2021年10月26日火曜日

恐れ 

 恐れは、私たちの感情の1つですが、扱うのに厄介なものです。恐れは私たちを委縮させ、恐れさせているものの奴隷とならせます。ですから、恐れに勝利した人は、人生の成功者だと言っても過言ではないでしょう。

 かつて、難易度の高い空中ブランコに挑戦するあるサーカスの団員がいました。十分に訓練を重ねて来たので、演技にも自信を持っていました。いよいよ本番という時、カーテンの袖で出番を待つその人に、トレーナーがあるひと言をかけました。「大丈夫か。本当に大丈夫なのか」。

 何ということでしょう。トレーナーのその一言で、その人の心に一点の「疑い」が入りました。そしてその疑いはその人に「現状」を見させたのです。その人は初めて、失敗するかもしれない、という「不安」に囚われたのです。その不安は的中し、その人は失敗してしまいました。もし、トレーナーが、「お前にはできる。大丈夫だ、行ってこい!」と語ってくれていたら、また結果が違ったのではないかと私は思います。

 詩篇2925節にこのような記述があります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」というものです。確かに人を恐れる者は、自らわなに落ち込んでしまいます。しかし、神に信頼するなら、その中でも守られていくのです。

 聖書の中で、人を恐れて失敗した代表例は、イスラエルの初代王であるサウルです。(サムエル記第一1315章参照)サウルは、ぺリシテ人との戦いに備えて士気を上げるため、全焼のいけにえをささげたいと思っていました。しかしサムエルが定めた7日間を待ちましたがサムエルは来ません。人々が自分から離れ散ってゆくのを見て恐れたサウルは、許されていないにも関わらず、自分で全焼のいけにえをささげてしまいました。人間的な手段をもって民の心をつなぎとめようとしたところにサウルの失敗があります。遅れて来たサムエルは、愚かなことをしたものだ。あなたの王国は立たないと宣告しました。

 その後、アマレクとの戦いがありました。ここでもサウルはアマレクを聖絶せよという主の命令に聞き従わず、価値のないものばかりを聖絶し、主に逆らいました。それに対してサウルは、罪を認めました。でも、私は民を恐れて彼らの声に聞き従ったのですというのがサウルの弁明で、そこには責任転嫁が見られます。しかもサウルは王としてのメンツ保持のために、サムエルに私と一緒に帰り私の面目を立ててくださいと懇願しました。サウルにとっては、神の前に自分がどうあるか、ということが関心事なのではなく、民にどう思われているのかが大事であったのです。神の前に真の悔い改めがあったかどうかは疑問です。

 確かに、人を恐れるとわなにかかります。恐れは失敗を生むものなのです。前述の空中ブランコの人が失敗したのは、トレーナーのひと言によって自分を見、現実を見、思わずも恐れに囚われてしまったからです。それに引き換え神への信頼、神への聞き従いは、わなに勝る生き方です。それ故、私たちは神を恐れることを学びましょう。主に信頼する者は守られます。神を恐れ、神に聞き従うことをあなたの人生の土台としてゆきましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/


2021年10月18日月曜日

ご臨在 

 神さまご自身がまさにここにおられる、そのように感じられるもの、それが「ご臨在」です。

 198312月に私は、東京都杉並区のМキリスト教会を訪ねました。小学校の時に日曜学校に通っていたので、教会の温もりや教会の聖さ、そして教会の喜びが思い出され、懐かしさとともにその日何か期待するものがありました。

 何かが違う、その何かがその日私にはたらきました。礼拝の後に、教会の牧師が祈ってくださいました。すると、昔歌った「いつくしみ深き」という讃美歌が胸によみがえってきました。そして「などかは下ろさぬ、負える重荷を」という歌詞を思い出し、それが心に深く触れました。イエスさまが、おまえはどうして重荷を下ろそうとしないのか、と懇ろに語ってくださるかのようで、身も心もたちまち主の元に立ち返りました。私は、救われたのです。目には見えませんが見える以上に神がそこにおられることを、感じ取っていました。理屈ではなく神がそこにおられる、これが「ご臨在」で「ご臨在」のある所に神のわざがあり、救いがあります。

 また「臨在」は力です。かつて父が、危篤の床にあった時、母が「もう一度チャンスをください」と祈ったら、大勢の御使いたちが病室に来たというようなざわめきが起こり、病室の空気が一変しました。さぞかし厳しい戦いがあるだろうと覚悟して病室に向かいましたが、ドアを開けてみると既に「ご臨在」があるので驚きました。主が来てくださっていたのです。人にはできないことでも神に不可能はありません。主は「ご臨在」の内におられ、奇跡が起こりました。父は危篤を脱しました。

