 このことばに応答すると、主は私たちを建て上げるために、困難や試練、問題を許されます。 それがあまりにも厳しくて、逃げたくなることがあります。そんな時に響いてくるのが、「逃げたらあかん」でした。
 以前にもお分かちした実話ですが、ある牧師夫妻が試練に入りました。それがあまりにも厳しいので、ご主人はイエスさまの十字架を負って進むことを心ひそかに引いていたと言います。
 やがて試練は去り、お二人に新しい段階が始まりました。しかし、その時、牧師であるご主人は、自分は受けるべき訓練から逃げてしまったということを知りました。一方、彼の妻は祈って、祈ってすがりついて、ついに問題を祈り切りました。
 私たちが主に従うと、必ず「十字架から降りろ」という誘惑が来ます。サタンは、お前が引くなら自分も引く、と取引を持ち掛けてくることもあります。しかし、「逃げたらあかん」のです。この時こそ、信仰に立って、一歩踏み込む時なのです。
 もう間もなくすれば、本格的な、主のリバイバルの栄光を見ます。主イエスを見上げ、主が歩まれた十字架の道を、逃げずに進んで行きましょう。 (イスラエル北野)


み声新聞2017年1月7日号(第970号)より転載—

2017年12月28日木曜日

祈 り

祈りは一見、地味な仕事に見える働きです。しかし、長年にわたって、私の信仰生活を支えてくれたのは、他でもない祈りでした。
 教会の一室で、イエスさまを個人的な救い主として信じ、心にお迎えした時、祈ろうと二つの手を組み合わせると、手にぐっしょりと汗をかいていました。しかしそれは不快なものでなく、指と指がしっくりきて、ああ、これで祈れる手になった、救われたんだ私はと、むしろ、うれしくなりました。
 イエスさまもまた、この世にあっては祈りの人でした。そして、どう祈るか模範を示されました。地上で最も力ある祈りは、ゲツセマネでイエスさまがささげられた祈りだと思います。全ては私たちを救うため、イエスさまはご自身の神としてのあり方を捨て、十字架で死に、私たち人類の贖(あがな)いを成し遂げられました。その使命を全うする前夜、ゲツセマネで祈りの格闘があったのです。
 マタイの福音書26章によれば、ゲツセマネでイエスさまは、お弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(38節)と語りました。そして祈られました。「わが父よ。できますなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(39節)
 この祈りが、サタンを砕く勝利となりました。なぜなら、イエスさまが自分の願うようにではなく、神のみこころを全うすることを求めたからです。この従順さによって神のみこころは成就されました。
 祈りとは何でしょう。私が得た答えは、状況のいかんに関わらず「神さまのご介入を求める行い」だと思います。どんな厳しい状況の中にあっても、祈りによって、神さまは私たちの人生のあらゆる場面で介入してくださいます。
 祈りは神の力です。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月31日号(第969号)より転載—

2017年12月21日木曜日

お金の話

 バブル期の頃のお話です。息子を都会の大学に入れた農家の老母がいました。バブルの流れに乗り、息子は株を扱い、富むようになりました。1億円のゴルフの会員権をはじめ、マンション、ロレックスなどの高価な時計、貴金属を持ちました。母さんに楽をさせてあげられるよ、と言ったところ、母は「お前の金はまっとうなものではない。金っていうものは、汗水たらしてコツコツと積み上げて得ていくものだ。そこに価値がある。いつまでもこんな事がまかり通るわけはない」と言ったといいます。
 その言葉通り、間もなくバブルははじけました。あの時代、お金のことを正しく扱えた人はどれぐらいいたのでしょうか。富の追求は、人間の根本にある欲求です。ソロモン王は、イスラエルの王として地上に並ぶものがないくらい栄華を極めました。しかしながら、幸せそうに見えないのです。そればかりか彼はその書巻、伝道者の書に、「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい」(5章10節)という一文を残しました。
 また、テモテの手紙第一6章には次のように書かれています。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰の道から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました」(9、10節)
 お金は大切です。しかし、いつしかそれが目的となってしまうとなると、信仰から迷い出ます。こうなれば、そうやすやすとは元に戻れません。ここに厳しさがあります。
 お金ではなく、イエスさまに望みを置くこと、これが全てです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月24日号(第968号)より転載—

2017年12月14日木曜日

ホロコースト

 私たちの教会は、イスラエル宣教に重荷があります。私たちもまたその中の1人で、1991年、夫と娘計3名、家族でイスラエルに行く恵みにあずかりました。召しに関して個人的な導きを求め祈り込む旅でした。
 イスラエルでは、あちこちを回り、ポイントとなる所は押さえました。しかし、帰国する3日前、イスラエルで行き残した所はないかと祈ったところ、その日の聖書通読の箇所から明確な示しが与えられました。黙示録の4章1節の「ここに上れ」という一文と、「この後、必ず起こることをあなたに示そう」という言葉に、くぎ付けになりました。
 上れ、といってもどこに上るのでしょう。思案にくれていたところ、神は日本人の牧師を備えてくださり、それは丘であること、丘にはヤド・ヴァシェムというホロコースト記念館があると教えてくれました。私たちはみこころを感じ、ともかくそこへ行くことにしました。もう一つのみことば、この後起こること、ってなんだろうと考えながら。
 丘を登ると、記念館がありました。ホロコーストの内容を年代ごとに区分けして写真や資料を展示しています。その第1のコーナーに踏み込むやいなや、私は凍りついてしまいました。ヒトラーの肖像が私を迎えたからです。この後必ず起こること、それはヒトラーの再来であるというのでしょうか。それが私の生きている間に来るというのでしょうか。
 実際のところ、生きているうちにリバイバルが起きることは信じていました。しかし、迫害となるとあまり考えないようにしてきました。まだまだ先であると。しかし、神はそれに目を向けるよう私を導かれました。それから四半世紀が過ぎ、確かに今、示しの成就が近づいています。迫害の時代に備えましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月17日号(第967号)より転載—

2017年12月7日木曜日

受けたと信じて

 聖書のことばは生きていて、しばしば私たちの信仰に訴え、チャレンジしてきます。マルコの福音書1122節~24節もその中の一つで、次のように書かれています。
 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」
 このみことばは、聖書の中でもよく引用される一文で、「すでに受けたと信じなさい。そうすれば,そのとおりになります」というのがポイントです。神さまのみこころにかなう祈りであったとしても、すでに受けたと信じる歩みをどう表現したらよいかが思案のしどころでした。その中で私は、受けたと信じて躍り上がって感謝の言葉を語るようにしました。「受けました。ありがとうございました」と躍り上がって告白するのです。結果は、失望に終わったことなど一つもありませんでした。
 教会では患難や困難に出会う時、それをありのまま感謝することを勧めています。聖書にも「すべての事について、感謝しなさい」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)と書かれており、感謝する事はあらゆることにおいて有効です。感謝は神の御手を動かし、感謝は信仰を引き上げるのです。これが信仰を使うということです。
 受けたと信じ踊るダンスは楽しいものです。私はピョンピョン跳び上がるばかりなので、すぐ息が切れていました。しかし、近頃は新しい振り付けで躍ります。心の底から喜びがふつふつと涌き起こります。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年12月10日号(第966号)より転載—

2017年12月1日金曜日

 

 「千里の馬は常に有れども伯楽(はくらく)は常に有らず」ということわざをご存じでしょうか。韓愈(かんゆ)が記した「雑説」の中に出てくるエピソードから出た故事成語で、いつの時代にも有能な人はいるものだけれど、その才能を見抜き発揮させてくれる人と出会えることはめったにない、というのがその意味です。
 千里の馬とは、千里を走る名馬のことです。この馬は、一見すると大食いでのろまで、とてもその風格はありません。普通の馬と何ら変わらずむしろ劣っているようにさえ思える馬です。これを見分けて、千里を走る馬だと発掘する名人が「伯楽」です。千里の名馬は穀1石を食べ尽くしてしまいます。それで、普通の馬の食べた量ではおなかがすいて力が出ないのでなおさら駄馬に見え、名馬たるきざしを見いだすことはまれです。ここから優れた資質を持った人を見抜く力ある人物を「伯楽」というようになりました。
 イエスさまは、いわば、私たちの人生の伯楽です。私たちは、「家を建てる者たちの見捨てた石」(マタイの福音書2142節ほか)であり、見どころがないと判断された駄馬でした。しかし、この駄馬を神は選ばれ、千里の馬として立て上げてくださいました。
 神を知ることは、自分を知ることにつながります。あなたがあなたを見る見方と神があなたを見ているあなたは異なります。あなたは駄馬ではありません、神があなたを用いてくださる限り駄馬であるはずはないのです。こういうわけで、わたしたちは神のみこころを知ることを熱心に求めましょう。
 神は目的を持ってあなたを造られました。働きは既に用意されています。そして、それを知るようイエスさまは助けてくださいます。イエスさまを信じ、従いましょう。その時、あなたは最善、最高の人生を歩むことでしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年12月3日号(第965号)より転載—

2017年11月23日木曜日

たましいの安らぎ

 誰が最初に言ったのかは知りませんが、世の中は戦場、日々戦いの連続です。老若男女を問わず、皆等しく、それぞれ戦うべき自分の問題があります。そして、その問題は、時折、大きな重荷となって私たちにのしかかってきます。さらに、その問題の大きさ故に、疲れ果ててしまった人も大勢います。
 そんな私たちにイエスさまは聖書を通して、こう語られました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎがきます」(マタイの福音書112829節)というものです。
 イエスさまは、私たちの問題を知ってくださっています。そして、休ませてくださると約束してくださっています。また、くびきとは畑を耕すにあたって牛馬の首に当てた横木のことで、これにつながれたらその方向からそれることができなくなります。イエスさまのくびきは、イエスさまの行かせようとする方向に進みます。イエスさまは、私たちをご自身の道からそれることがないよう守られ、祝福の道へと進ませます。
 さらに1220節にはこう書かれています。「彼はいたんだ葦(あし)を折ることもなく、くすぶる燈心(とうしん)を消すこともない」。
 彼とはもちろんイエスさまのことです。たとえあなたがいたんだ葦、くすぶる燈心であったとしても、イエスさまは、弱い者を支え、また、ともしびを守られます。辛うじて立っているものを支えこそすれ、倒すことなどないのです。イエスさまはこんなにもあなたのことを愛してくださっています。主のもとで安きを得ましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年11月26日号(第964号)より転載—

2017年11月16日木曜日

 

 幼い頃、祖父の家にある仏壇がたとえようもなく恐ろしかったです。幼い私に、仏壇は「死」を強く意識させるものでした。私の家は、宗教的な家ではありませんでしたが、それでもご飯や水を供えたりして仏壇に仕えていました。
 仏壇の中央には位牌(いはい)があり、死んだ祖母の「死後の名前」(戒名)が刻まれています。死んだおばあちゃんはここに(仏壇に)いるからね、と言われて、仏壇や位牌の中にいるおばあちゃんに向かって祈ることを教えられました。しかし、きらびやかな仏壇がより一層死を暗示していて、怖くて仕方がありませんでした。
 仏壇にあるのは戒名で、死んで1年になると、仏教では、祖母は仏になったと言われます。しかし、暗くておどろおどろしいこの仏壇にあのおばあちゃんがいるわけはない、と私は違和感を覚えました。皆そうだと思います。そして無意識に、おばあちゃんなら、きっと子孫を守ってくれるに違いないと思いました。
 仏壇を守ることは、先祖供養を重んじる日本人の一般的な考えです。そして将来、自分が死んだ後も、仏壇を介して自分が生き続けていくと信じる人もいるので、仏壇の問題は一筋縄ではいかないのです。
 しかし、私たちは仏壇の中身こそ知っておくべきです。残念ながら、そこには、あなたの愛する人はいないのです。人の生き死には、全て神の手の中にあります。聖書から見るなら、仏壇にいるのは悪霊です。それ故、仏壇に手を合わせることは偶像礼拝になります。
 ヨナ書に、「むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます」(2章8節)と書かれています。仏壇はむなしいものです。しかし、イエスを信じるなら、あなたに与えられるのは永遠のいのちです。イエスさまを信じましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年11月19日号(第963号)より転載—

2017年11月9日木曜日

奴 隷

 ローマ人への手紙の中でパウロは、奴隷という語を用いてキリスト教の奥義を語ろうとしています。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(61618節)。
 また注解を読むと、「人間は何にも支配されず、完全に自由になることはできない。必ず何かの奴隷になっている。それを大別すれば、罪の奴隷となるか、信仰によって神に服従する従順の奴隷になるかの、どちらかである」と書かれていて、さらに驚きました。
 奴隷になるということは、自分を無にして、自分が服従する相手に自分の一切をささげるということです。キリストを知らない以前、私たちは罪の奴隷であり、死を恐れながら待つよりほかにない者でした。
 しかし、全ては一変しました。罪の奴隷であった私たちですが、イエス・キリストを信じて義の奴隷となることによって、神は私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。
 私は最初、奴隷ということばにはあまり好感を持てませんでした。でも今は違います。義の奴隷となることは私たちを束縛するのではありません。むしろ解放します。人は皆必ず死を迎える死の奴隷です。しかし、キリストを信じることによって、この死から解放され、永遠のいのちを受けることができるのです。これが義の奴隷の報いです。罪の奴隷となるか、キリストを信じ義の奴隷になるかは、一人一人に任されています。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年11月12日号(第962号)より転載—

2017年11月2日木曜日

信 仰

 ユダヤ人の一般的な考えでは、幽霊はしばしば海上に現れると言います。それで、マタイの福音書14章で、イエスさまが暴風雨のガリラヤ湖の上を歩いて来られた時、弟子たちは幽霊だと思い、恐ろしさのあまり、叫び声を上げました。
 イエスさまはすぐに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださいました。それに力を得て、ペテロはイエスさまにこう言いました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
 イエスさまは、「来なさい」と言ってくださいました。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスさまの方に行きました。奇跡が起こったのです。
 ところが、ペテロは風を見て怖くなり、沈みかけました。彼は、「主よ。助けてください」と叫びました。イエスさまは、すぐに手を伸ばしてペテロをつかみ言いました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」。二人が舟に乗り移ると風はやみました。
 信仰は現実に打ち勝ち、奇跡を生みます。信仰とは神のことばを信じることです。「来なさい」と語ったイエスさまのことばを最後まで信じることです。波や風など「現実」に目が行き、神のことばを見失うなら沈みます。
 イエスさまはペテロに、信仰の薄い者だとも、なぜ疑うのかとも言われました。神のことばではなく現状に目を向けさせること、これは「疑い」です。「疑い」はくせもので、信仰の真逆を行きます。しかし、信仰は、神の語られたことばにとどまることです。
 信仰に立つなら、ペテロに起こったことと同じような奇跡が私たちにも起こります。イエスさまもまた、私たちがみことばに立てるよう助けてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年11月5日号(第961号)より転載—

2017年10月25日水曜日

年を取っても

 「寄る年波には勝てず」とはよく言ったもので、50を超えるとさすがに容色の衰えや体力の衰えを否めず、老いの戸口に立っていることを意識させられます。
 2030代の時は、人生は右肩上がりで進んでいるように思っていました。しかし、50代に入ると、どうも勝手が違います。今までになく疲れやすく、老いを意識する場面が多くなりました。
 人生の折り返し地点を超えたということは明らかですし、齢(よわい)を数えてあと何年だろうかとついネガティブになってしまいます。でも、イエスさまの愛は、こんな中においても優しく麗しく変わることがありません。
 イザヤ書には、こう書かれています。「生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(46章3、4節)
 また、同403031節にはこう書かれています。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲(わし)のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」
 主を待ち望むこと、これが力の源です。若い時の力は、肉の力です。それはやがて衰えます。けれども、あなたが主を待ち望み、主に従うなら、主の力があなたの上に臨みます。その力は、鷲が滑空するような勢いに満ち、たゆむことも、疲れることもありません。
 アブラハムは75歳から、モーセは80歳から、それぞれ神の働きに就きました。年齢という数字に惑わされないようにしましょう。いくつになっても、主はあなたを背負ってくださり、あなたを愛し、あなたの力となってくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年10月29日号(第960号)より転載—

2017年10月19日木曜日

礎の石

 私たちは神さまに深く愛されています。どのようにしてそれを知るのでしょうか。マタイの福音書2142節には、このように書かれています。
 「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」
 果たしてこれはどう意味でしょうか。
 私の属する教会では、開拓当初から繰り返し、このみことばが語られてきました。集められて来たものは皆、帯に短かしタスキに長しで、どこを取っても世からの称賛を受けるようなものは持ち合わせていませんでした。よく言えば原石、はっきり言えば問題児の集まりでした。ところが、神は、その働きにおいてエリートたちを選ばず、真逆な私たちを選ばれたのです。私たちの目には不思議なことです。
 私たちが神のあわれみを受けたのは、私たちが主に望みを置いた事によると思います。確かに私たちは、はちゃめちゃの規格外です。しかし一人一人、主を愛することにかけては真実でした。私たちは、主に見捨てられたら行く所がない者たちばかりだったのです。
 主もまたその事をご存じで、そのような私たちをことさらに愛し慈しんでくださいました。それ故、逆転が生じたのです。家を建てる者たちの見捨てた石というのは私たちのことです。使い物にならないと人々に捨てられた石が、礎の石(土台石)となりました。これを愛と呼ばずして何が愛でありましょう。
 こういう訳で、私たちは神さまのご愛の中にいつも身を置くことができます。
 役に立たない。この働きには規格外だ、と世が見捨てた石が、すなわち私たちが、礎の石として神さまによって据えられました。私はここに神の愛を覚えるのです。これは、大きな恵みです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年10月22日号(第959号)より転載—

2017年10月12日木曜日



 かつて牧師が興味深いことを話されました。それは読書のことで、牧師は試験の前日になると、決まって本を、名作を読みたくなるのだそうです。そして、読みます。すると感動し、非常に充実した時を持つといいます。しかし、その喜びはテスト用紙が配られると吹っ飛びます。勉強すべき時を違うものに使ってしまった、という後悔と苦味が押し寄せてきます。
 ソロモンの伝道者の書に次のような文があります。
 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある、生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」「くずすのに時があり、建てるのに時がある」「捜すのに時があり、失うのに時がある」「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある」「愛するのに時があり、憎むのに時がある」「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(3章1~11節から抜粋)
 本当に全ての営みは時があります。扉を開くのも閉じるのも、神の手がそれをします。時を捉えるということは非常に重要なのです。
 私たちの教会では、毎年イスラエルに行きます。かれこれ20年以上でしょうか、そのなかで最初の頃は、エジプトから入国し、シナイ山に登り礼拝し、そしてイスラエルへというコースが導かれました。しかし、危険度が増してきたこともあるのでしょうか、今ではこのルートは取らなくなりました。
 同じように、宣教にも時があります。宣教の扉は開かれたり、閉じたりします。それ故、開かれている間になさなければなりません。
 今は大リバイバルの前夜だと言われています。それ故、その働きに向けて忠実に備えましょう。魂の大収穫の時に用いられるのは皆さんです。神の心をおのが心として、大収穫の刈り取りへ出ていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年10月15日号(第958号)より転載—

2017年10月4日水曜日

ヨ ブ

 私は、18歳の時に救われました。半年後には献身し、洗礼を受ける日を楽しみにしていました。
 ところが突然の病に見舞われて、郷里の病院で半年入院する事態になりました。受洗どころか、毎週の礼拝を持つことさえかなわない状況に、なぜ?と床の上でもんもんとしていました。
 聖書にヨブ記という巻があります。ヨブは苦難のしもべとして広く認知され、いわれなき試練の代名詞ともなっています。聖書を知らない人でも、ヨブを知っている人は大勢います。
 ヨブは義人でした。非の打ち所がないと神さまが認めるほど潔白で、神を恐れ、神に仕える下僕でした。しかしサタンは、彼に神をのろう言葉を語らせようとしました。
 サタンはヨブの持ち物を打ち、ヨブは1日にして家族と全財産を失います。しかし、それでもヨブは愚痴をこぼさず「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(121節)と語り、主を礼拝しました。
 しかし、次にサタンは、ヨブの骨と肉とを打ち、ヨブは足の裏から頭の頂きまで悪性の腫物(しゅもつ)で覆われました。ヨブ記では、このあと3章から37章まで、ヨブの苦闘が記されています。
 一貫してヨブは、なぜこのような事が許されるのかと切々と祈り、また尋ね求めています。けれども、神は38章まで沈黙を守られたのです。病床にあった私も同様です。今はそれから35年になりますが、今でも分からない事は多くあります。しかし、私にはこれが必要だった、ということだけは分かっています。
 どのような事があっても神は正しい、この姿勢こそ、私たちに神の恵みと祝福をもたらす、宝石のような信仰です。神に信頼し、従っていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年10月8日号(第957号)より転載—

2017年9月29日金曜日

信仰と不信仰

 イスラエルが、約束の地カナンに来たとき、神はモーセを通して、12人の族長にカナンの地を探らせました(民数記1314章参照)。40日がたつと彼らは帰って来て、その地が乳と蜜が流れる素晴らしい土地であることと、先住民は巨人で、町々は城壁を持ち、占領するのは難しい、という判断を持ち帰ってきました。
 その中で、カレブとヨシュアが「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから」と信仰を告白しました。
 ところが、この2人を除いた族長たちは不信仰で、民もまたモーセとアロンにつぶやき言いました。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ主は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに」「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう」
 これを聞くとヨシュアとカレブは自分たちの着物を引き裂いて全会衆に言いました。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう」2人は信仰に立っていました。
 しかし、民は不信仰に立っていました。主は彼らの言葉によって彼らをさばきました。
 その結果、斥候が巡り歩いた40日を40年と数え、ヨシュアとカレブを除いた二十歳以上のものは全員、40年の荒野の生活の中で死ぬこと、しかし、彼らの子どもたちと、ヨシュアとカレブだけは約束の地カナンに住むことができることになりました。
 不信仰は、神の祝福を見えなくさせる恐ろしい罪です。私たちは、信じない者ではなく、信じて祝福を受ける者でありましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年10月1日号(第956号)より転載—

2017年9月22日金曜日

ささげたもの、受けたもの

 今は昔。かれこれ30年になります。杉並区に城堀荘という、女子学生の寮といった一軒家がありそこに私たちは住んでいました。神さまをまっすぐに求道し、特別な祝福の中で、キリストの弟子となる訓練がなされていました。
 ルカの福音書14章には、「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません」(26節)という一文があります。憎むという表現は嫌うとかではなくて、「第一にはしない」といった意味です。キリストの弟子として、最も大切なものをささげる訓練と、学びがなされました。
 私たちは4名でした。その中のひとりはHさんです。彼女は彼女の全てであるカーペンターズをささげました。また、大学で専攻していた哲学から、生ける神の神学である、イエスさまに聞き従う道を選びました。今はブラジルの宣教師として立てられ、ブラジルに居住しています。
 Mさんもまた音楽をささげました。神さまはその事を覚えてくださっていて、今はTrueVine(トゥルー・バイン)として、広く活躍するゴスペルシンガーになり、多くの祝福にあずかっています。
 Aさんと私は、ともに牧師夫人として神さまに仕えるようになり、私は文学をささげました。しかし、その報いとして再び書く働きに戻され、こうして原稿用紙に向かい合っています。
 私たちが神にささげたものは幾倍にもなって、また、さらに良いものになって帰ってきます。私たちの牧師は、それを「ブーメラン」と呼んでいます。待たされ、探られますが、神は時をご存じです。
 神さまに信頼して、全てをささげて従っていきましょう。神さまは、あなたがささげた」もの以上の祝福をもって豊かに報いてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年9月24日号(第955号)より転載—

2017年9月15日金曜日

愚かさを通して

 もしあなたが全能者であって、人を等しく救おうと考えるなら、どういう方法を採るでしょうか。能力で人をはかると優劣が生じますし、金銭ではかると持たない人は救われないことになります。
 取りこぼしなく全ての人を平等に救うために、神さまはどのように救いの道をつくられたでしょうか。それは、十字架の福音を信じることによってです。
 信じるということは子どもでも老人でも病人であっても誰でも等しくできることです。御子イエスキリストの生涯、その十字架の死と復活は、私たちを罪や死から贖(あがな)うためであったと信じるなら救われます。ただ信じることそれだけです。他に何も加えません。その信じる信仰によって義と認められるのです。
 コリント人への手紙第一1章18節に、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と書かれています。これはイエスさまの救いに関することを語っています。福音はありのままの私たちには愚かに見えやすいのです。しかし、それこそが神の知恵であると聖書は語っています。
 同21節にはさらにこう書かれています。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」
 「宣教のことばの愚かしさ」、これがキーワードです。巧みな言葉ではありません。ただ、十字架につけられたイエス・キリストを信じること、これこそ、神が用意したただ一つの救いの方法であり、救いに至らせる神の知恵です。
 福音を信じ、イエスキリストをあなたの心にお迎えしましょう。主はあなたの力となり、また救いとなられます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年9月17日号(第954号)より転載—

2017年9月8日金曜日

サムソン

 士師記にサムソンという士師(さばきつかさ)が出てきます。サムソンは、ナジル人でした。母の胎にいる時から死ぬ日まで、強い酒は飲まず、頭に剃刀(かみそり)を当てず、聖別されており、イスラエルをペリシテ人から救い出すために立てられました。
 サムソンは、屈強な勇士です。しかし女にはめっぽう弱い男でした。力ではサムソンにかなわないと知ったペリシテ人は彼の愛人デリラに金を与える約束をして、サムソンの力の弱点を知ろうとしました。サムソンは、適当な事を言ってかわします。しかし、あまりにもデリラが、あなたは私を愛しているというのに、秘密を明かしてくれない、と攻め立てるので、サムソンは、「死ぬほどつらかった」といいます。
 そして、ついにサムソンは自分がナジル人であることをデリラに明かします。本心を語ったと分かったデリラは膝枕でサムソンを寝かせ、髪の毛7ふさをそり落とさせました。主の力は彼から去っており、彼はペリシテ人の手に落ちました。
 男は女の涙に弱いといいます。また、涙と言わず男性は女性次第でいかようにも変わります。全てとはいいませんが、男性の弱点は女性にあります。そして、女性の弱点はサタンです。
 創世記の初め、人類の祖であるアダムとエバからしてそうでした。禁断の木の実をまず取ったのは、サタンに惑わされたエバです。エバの手によってアダムはこれを食べ、妻に聞き従ってしまいました。
 確かなところ、妻は夫に対して強力な影響力を持つのです。夫を生かすも殺すも妻次第です。それ故、妻は夫の良き助け手にもなりますが、逆にサタンに用いられて夫を倒すことすらあります。サタンのたくらみに乗せられることのないよう、神を恐れていきましょう。 (イスラエル北野)


み声新聞2017年9月10日号(第953号)より転載—

2017年9月1日金曜日

一つだけです

 先日、娘が結婚しました。多くの方に祝福していただき、感謝の思いでいっぱいです。
 時代は30年ひと区切りと言います。私の時代の結婚は、バブルを迎えるころであったので、豪華なものが多かったです。家と家との結婚とも言われ、何かと気苦労が絶えませんでした。それに引き換え、娘が言ってきた結婚式は、いわゆる「地味婚」でした。神の前に夫婦の宣言を頂き、歩むことができればそれでいい、と言うのです。
 しかし、愚かな母はこれを聞きながらも心そこにあらずで、自分が結婚式で受けた祝福の全てを備えてやりたいと、あれこれ考え始めました。思えばこれが間違いのもとであったのです。
 地味婚といってもこちら次第で、いくらでも忙しくなります。相手先のご両親とはいつお会いするの?から始まって、写真は?衣装は?指輪は?と矢継ぎ早に質問を浴びせる母に、娘はへきえきとしていたようです。
 そして、ついに神さまのご介入がありました。主は、ルカの福音書104142節から私に語ってこられました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」
 この、「一つだけです」ということばは、今までにないほどまでに私の心に触れました。そうです。本当に必要なのは一つだけでした。顧みればあれこれ忙しくするものは、本質から外れた、それほど重要ではない事柄です。
 結婚式においても、本当に大切なことは一つだけです。それは、男女が神の前に夫婦であると宣言され、この神のことばによって結び合わされ、二人は一体となることです。大切なことは一つだけです。それを見失わないでいきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年9月3日号(第952号)より転載—

2017年8月25日金曜日

メリバの水

 神はモーセとアロンを指導者として立て、イスラエルを荒野に行かせました。ツィンの荒野には水がなかったので、民はモーセとアロンに逆らいました。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか」「飲み水さえない」(民数記20章5節)
 これを聞かれた主は「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ」(8節)と語られました。
 そこでモーセは主の前から杖を取り、岩の前に集会を招集して言いました。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか」(10節)。こう言ってモーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った所、たくさんの水がわき出たので、人も家畜もそれを飲みました。
 水を出すのは神であるにも関わらず、モーセは、「私たちが水を出さなければならないのか」と語り、神の方法ではなく自分の方法で水を出し、主の栄光を覆い隠しました。
 主はこう語りました。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない」(12節)
 こういう訳でアロンもモーセも約束の地を目前にしながら死にました。約束の地に民を導き入れたのはモーセの従者ヨシュアでした。
 この学びと教訓は非常に大きいものです。神さまに用いられる時、私たちが最も気を付けなければならない事は、ただ神にのみ栄光を帰す、ということです。
 主に栄光を帰し、主の栄光をたたえましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月27日号(第951号)より転載—

2017年8月19日土曜日

天国を見た人
 1986年、私の父はゴルフの最中に吐血し、食道静脈瘤(りゅう)破裂で死線をさまよいました。父の家系は皆、肝臓の病気で、40代で亡くなっています。ですから父も私たちも覚悟がありました。
 容体が落ち着くと、私と妹は韓国に断食祈祷(きとう)に向かいました。3日間の断食を終え、父の病はいやされたという確信とともに、聖書のことばを頂きました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(ヨハネの福音書11章4節)ということばです。
 このことばの語る深い意味は分かりませんでしたが、帰国したのは父の大手術の2日前でした。私たちは、神がいやしてくださったのだから手術はやめてほしいと父にいちずに願ったので、父も相当悩んだようです。最後に「今は静かに手術を受けさせてくれ」と言いました。ならば、主イエス・キリストを救い主として信じてほしい、と言ったところ、父は同意し、イエスさまを信じて手術室に入って行きました。
 そこからが奇跡でした。後日、父が語ってくれたのですが、手術の最中、父は肉体を離れて、雲に乗って天国に行ったそうです。イエスさまが天国を案内してくれたと言い、それは見事なものだったぞと教えてくれました。また、カチカチの肝硬変であるはずの肝臓に医師が触れたところ、柔らかであり、これなら大丈夫だとの太鼓判を頂きました。私たちが信じた通り、主は肝臓をいやしてくださっていたのです。
 7年後、父は天に帰りました。手術をしても2、3年、といわれていた命に、神さまは7年もの月日を増し加えてくださいました。
 父は永遠のいのちに導かれ、今は天にいます。神さまのおことば通り、この病は今なお神の栄光を現し続けています。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月20日号(第950号)より転載—



2017年8月11日金曜日


 モーセが山で神から十戒を授かっていた間、ふもとでは、イスラエルは早くも堕落し、鋳物の子牛を造って、これを拝むようにして、神の怒りを買いました。
 それを見たモーセは、このイスラエルの罪に対する主の怒りをわが怒りとし、「だれでも、主につく者は、私のところに」(出エジプト記3226節)と言いました。するとレビ族が直ちに集まってきました。
 モーセが、「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」(27節)と語ったところ、レビ族はその言葉通りに行い、その日約3000人が倒れました。
 レビ族はこの事件においてモーセ同様、神の怒りをわが心としたのです。そこで神は怒りを静め、その心を神と一つにしたレビ族を特別に扱われました。
 イスラエルの12部族のうち、レビ人だけに祭司の働きが与えられましたし、また、カナンの地におのおの相続地を分かち合った時、レビ族にはあえて相続地が割り当てられませんでした。彼らの相続地は主であるというのです。地上の相続地を受けないのは、神さまご自身が彼らの領地、彼らの取り分となられたからです。
 歴代誌第二16章9節には、「主はその御目(おんめ)をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力(みちから)をあらわしてくださるのです」という一節があります。
 モーセもレビ人も、その心は神とまったく一つになっていました。このように、神の心をおのが心とする者を、神は用いてくださるのです。
 栄光ある、この務めにふさわしい者は誰でしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月13日号(第949号)より転載—


2017年8月4日金曜日

忠実なしもべ
 マタイの福音書25章は、タラントのたとえとして有名です。父なる神さまは、しもべたちを呼んで、おのおのその能力に応じて1人には5タラント、1人には2タラント、もう1人には1タラントを渡し、旅へ出て行かれました。
 彼らはおのおの、その中で預かったものを用いて商売をして、それぞれ5タラント、2タラントをもうけました。帰ってきた主人は、彼らに言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」
 ところが、1タラントを預かったしもべは違いました。彼は、「ご主人さま。あなたは、蒔(ま)かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました」。こう言ったのです。主人は言いました。「悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか」「そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい」
 同様の体験が私にもあります。以前、あるご奉仕が任されたのですが、思うような実を結べず自分に失望していました。ところが神さまは、そんな私にこの聖書の箇所から、「よくやった。忠実なしもべだ」と語ってこられたのです。耳を疑いました。どれをとって忠実と言えるのでしょう。しかし神さまはよくやった、と言ってくださるのです。
 神さまが見ておられるのは「忠実さ」であり、また「用いる」ということです。小さな事に忠実でありましょう。神さまが評価してくださるのは私たちの能力ではなく、忠実さであるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月6日号(第948号)より転載—



2017年7月28日金曜日

結 婚
 かつて、某さんの所に預言者が来た時、預言者が言いました。四方の壁から「結婚、結婚」という声がする、というのです。大当たりでした。
 彼は、少年のころから結婚を祈っていて、それはもうかなりの年月になっていました。部屋の壁に染み入るほど熱心に求めていたのです。
 人が思うよりはるかに待たされ、試され、そしてついに某さんに約束の成就の時が来ました。今では美しい奥さまと3人のお子さんに恵まれ、幸せに暮らしており、神の祝福を見ています。
 私は結婚のために祈ってほしいと、よく人から頼まれます。体験から言えば、結婚は、導かれているならば、「時」が来たら、すんなりと収まるべきところに収まります。案ずるには及びません。
 また、人生は、結婚だけが選択肢ではありません。さまざまな生き方があり、それを決めるのもまた自分です。とはいえ、ソロモンの書いた伝道者の書には、「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ」(4章9節)と書かれており、結婚は大きな祝福です。
 マルコの福音書10章でイエスさまはこう語られました。「しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです」(6~8節)
 今は、同性婚が認知されていますが、聖書から見ると、結婚は前述のように、1人の男と1人の女によって、神の導きと両性の合意のうちに認められるものであり、聖書は同性婚を決して認めてはいません。
 結婚の奥義は2人のものがもはや1人であるという神の宣言にあります。「こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」(9節) (イスラエル北野)


み声新聞2017年7月30日号(第947号)より転載—


2017年7月21日金曜日

圧倒的な勝利者

 クリスチャンになって、本当に驚くのは、自分の人生を顧みて、悪い事というのが無くなってきたということにあります。
 以前の私は、問題だらけの人間で、人生は暗く重いものでした。
 しかし、イエスキリストをわが主として救いにあずかり、さらに「すべてを感謝する」という教えを通して、今や、たとい何であろうと、「それだけで不幸」だというものは世には無いのだという確信を頂いています。
 私たちは神さまに深く愛されています。しかし、病気や事故など、なぜこんな事が許されるんだ、ということが世の中には数多くあります。けれども、神はそれをことごとく益と変えられます。
 ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書かれています。
 さらに同35節から37節には、こう続きます。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」。私たちを愛してくださった方とは、もちろんキリストのことです。
 こういう訳で、どんな問題にあっても、死であってさえ、私たちは恐れるに足りません。ダビデは詩篇で、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」(23篇4節)と歌いました。主はどこまでもあなたと一緒に歩んでくださいます。イエスを信じる私たちは、あらゆる場面において圧倒的な勝利者であるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月23日号(第946号)より転載—



2017年7月14日金曜日

偶  像 
神は、モーセを通してイスラエルに十戒を与えられました。その第2戒は、偶像に関するものでした。出エジプト記20章4、5節には次のように書かれています。「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。(中略)それを拝んではならない。それらに仕えてはならない」
 偶像礼拝は、神が嫌われるものです。というのは、全て偶像は人が勝手に造ったものであって、それは偽りの神だからです。そのむなしさに関しては、イザヤ書44章をお読みください。
 偶像を造ったのは人です。真の神は唯一の創造主であり偉大であり、世界も神をお入れすることができません。その栄光をむなしいものとしているのが偶像です。
 19節にはこう書かれています。「彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない」
 ここでいう木の切れ端というのが「偶像」です。生ける真の神がおられるのに顧みようとはせず、自分が暖まった、あるいは調理に使った木々の残りで像を造り、その像を勝手に礼拝しているのが、偶像礼拝の実情なのです。神さまの怒りはもっともだと思いませんか。
 生ける神に引き換え、偶像の神々は何の力もありません。何もできません。偶像の神は、お世話をされなければ移動することさえもできません。こんなものが救いや力になるでしょうか。
 しかし、真の神はイエス・キリストを通して、ご自身を現されています。この方こそ主であり、私たちの救いです。
 むなしい偶像に心を留める者は、自分への神の恵みを捨てます。真の神、イエス・キリストを信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月16日号(第945号)より転載—


2017年7月8日土曜日


ふるさと
 ふるさと、という言葉に、私は甘く切ない思いを抱きます。これは私に限ったものではなく、人が等しく持つ感情のようです。昔から多くの詩人がふるさとを詠みました。
 有名なところでは、「ふるさとは 遠きにありて思ふもの…」と書いた室生犀星で、石川啄木も『一握の砂』でこう述べています。「ふるさとの山に向かひて 言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」。
 私は18歳で上京するまで、四国の鳴門で生まれ育ちました。瀬戸内の穏やかな海と雄々しい太平洋の黒潮が混じり合う鳴門海峡の海の青さと、それを映す空の青さは、私の根っこにある原風景で、私の地上のふるさとはそこにあります。
 その上にクリスチャンである私は、もう一つのふるさとがあります。それは天国、天の故郷です。
 イエス・キリストを救い主として信じるようになった私は、自分が死んだら天に迎え入れられるのだということを知っています。
 ヨハネの福音書14章でイエスさまは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(18節)とも、「私の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです」(2節)と語られました。
 それにしても、一体ふるさとの何がこんなに懐かしいのでしょう。思うに、人の心には、真のふるさとである「天」に対する思いがもともとあって、その思いが地上のふるさとに対する思いと重なっているのではないでしょうか。
 地上での歩みは仮の人生です。終わりがあります。しかし、主イエスを信じるなら、私たちはまことの天に迎え入れられ、神とともに永遠という時間を過ごすようになります。天国こそ、私たちの永遠のふるさとです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月9日号(第944号)より転載—

2017年7月3日月曜日

 聖書にハンナという女性が登場します。彼女はエルカナという人の妻でした。しかし、エルカナにはもう1人の妻がいました。ぺニンナといいます。ぺニンナには子どもがいましたが、ハンナにはいません。主が彼女の胎を閉じておられたからです。でも夫エルカナはハンナを愛しており、ハンナには特別の受ける分を与えていました。
 それを知っているぺニンナはハンナを憎み、ハンナが子のことで気をもんでいるにもかかわらず、それをひどくいら立たせるように仕向けました。このため、ハンナは泣いて食事をしようともしませんでした。
 募る憂いにハンナは主の宮に行き、「主に祈って、激しく泣いた」、こう聖書は書いています(サムエル記第一1章10節)。
 そして祈りの中で、ハンナは誓願を立てました。彼女は「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め」「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」(11節)。こう祈り得たのです。彼女の顔は、「もはや以前のようではなかった」(18節)と言います。
 翌朝早く、彼らは主の前で礼拝をし、家へ帰って行きました。主はハンナを心に留められ、ハンナはみごもり、男の子を産みました。その子こそ、イスラエルの代表的な預言者サムエルです。
 神さまはハンナを愛しておられ、この先イスラエルにとって非常に重要な人物を、ハンナの祈りを通してイスラエルに与えられました。
 私たちもまた、ハンナのように募る憂いやいら立ちに苦しむことがあるでしょう。このような時には、全ての事について感謝して、心を注ぎ出して祈りましょう。その祈りはあなたの人生を変え、また世界を変えることになるかもしれません。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年7月2日号(第943号)より転載—

2017年6月29日木曜日

刈り込み
 私の子守であるHさんは、盆栽を趣味としていました。休日になると台に鉢を載せて、くるくる回しながら不要な枝を刈り込みます。
 その様子は、イエスさまが、ヨハネの福音書15章で語られたことをほうふつとさせます。イエスさまは「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(12節)と語られました。私たちは、イエスさま流に言うと、ぶどうの木に継がれた枝であって、多くの実を結ばせようと、刈り込みの御手が入るのです。
 それは時には厳しく、心痛むものです。しかし、「後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(へブル人への手紙1211節)と書いてあります。
 神さまは私たちの霊の父です。刈り込みが許されることについては、このように書かれています。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたが、だれでも受けるこらしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。(中略)肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」(同7~10節)
 神さまは愛のお方です。ですから、その叱責(しっせき)は何よりも尊いと私は思います。なぜなら、その叱責は必ず私たちを鍛え、成長させ、そして、神さまのみこころを行う者へと建て上げていくからです。神さまの刈り込みを感謝しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年6月25日号(第942号)より転載—

2017年6月18日日曜日

ザアカイ
 ザアカイは、エリコに住む取税人の頭です。エリコは交通の要所で、地の利を得て、彼は莫大(ばくだい)な富を築きました。しかし、人々は不正を行い、税を取り立てたザアカイのことを、罪人(つみびと)と呼び、彼を嫌っていました。
 イエスさまがエリコに入ると、大勢の群衆がイエスさまを取り囲んでいて、背の低いザアカイはイエスさまを見ることができません。また、ザアカイが見えるようにと場所を譲ってくれるような人も誰もいません。
 そこでザアカイは、イエスさまを見ようと前方に走り出て、いちじく桑の木に登りました。イエスさまはちょうどそこを通り過ぎようとしたところで、ザアカイを見るとこう言われました。
 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」(ルカの福音195節)
 ザアカイは大喜びでイエスさまを迎えました。人々はそれを見て、イエスさまは罪人のところに行って客となられた、とつぶやきました。しかし、ザアカイは気にする様子もなく、イエスさまを迎えます。そして、宴たけなわになると、ザアカイは立ってイエスさまに言いました。
 「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8節)
 それを聞いたイエスさまは、「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」(9節)と語られました。
 確かにザアカイは罪人でした。しかし彼は、罪人のところへ行って客となられたと語った群衆よりも、はるかに救いに近かったのです。イエスさまの愛は彼を立たせました。あなたのところにもまた、イエスさまは来てくださいます。ザアカイ同様、子どものような心を持って神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年6月18日号(第941号)より転載—

2017年6月12日月曜日

 
 孟子は性善説を説き、人の本性は善であると語りました。荀子は性悪説を説き、人の本性は悪であると語りました。どちらであるかという議論は昔からさかんになされています。
 神さまが人をお造りになったので、人はもともと良きものであったはずです。しかし、人類の祖であるアダムとエバは、禁断の実を食べ、神に背き、罪を犯しました。そこから人類に死が入ったのです。罪は死をもたらし、死が人を支配するようになりました。ですから、性善説にも性悪説にもそれぞれ一理があります。
 また、人はよく赤子、幼子を前にして、罪も穢(けが)れもない子たち、と言います。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 私には、年子の妹がいます。彼女が誕生して、自宅へ帰ってきた時、私は窓辺でずっと外の景色を眺めていたそうです。「こっちに来て、赤ちゃんにあいさつして」と呼ばれたところ、一直線に走って来て、あっという間に、布団に寝かされている赤ちゃんの上を踏んで次の間に走り去って行ったそうです。
 げに恐るべきは幼子の嫉妬です。産まれてまだ1年そこそこの幼子でさえ、母の乳房(ちぶさ)をめぐると、大人と同じように嫉妬の情を抱いたのです。人の罪は何と根深いものでしょう。
 罪は行いに限らず、何もしなくても、アダム以降、私たちの存在自体に組み込まれている罪があります。それを原罪といいます。この原罪故に、人類は神を知ることができず、神の祝福を受けることができません。それ故、イエスさまは、私たちを贖(あがな)い出すため世に来られ、十字架で死なれ、3日目に復活し、救いを成し遂げてくださいました。主イエスを信じるなら、主は永遠のいのちと祝福を与えてくださいます。心にイエスさまをお迎えしましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年6月11日号(第940号)より転載—

2017年6月7日水曜日

種蒔きのたとえ
 最近、悩んでいる事があります。物忘れがひどいのです。特に大事な事を忘れてしまいます。年齢から来るのと思っていましたが、必ずしもそうではないようです。霊的な側面も考慮していく必要があるようです。
 救われて半年ばかりたったころ、日曜日の礼拝で牧師が、興味深い事を語りました。サタンは神のことばを取りに来るのだ、というのです。これだけを聞いているなら、極端な意見だと冷笑を買うばかりでしょう。
 しかし次に、牧師さんは「先週の私の説教は何を語ったか覚えていますか」と私たちに問い掛けられたのです。これを聞いて皆は、一様にあぜんとし、言われてみれば…と顔を見合わせました。きれいさっぱり忘れてしまっているのです。
 ルカの福音書では、8章に「種まきのたとえ」と呼ばれる箇所があります。5節にはこのように書かれています。「種を蒔(ま)く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった」
 この一文の解き明かしは12節です。「道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです」
 前週の礼拝説教を覚えていないのは老化のせいではなく、悪魔が神のことばを持ち去ってしまうからなのです。こういう訳で、物忘れは老化もありますが、それ以上にサタンが介在しているのも多くあります。
 ですから祈りが必要です。敵は神のことばを奪い、私たちを祝福から引き離そうとしているからです。祈りをもって、正しい心で神のことばに聞きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年6月4日号(第939号)より転載—

2017年5月28日日曜日

 いじめ
幼子から、老人に至るまで、どの場面もいじめがあります。これは私たちが原罪を持つ罪人であることを証明しています。一人一人はそれなりにわきまえを持ち、普段は特別悪人だというわけではありません。しかし、集団になると異なります。
 ソロモンは、箴言で、「憎しみは、うまくごまかし隠せても、その悪は集会の中に現れる」(2626節)と書きました。いじめる側は集団ですから、特別な連帯感の中で、さほどの罪の意識なく、その人を殺すようなことに加担してしまうのです。
 詩聖タゴールもまた、「『人々』は残酷だが『ひと』は優しい」という言葉を残しました。優しい「ひと」を残虐な殺人者に変えてしまうのが、罪であり罪の力です。個人は良い「ひと」であったとしても、「人々」すなわち集団になると、人は別な顔を見せる、というのです。
 私のイメージでは、いじめはアマゾン川に生息するピラニアです。頑丈な牙を持ち、川に入ってきた家畜に一斉に飛び掛かり、遠慮会釈なく食い尽くします。
 ピラニアが一斉に襲い掛かるありさまは、特定の人をターゲットにした集団のいじめに酷似しています。多くの場合、この戦いは多勢に無勢です。死にたくないのはやまやまでしょう。しかし、もう道がない。追い詰められて、最後の選択肢、死を選んでしまうのです。
 イエスさまもまた、いじめを知っておられたと言えるでしょう。無実なのに有罪とされ、唾をかけられ、平手で打たれ、十字架を担わされました。
 神さまは、誰が死ぬのも望んでおられません。イエスさまはあなたを知ってくださっています。あなたの救い主であり、助け主です。そういう訳で私たちは死ではなく、神にあっていのちを選びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年5月28日号(第938号)より転載—

2017年5月21日日曜日

ヨセフの2年間

詩篇に「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(105篇19節)という一文があります。彼とはヨセフのことです。ヨセフは、ヤコブの12人の息子の中でも特に愛された子どもでした。
 ヨセフは自分が将来偉くなることを知っていました。しかし子どもの浅知恵でストレートにその事を言うものですから、それがまた、兄たちのねたみを買い、彼はエジプトへ奴隷に売られました。そこから今度は無実の罪を着せられて、囚人になり、示しとは真逆の人生をたどっていきました。
 そのヨセフに転機が訪れました。囚人となったパロの献酌官(けんしゃくかん)と調理官の夢を解き明かしたことから、彼らに無実の自分の事を話し、パロにとりなしてくれるよう願いました。彼はこれで牢獄から出られる、と思ったでしょう。ところが、彼は忘れられたのです。ヨセフの希望はついえました。本当の試練はむしろそこからでした。その後、献酌官がヨセフの事を思い出すまでの2年間、ヨセフは待たされ試され、忍耐の炉で練られました。
 しかし、この2年間でヨセフは神に栄光を帰す器として立て上げられました。彼は信仰の試しを忍び通したのです。神のことばはヨセフの上に速やかに成就し、彼が幼い時に見た幻通り、1日にして彼はエジプトの大臣となりました。
 待つこと、試されること、耐えること、これらは試練の3点セットです。私たちにとって試練は喜ばしいものではありません。しかし、どのような試練も、忍耐の末に私たちに与えようとしておられる神さまの約束の成就に比べれば、取るに足りないものだと私は考えます。あなたが受けた約束もまた、時が来たなら実現します。忍耐をもって、最後まで堅く握りましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年5月21日号(第937号)より転載—

2017年5月17日水曜日

贖いの代価
 なぜイエスさまは天からこの地上に来てくださったのでしょうか。なぜ父なる神さまは、ご自身のひとり子イ

エスさまさえも惜しまずに私たちに下さったのでしょうか。なぜイエスさまは神の子としてのあり方を捨てて、

十字架で死なれたのでしょうか。
 それは、私たち一人一人をこよなく愛しておられるからです。ヨハネの福音書にはこのように書かれていま

す。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりと

して滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16節)
 御子イエスさまは、神さまであり、父なる神のひとり子です。神は世を愛し、また人を愛されました。それ

故、私たちがひとりとして滅びることのないよう私たちを贖(あがな)う、救いの計画を用意しておられました


 私たち人間は罪人で、その行き着くところは死と滅びです。誰も私たちを救うことができません。だからこ

そ、神さまは時を定め、イエスさまを世に送ってくださったのです。イエスさまは何の罪もないお方です。屠(

ほふ)られる子羊さながらにその身に私たちの罪を担い、カルバリの丘で、十字架で死なれました。流され

たこの主の血潮は私たちの値段、贖いの代価です。ここにイエスさまは、贖いを成し遂げられ、3日目に

復活されました。
 このキリストの前に、自らの罪を告白し悔い改めるなら、どんな罪であっても全て赦(ゆる)されます。私

たちは、あたかも1度も罪を犯したことがない人が受けるかのような、完全な神の祝福を受けるものとなっ

たのです。そして、主の復活をもって人類は死にも打ち勝ちました。私たちには、永遠のいのちが与えられ

ています。あなたの心にイエスさまをお迎えしましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年5月14日号(第936号)より転載—

2017年5月7日日曜日

天の故郷
 疾風怒濤(どとう)の時代とはよく言ったもので、思春期の頃、何度か自殺を考えました。あの頃は自分を愛することができないで、死ねば自分は無くなるものだと思っての事でした。サタンにだまされ、知りもしない愛なる神さまに反逆する心を持ち、死を愛し、あと一歩で永遠の滅びに行くところでした。
 しかし神さまはあわれんで下さり、惜しんでさえ下さり、救いにあずからせて下さいました。
 そして、この中で私は、たとえ自分が死んでも自分は「無」にはならないのだ、ということが分かってきました。自分の肉体は滅ぼせても、霊を滅ぼすことなど、神さま以外できることではありません。「死んだら無になる」とはとんでもない教えです。神さまがおられる限り、私たちは神に対して生き続けています。自殺なんかしても何の解決にもなりません。
 こういう訳で、クリスチャンになって死生観が変わりました。自殺の一件も、刃が欠け鈍刃になったようになり、意味がなくなりました。救われて私は、自分の死後の行き先は、「無」でも「滅び」でもなく、神が下さる永遠のいのちにあり、天の御国であると知ったからです。
 死は終わりではありません。むしろ永遠という時代のスタートに立つ新しい始まりです。誰であっても、何をしたとしても、イエスさまの救いを頂いた私たちは、神の子とされ、永遠のいのちが与えられています。そして、人生の終わりに、やがては天に迎え入れられるのです。そこは私たちの永遠の故郷、天の故郷です。神さまは私たちの目の涙を拭って下さり、その全ての労苦を慰めて下さいます。
 死は人類の最大にして最後の敵と言われています。しかし恐れるには及びません。信仰は既にそれに打ち勝っているのですから。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年5月7日号(第935号)より転載—

2017年5月4日木曜日

神の守り
 先日、主の助けと守りのわざを見ました。
 私たちは北海道に住んでいます。広大な北海道での宣教には車は不可欠で、毎月2000キロは走っています。12月に車検を通した折、タイヤの不自然なへりを指摘されました。しかし、そのまま車検は通ったので、差し迫った問題ではなかろうと思っていました。
 そうこうするうちに、オイル交換の時期が来て、作業場で、例のタイヤの箇所を見せてもらうことになりました。すると、何とすり減ってワイヤがむき出しになっていました。家から工場までは、車で5分ほどの距離です。しかし、その5分の間にもバーストが起きても何ら不思議ではない、と整備の人に言われました。
 私たちは驚きました。翌日には小樽に、次いで室蘭に、函館にと、宣教の予定がありました。もしも、バーストの危険を知らずに運転していれば、間違いなく途中で大事故を起こしたことでしょう。よくあの時タイヤを点検したものです。そこには主の特別なご介入があったと思います。
 そういえば2、3カ月前から車に乗るたびに、危険だ、という思いが来て、そのために祈っていました。神さまは、ただ一方的な恵みの手によって、危険から私たちを守ってくださったのです。
 詩篇127篇1節に、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」と書かれています。私たちはあれこれ動きますが、主がしてくださらなければ何も成らないことを聖書は語っています。人の手のわざはむなしいのです。
 神さまは救い主です。また折にかなった助け主です。あなたの人生にも神さまが必要です。主を求めましょう。そしてあなたもまた、神が下さる恵みのうちを歩んでください。
 
(イスラエル北野)
み声新聞2017年4月30日号(第934号)より転載—

2017年4月23日日曜日

イエスは医者です

 マルコの福音書2章で、イエスさまはこう言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(17節)。これは、どういう意味でしょうか。
 これは、イエスさまが、アルパヨの子レビの家で食卓に着かれたときに語られたことばです。イエスさまの食卓にはパリサイ人や律法学者、彼らエリートのほかに、罪人や取税人も身を寄せていました。それをとがめたところ、イエスさまは前述のように語られたのです。
 顧みると、私にも医者が必要な年月がありました。病人というものは、社会のしわ寄せをもろに受ける、弱い立場にあります。一体、弱い私では受け入れてもらえないのでしょうか。病気になったのは、私のせいでしょうか。病苦もさることながら、闘病中の心の苦しみはそれ以上でした。さげすむ目、好奇の目にさらされることもしばしばで、医者であっても心無い言葉を語ることがあり、救いがありませんでした。
 箴言1814節には「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか」という一節があります。誰にも理解されないこのひしがれた心の苦しみを、イエスさまは知ってくださっています。
 またイエスさまは、マタイの福音書1220節でご自身のことを「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」と語られました。
 世では、病人や弱い者を見下すことが往々にしてあります。しかし、イエスさまは、あなたと同じ目線であなたに語り、ありのままのあなたを愛してくださり、また、あなたを守り、あなたの力となってくださいます。イエスさまは本当のお医者さまです。あなたの救い主です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年4月23日号(第933号)より転載—

2017年4月17日月曜日

信 仰
 私は信仰に入って34年になります。しかし、信仰に関してはまだまだ幼子です。
 信仰を用いましょうという場面に出くわすと、信仰はどうやったら持てるのだろうと、まず苦手意識が頭をもたげてきます。感謝したり、飛び上がってみたり、まるでオリーブの実を搾油するように、全身から搾り出すような、そんなお粗末なあんばいです。
 これに関しては、サタンが関与していると私は思います。神さまに頼まなくても普通に進んで行けるのならそれで良いじゃないですか。そのような思いが入ってくるのです。一見もっともと思える世の言葉ですが、私たちを信仰から、また生ける神から遠ざけていきます。
 多くの人が信仰は難しいものだと思っています。けれども、実は非常に簡単なものなのです。幼子でもできます。ポイントは「行い」にあります。ヤコブ書には、「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは、死んだものです」(2章17節)と書いてあります。信仰は行いから入ると生きたものになります。信仰と行動には密接な関わりがあるのです。
 以前、教会にMさんという人がいました。Mさんは電話を持っていませんでした。仕事上不便なので、これが与えられるようMさんは祈り始めました。そして信仰を使いました。不要になった電話機をもらって、コンセントを入れ、「Mです。はいそうです」と語り掛けたのです。もちろん回線はつながっていません。にもかかわらず、つながっているかのよう振る舞ったのです。この信仰は実を結び、速やかに回線をつなげる必要が満たされました。
 現代においても信仰は生きて働きます。信仰の踏み出しは、神のご栄光の現れとなります。私たちは信じて祈り、信仰を持って進みましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月16日号(第932号)より転載—

2017年4月12日水曜日

リバイバルソング
 顧みると、私の人生を変える素晴らしい場面にはいつも賛美がありました。賛美には特別な力があり
ます。
 18歳の時、私は、M教会の祈祷(きとう)室で救いを受けました。事の始まりは、牧師さんが、今ここ
に、聖霊さまが満ちているので、祈ると神さまのご自由なみわざが現れますよ、と祈りを勧めてくださったこ
とによります。初めて聞く話にちゅうちょしましたが、何が起こるか知りたいという気持ちが勝って、祈ってい
ただくことにしました。
 祈りの中では「平安」という言葉が繰り返し語られました。すると、からだが右へ右へと押されるのです。
ついに畳の上に身を投げ出してしまいました。恥ずかしくて、今もう身を起こそうとしたところ、不意に賛
美の歌に打たれました。昔、日曜学校で習った「いつくしみ深き」です。「などかはおろさぬ負える重荷を
」の一節が私の霊に触れ、私は主の元に帰りました。
 こうして、賛美のうちに私は救いにあずかりました。ちょうどその頃、アメリカでヒットした『リバイバルソング
』が、海を越えて日本でも歌われるようになっていました。特に「シング・ハレルヤ・トゥ・ザ・ロード」という
歌は、単純でありながらも、きよさに満ち、歌うと鳥肌が立つほど深いご臨在がありました。こうして賛美
の中で、私の霊性は豊かに育まれていきました。
 あれから30年。今では、私たちの教会にも多くのオリジナルゴスペルが与えられ、多くの恵みとともに、
主はさらに近いお方になりました。
 詩篇22篇3節には、「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と
書かれています。賛美の中に主はおられます。私たちは賛美を通して主と交わることができます。リバイ
バルの歌を歌いましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月9日号(第931号)より転載—

2017年4月2日日曜日

試練と忍耐
 ヤコブの手紙1章には、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(2節)とも、「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」(12節)とも書かれています。
 試練は、できれば避けたいものです。しかし、耐え抜くことを通していのちの冠を受ける、というのです。確かに私たちの霊的成長は試練を通して全うされます。しかし、ここには落とし穴もありました。
 というのは、20年ほど前の事になりますが、ある男性が興味深いことを証ししておられたのです。それは、試練のことです。その人は家族を巻き込んだ大きな試練に入りました。困難の中で妻や子どもは必死になって解決を祈っていましたが、その人は冷めた傍観者的な態度を取り、心ひそかにこの問題から退いていたといいます。
 やがて、時が満ち、試練が喜びに変わる日がやってきました。神さまによる問題解決が現され、試練を最後まで受け切った妻子は、神さまとそのみことばの真実さを体験し、確信を持って次の段階へ進みました。しかし、試練から逃げた自分は、その信仰の確信にはあずかれなかった、というのです。受けるべき訓練を受けそびれたのです
 もし皆さんが今試練にあるなら、真正面からそれに向かい合い、主が良しと認めるところまで耐え抜いてください。試練は信仰の確信を与えてくれます。その確信は偉大なものであり、いのちの冠さえも与えられるものなのです。
 さまざまな試練が許されるのは、神さまや信仰に対しての確信を受けるためです。試練を通して現される、神さまの祝福の計画があります。誘惑に立ち向かい、忍耐を働かせ、召しを全うしましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年4月2日号(第930号)より転載—

2017年3月29日水曜日

愚かな娘と賢い娘
 聖書は往々にして、奥義をたとえで語る傾向があります。聞く耳のある者だけが聞きなさいということなのでしょうか、マタイの福音書25章の例話もその一つで、再臨(イエス・キリストが王として再び地上に来られること)に対する備えを語っています。
 天の御国は、それぞれがともしびを持って花婿を迎える10人の娘のようだと言います。10人のうち、5人は愚かで5人は賢い娘でした。愚かな娘はともしびは持っていましたが、油を用意していませんでした。他方、賢い娘はともしびとともに入れ物に油を入れて持っていました。
 花婿はキリストのことであり、花嫁はみからだなる教会を指しています。花婿が来るのが遅れたので、皆うとうととしていたところ、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がしました。娘たちは、皆起きて、自分のともしびを整えました。ところが、愚かな娘たちのともしびは今にも消えそうでした。そこで、「油を少し分けてください。私たちのともしびは消えそうです」と賢い娘たちに言ったところ、「いいえ。あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。店に行って、自分のをお買いなさい」と言われました。
 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来て、用意のできていた娘たちは、彼と一緒に婚礼の祝宴に行き、戸が閉められました。愚かな娘は、ご主人さま、開けてくださいと願いましたが、心を変えてもらう余地はありませんでした。
 イエス・キリストは、この終わりの時代に再臨されます。まだ来ないからといって世にふけり、あるいは眠っているなら、その日は盗人のようにやってきます。私たちは、信仰のともしびとともに、聖霊に満たされていることが必要です。目を覚まし、忍耐を働かせて再臨に備えましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月26日号(第929号)より転載—

2017年3月20日月曜日

心の貧しい者は幸いです
 マタイの福音書5章には、「山上の垂訓」と呼ばれるイエスさまの説教が記されています。その中の一つに「心の貧しい者は幸いです。天の御国
はその人たちのものだから」(3節)という一節があります。
 心の貧しい者という表現は、心の豊かさに飢え渇いている者と読み替えることができます。神さまというお方は人の心を読まれ、何でもお見通し
です。そして私たちが、強さにあるより、むしろ弱さにあることを良しとされるお方です。
 なぜ心の貧しいことが心の豊かであることに勝っているのでしょうか。それは、心が豊かであると、満ち満ちていて、もうそれ以上入るべき心の隙
間がないからです。主を心の中心にお迎えしようにも、その余地がないのです。グラスの水を捨てないでは、新しい水を注ぐことはできません。こう
いう訳で、心の貧しいことは、心の豊かさに勝って、神の前に高価で尊いのです。
 また、イエスさまはご自分のことを「罪人の主」であると言われました。その通り、いち早くイエスさまの元にやって来たのは遊女や取税人です。彼
らは、社会的には罪人というレッテルを張られた者たちです。しかし、幸いなことに、彼らは自分たちは罪人であるということを自覚していました。彼
らは心の貧しい者でした。ですからイエスさまがどのようなお方か、誰よりも早く知るに至ったのです。
 イエスさまもまた、天の御国はあなた方のものだ、と語ってくださいました。私たちは皆、罪人です。罪過の中に死んでいる私たちを贖(あがな)う
ためにキリストイエスは世に来られました。さばくためでなく、赦すためにイエスさまは来られました。私たちが弱さを自覚する時、また罪人であること
を自覚する時、イエスさまの愛と赦しが私たちを包みます。このお方に帰りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月19日号(第928号)より転載—

2017年3月13日月曜日

富める若人
イエスさまの宣教途中、1人の青年がイエスの前に走り寄り、御前(みまえ)にひざまずいて尋ねました。
 「永遠のいのちを頂くにはどうすればよいのですか」。イエスさまは守るべき教えとして律法を挙げましたが、青年は「先生。私はそのようなことはみな、小さい時から守っております」と言いました。それを聞くとイエスさまは、彼を見つめ、いつくしんでこう言われました。
 「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについてきなさい」
 するとその青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去りました。「なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである」と聖書(マルコの福音書10章)は記しています。
 人は、神さまに従う、といっても、ここまでは従いますが、これ以上は従いません、という弱さを持ちやすいものです。
 青年も、落ち度なく律法を守ってはいました。けれども、全財産を捨てるとなると、話は別でした。富を投げ打ち、身一つでキリストに従っていく道を選択することは、彼にはできないことでした。
 彼は律法を完全に守り行うことはできませんでした。そう、できないのです。お弟子たちは「それでは、だれが救われることができるのでしょう」と言いました。
 イエスさまは「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます」と言われました。
 全財産を捨ててまでして主に従うことは、人にはできないことです。しかし、神さまにより頼むなら神は従わせてくださいます。そして、全てをささげきった人生に、神さまは大いに報いてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年3月12日号(第927号)より転載—

2017年3月5日日曜日

信仰を学びましょう
 夜中の3時ごろのことです。イエスさまはガリラヤ湖の上を歩いて、先に舟で出発した弟子たちの元に行かれました。弟子たちは「あれは幽霊だ」と言っておびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げました。
 イエスさまは、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われました。すると、ペテロは答えてこう言いました「主よ。もし、あなたでしたら、私に水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」
 イエスさまのことばは必ずその通りになることをペテロは知っていました。イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。
 そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスさまの方へ行きました。ペテロはガリラヤ湖上を歩きました。奇跡が起こったのです。
 ところが状況は一転します。ペテロは波を見て怖くなり、沈みかけました。「主よ。助けてください」と叫ぶと、イエスさまはすぐに手を伸ばしてつかんでくださり、「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」とおっしゃいました。
 これらは皆、マタイの福音書14章からの引用です。この箇所から私たちは、信仰について学ぶことができます。イエスさまを見ている限り、ペテロは湖の上にあっても歩くことができました。イエスさまとは神のことばです。神のことばを見続けるなら、その通りになります。しかし、みことばから目を離してしまうなら、ペテロが溺れたように、私たちも現実に溺れ、何の奇跡も見ないでしょう。
 イエスさまは、「なぜ疑うのか」と言われました。信仰はあるかないかどちらかです。大切なのはこの一言です。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル人への手紙122節)
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年3月5日号(第926号)より転載—

2017年2月26日日曜日

武器を取りましょう
 先日、ギデオンが、戦いで、戦士300名で13万5000人のミデアン人に打ち勝ったという話を
紹介しました。神の戦いはいつも圧倒的な勝利になります。
 少年ダビデは、大男の戦士ゴリアテに、たった一つの石で勝利しました。また、預言者エリヤはバ
アルに仕えるバアルの預言者450人に対して、たった1人で立ち向かい勝利を得ました。
 神に頼るなら大きな勝利が現されます。どんなに勝ち目のない戦いに見えても、それが神の陣
であるなら必ず勝利します。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。こう
いう訳で、ピリピ人への手紙4章には次のような聖書のことばがあります。
 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがた
の願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなた
がたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(6、7節)という一文です。
 私たちは、思い煩う生きものです。あの心配に、この試練、この戦いと、問題を前に、私たちの
心は千々に乱れます。しかし、神さまは私たちの全てをご存じであり、感謝の祈りによって、私たち
の心と思いを知り、また、解決を与えてくださいます。
 ローマ人への手紙8章26節には、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と書かれていま
す。神さまは、あなたにある問題をあなた以上にご存じです。そしてあなたの戦いを戦ってくださる
お方です。
 主に信頼しましょう。そして神さまが与えてくださった感謝という武器を用いましょう。主は必ず勝
利を現してくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年2月26日号(第925号)より転載—

2017年2月22日水曜日

御声に聞き従う

 1989年8月、フィリピン・ダバオで、刑務所の囚人たちが待遇改善のため人質を取った結果、銃撃戦となる事件が起こりました。日本人が刑務所に来ると聞き拉致を周到に用意した計画でしたが、日本人は来ず代わりにオーストラリア人宣教師であるジャッキー(ジャクリーン)・ハミルと現地の教会のメンバーが赴きました。ジャッキーと教会のメンバー合わせて5人が殉教し、事件は世界的なニュースとなりました。
 このチームは不思議な事が重なりました。旅行社が飛行機のチケットを間違え、またすぐに変更できるだろうと思われたのに、どうしても席が取れないのです。宣教はみこころなのになぜ?と思いました。
 何日間かの祈りの後、ついにチームリーダーはこのままで行く、これが導きだ、と判断されました。旅行社が間違えたスケジュールのままで行くことが導きだと、神の御声を聞いたのです。
 この後、チケットが変更できるという連絡が入りました。しかし、お断りして最初の予定のままで行きました。それによって奉仕の予定は変更となり、結果的に刑務所の奉仕には行けませんでした。これは、日本チームへの守りの手でした。詳しくは、パウロ秋元著『ダバオ刑務所事件の真相』(み声新聞社)をお読みください。
 本当によく神の御声を聞けたと思います。もし聞き間違えたなら、私たちの命に危険があったでしょう。結婚したばかりの私は9カ月で夫を亡くすところでした。私たちはすれすれのところで守られました。確かにこのような聞き従いは、一朝一夕にできるものではありません。しかし、神さまは私たちの耳を成長させてくださいます。御声に聞き従うことは確かな道です。共に学びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年2月19日号(第924号)より転載—

2017年2月12日日曜日

 
 今年もまた、長崎の西坂で日本二十六聖人殉教記念聖会が持たれます。
 約400年前、この西坂で、外国人6名、子ども3名を含む26名が信仰を全うし、十字架にかけられ、殉教の死

を遂げました。彼らは日本で最初の殉教者です。
 その西坂は、今は公園になっています。他にも殉教の記念館があり、前面には二十六聖人のレリーフがあります。

そして、その土台の所には次のような聖書のことばが刻まれています。
 「人若し我に従はんと欲せば、己を捨て十字架をとりて我に従ふべし(だれでもわたしについて来たいと思うなら、

自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい)」(マルコの福音書8章34節)。二十六聖人は

このみことばを体現していったのです。
 今でこそ、公に信仰を持つことが許されていますが、イエスさまを信じるなら殺されるという時代がこの日本にも確か

にありました。
 日本人といえばおっとりした善良な人たちという印象を持つ方が多いようです。しかし、日本人が日本人に対して

なした迫害の一つ一つは、非常に残酷なものでした。生かさず殺さずの取り扱いで、見せしめとはいえ人間がこんな

残虐な事を考えつくのかと疑うようなひどい仕打ちが老若男女問わず次々に実行されました。
 しかし、迫害の中で流された殉教者の血は、リバイバル(聖霊による信仰復興刷新)の種だと言われています。主

はその血に報われます。こういう訳で私たちはリバイバルを待ち望んできました。そして、その時が来ました。
 殉教者たちは、この世の命ではなく、永遠のいのちを見つめて天に凱旋していきました。彼らから学ぶ事は多いの

ではないでしょうか。(イスラエル北野)

み声新聞2017年2月12日号(第923号)より転載—

2017年2月7日火曜日

300名
300名。これが意味するところをご存じでしょうか。
 士師記に、ギデオンという神の器が登場します(7章参照)。当時、イスラエル人は主の目の前に悪を行っており、それ故、主は7年間彼らをミデアン人の手に渡しました。
 しかし、神さまはイスラエル人を愛しておられ、ギデオンの手でイスラエルを救おうとされました。
 ミデアン人の兵士の数は13万5000人でした。対するイスラエルは3万2
000人です。勝ち目のない戦いになるのは目に見えています。ところが神さまは、これでもまだ民が多すぎると言われたのです。「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って私に向かって誇るといけないから」というのがその理由でした。
 それで、神さまが、恐れおののく者は皆、家に帰りなさい、と告げたところ、1万人が残りました。しかし、それでもなお神さまは多すぎるとおっしゃいます。神さまはギデオンを通して彼らを水の所に連れて行きました。そこで、舌で水をなめたり、膝をついて飲む者をより分け、口に手を当てて飲んだ者300名だけを引き留め、戦士としました。
 ミデアン人との戦いは、この300名で行われました。300名は、角笛を鳴らし、つぼを打ち砕き、たいまつを握り、「主の剣、ギデオンの剣だ」と声を上げました。神さまはミデアン人を同士打ちにされ、イスラエルは勝利しました。300名が13万5000人に打ち勝ったのです。
 問題を前に、あなたの持っているものもさながらこの300名かも知れません。とても足りない、と思うでしょう。しかし、主が働かれると、そこに奇跡が起こります。神さまへの信頼を堅くしましょう。 (イスラエル北野)
み声新聞2017年2月5日号(第922号)より転載—

2017年1月29日日曜日


 幼い頃、鏡の前に立って遊ぶのが大好きでした。それを知っている父母はそっと近づき、鏡の前にいる私に向かっ
て繰り返し語るのです。「自分の顔に自信を持てるように生きなさいね。二十歳までは、お父さんお母さんが責任を
持ってあげるけど、二十歳を過ぎたら自分の顔は自分で責任を持ちなさい。心にあるものが顔に出てくるのよ」と言う
のです。
 思う節がありました。マタイの福音書6章22節には、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら
、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」と書かれています。『獄中からの賛
美』の著者であるマーリン・キャロザース氏はまさにその人でした。お交わりをさせていただきましたが、神さまが下さる
大いなる喜びを頂いて、目ばかりか全身光を放っています。一点の曇りもありません。
 モーセもまたこの事で神さまの栄光を現しました。彼は主に呼ばれ、シナイ山に登りました。主と語り終え、下山す
る時、彼の顔は主の栄光を写し、肌は強く光を放っていたことが聖書に書かれています。
 他にも、殉教者ステパノは殉教の直前に、その顔は御使いの顔のように見えた、と聖書は記しています。主と交わ
れば一つ霊となり、神さまの栄光を反映させ、世にあって強く輝きます。
 こういう訳で私たちは、主が下さる喜びの中を生きることができるよう、神さまに求めましょう。主を喜ぶことは力であ
り、その喜びは幾倍にも増え広がります。そして、あなたの喜びや、輝きを見た多くの人が、あなたを通して神さまを
見、神さまに立ち返っていくようになります。何と素晴らしいお計らいでしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月29日号(第921号)より転載—
愛を学ぶ所
教会はどういう所でしょう。素朴にそう思う人は多いでしょう。私の意見では、教会は「愛を学ぶ」
所です。そしてそれは「神を学ぶ」所につながっていきます。
世には多くの形の愛があり、神々とよばれる神もたくさんあります。その中から、ただ一つの真実、
あるいは本物の愛と出会うために、人の人生はあるのではないかと思います。
カルバリ山の十字架で、私は愛を知りました。約2000年前にイエス・キリストは世に来られ、
ご自分が預言者たちによって語られていた約束の救い主であることを証しし、お弟子たちを教え
育てながら、時至ってカルバリで十字架にかかって死なれました。
イエスさまは、神の御子であるにもかかわらず、その在り方を捨て、私たちと同じように肉を持ち、
肉において私たちの罪を担い、しかも最も厳しい十字架によって死に、私たち人類のために贖いを
完成させてくださいました。イエスさまが約束の救い主であることのしるしは、イエスさまが自ら予告
していたように3日目に復活を遂げられたことにあります。
イエスさまを世に送られた父なる神は、全能者であられ、誰も近づくことのできない光の中に住んでおられ、光そのものです。また、その姿を直接見た者はいません。世にいう神々など足元にも及びません。
神は愛です。イエスさまは神さまなので、その愛もまた完全です。このお方と出会い、このお方を
知ることによって、私たちはまことの愛を知り、愛を学んでいくのです。私たち人の愛は不完全ですが、イエスさまの愛は完全です。完全な愛を持つ方を通してでしか、本当の愛は学べません。
どうぞ、教会に行き、まことの愛と出会ってください。
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月22日号(第920号)より転載—

2017年1月15日日曜日

金銀より確かなもの
 私たちの人生は、よく四季に例えられます。かつて思春期があったように、老いて今は思秋期を迎えています。社
会の表舞台から少しずつ身を退け、後進に席を譲ることが求められてくる年齢です。
 五十の声を聞いて、私も、自分が死んだ後、子に何を残してやれるだろうかということを折節に考えるようになりま
した。未信者のKさんは、未婚のお嬢さんが一人で生きていけるよう、退職金に手を付けず残すことを決めました。
自分にはこれぐらいしかできないのだと力なく語った様子が印象的でした。
 一見、お金は万能です。金銭はあらゆる必要に応じます。ですから退職金を残したKさんはできる全ての事を行
いました。しかし、何とも救いがないのです。お金があるからといっても、一事が万事、全てが守られるとは限りません
。より確かなものは別にあるのです。
 ところで、使徒の働き3章に興味深い記述があります。生まれつき足のきかない男が、施しを求めて宮の門に運ば
れてきました。彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て施しを求めたところ、ペテロは「金銀は私にはない。し
かし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」。そう言って右手を取って立たせま
した。たちまち足とくるぶしが強くなり、男は歩いたりはねたりしながら、神を賛美し、宮の門に入って行きました。
 どんなにお金があっても、決して手に入れることのできないものを、この男は手にしました。金銀より確かなものは、
キリストであり、その御名です。子に残してやれるもの、それは、神さまご自身です。生きて働かれる神さまこそ、あな
たへの答えとなります。
 
(イスラエル北野)
み声新聞2017年1月15日号(第919号)より転載—


2017年1月13日金曜日

弱さを誇る
ペテロとパウロは、初代教会時代の建て上げに当たって双璧をなすキリスト・イエスの働き人でした。ペテロが無学な漁師であったのに対し、パウロは最高学府であるガマリエル門下に属するエリート中のエリートでした。
 初め、パウロはキリスト者を迫害しました。パウロはそうすることが神の御心だと確信していました。ところがダマスコヘ向かう途中、彼はキリストのことばを聞き、自分の誤りを知らされます。
 この体験以降、パウロは180度変わりました。パウロは「わたしはキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(ピリピ人への手紙3章8節)と告白するに至りました。
 さらに、パウロは、「わたし自身については、自分の弱さ以外には誇りません」(コリント人への手紙第二12章5節)とも告白しました。主もまた、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(9節)と語ってくださいました。
 私は18歳の時に救われ、この宗教のあまりの素晴らしさに献身しました。意気込みは強く、福音のためなら何でもするつもりでした。ところが、私にあてがわれた道は予期せぬ病でした。入院し、進むことも退くこともできず、弱さを味わいました。しかし、これが神の御旨だったのです。私の強い所ではなく、私の弱さこそが神さまの目にかなっているのだと知るに至りました。
 こういうわけで、今はパウロ同様、「むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(同節)と言い得るのです。弱さはキリスト・イエスにあって強さに変えられます。これこそ、神さまの栄光の現れです。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年1月8日号(第918号)より転載—

2017年1月2日月曜日

神への恐れ
 箴言9章10節に、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と書かれています。
 聖書には「主を恐れる」ということが繰り返して書かれています。主を恐れるとは一体どういうことでしょう。
 私が主を恐れることを学んだのは救われてすぐの頃でした。ある牧師が、神さまに祈り求めるということを教えてくださったので、私は、教会に通うための自転車を求めることにしました。あなたが生ける神であることを知りたいのです、自転車をください、そう祈りました。
 さらに、神が答えてくださったということが分かるように、具体的に条件を挙げて祈りました。ブランド物、鍵は二つ、黒いメッシュの籠、変速ギアがあることなどです。
 ところが、私はこの事で不信の罪を犯したのです。一方で神に求めていながら、私は人間的な手段に訴えました。友人から自転車をもらうよう約束を取り付けたのです。その自転車はリクエストを満たしていなかったですが、自転車には変わりありません。自転車が与えられた、と教会で語るつもりでした。
 しかし数日後、1本の電話が鳴りました。もらうはずの自転車が盗難に遭ったというのです。友人のごめんね、の声を遠くで聞きながら、これは、主の御手だと思いました。そして、強い恐れがやってきて、私は自分の二心を悔い改めました。
 その後、引っ越しすることを伝えに保証人さんと連絡を取ると、まさかの一言、向こうから自転車は要らないか、と語られたのです。見る前からそれがリクエスト通りの自転車であると確信しました。そしてその通りでした。神さまはご栄光を現されました。
 神を恐れることは奇跡の土台です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月1日号(第917号)より転載—