 慕わしいもの、それは「ご臨在」です。ロサンゼルスにあるオン・ザ・ウエイ教会にプレイヤーチャペルがあります。ここは、四隅に天使が立ち、チャペルが「ご臨在」に満ち満ちて、霧のように一面に覆われた所として有名です。私たちは、幾度となくこのチャペルを訪れ、祈りつつ時には眠りつつ、一日中そこにいて祈り込みました。「ご臨在」の中には豊かさがあり恵みに満ち、 1歳を迎えたばかりの私の娘は、初めて1人で立ち上がって歩きました。忘れ得ぬワンシーンです。

 「ご臨在」を、ひと言でいうと、「その場から立ち去りがたい」というものです。ずっとここに居たい、心ゆくまで主と交わりたい、そういう願いが尽きず御神が慕わしいのです。詩篇の作者はこう歌いました。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」(1611節)その通り、ご臨在の中に主は生きておられ、また満ちておられるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年10月13日水曜日

愛のかたち

 私の夫は、生まれた時から病弱で、この子は二十歳まで生きないであろうと医者に言い渡されていました。そこで、小学3年から3年間、区内の体の弱い子たちが集まる千葉の健康学園にいきました。そこでは学業が今一つ振るわないので、ある時、義母が学校に呼び出されました。ところが義母は、そこで担当の先生に啖呵を切ったのです。「うちのこはな、生きているだけでいいんだよ! いいか、勉強しなさいなんて絶対言うなよ。言うと承知しないからな」圧巻です。子に対する母の愛はかくも深いものなのかと、私も面喰いました。

 母の愛と言えば、皇后雅子さまは、娘の愛子さまが不登校であった時、いつも学校に付き添われました。それをバッシングされ、いろんなストレスがあったでしょう。しかしそれでも雅子さまは、ご自分の体調がすぐれないのにもかかわらず、付き添いを続けられました。ことわが子の事であるなら、親は困難を耐え忍ぶことができるのです。これは、愛です。確かに愛だと思います。

 10代の後半、私は重い病気になりました。車いすで飛行場に着いた時、真っ先に父が駆け寄り迎えてくれました。父は知人に「代われるものなら代わってやりたい」と語ったといいます。父とはよく喧嘩し、勘当され、仲が悪かったのです。しかし、本当のところは、父にも愛されていたのです。私が思うような形の愛ではなかったのでそれが見えなかっただけで、私は愛されていました。

 愛は、自らを犠牲としてささげることをいとわぬものです。私の次女は重症のアレルギーで、治療のために除去食の実行が必要でした。アレルギーの子専用のミルクもありますが苦くて飲まないので、代わりに私が除去食をして母乳で育てました。よくそこまでできるわね、と感心されましたが、子どものためなら苦にはなりません。これは今までにない発見で、私にも愛がはたらいていたと思います。

 先日、ある若い女性と結婚について語り合いました。彼女は、自分以上にその人が大事で、自分を忘れるくらいその人のことを大切に思える、そんな人が現れたら結婚してみたいな、と控えめに語りました。なるほどと思います。それが出会いというものなのでしょう。愛は、そのかたちにおいて自己否定を伴います。逆に言えば、自己否定できるのが愛です。自分以上に大切なものとして相手を持つこと、それは一つの愛のかたちだと思います。

 イエス・キリストは、その生涯において、私たちを愛されました。イエスさまは、私たちを贖うために世に来られました。十字架で死なれたのは、それが私たちを贖うための代価であったからです。イエスさまは、罪人である私たちの身代わりとしてただ一度死なれたのです。そして、その死を代価に、人類のすべての罪が贖われ、またそれによって罪の赦しを受けました。そして、それが確かなものであることのあかしとして、イエスさまは死んで3日目に復活を遂げられました。このことを信じ告白するなら、私たちは救いに与かります。

 世にはさまざまな愛のかたちがあります。親子の愛、友愛、男女の愛、そして神の愛です。すべての愛の土台となるのは、キリスト・イエスにある神の愛です。神はあなたを愛しておられます。主イエスをあなたの救い主として心にお迎えいたしましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2021年10月5日火曜日

笑顔のクリスチャン 

  世の中には善良で従順な、誰が見てもクリスチャンだと分かる輝きを放つ人がいます。本当に、クリスチャンという人は、喜びに満ちた笑顔をし、何より聖霊に満たされています。どうしてあなたはそんなに輝いているの? その喜びは一体どこから来るの? なぜ、悪いことが起こったのにそれを感謝するの? 多くの人がその秘訣を聞きたいと願っています。

 マーリン・キャロザース師はそのことの第一人者です。マーリンさんは、見るからにクリスチャンだと分かるような輝きがあります。全身が喜びに満ち、神の栄光を現しています。ご自身の書かれた本の表紙に取り上げられているマーリンさんのお写真は、おそらくプレイズ・ザ・ロード!と言って主をたたえておられる時のものでしょう、内側に深い喜びがあって体全身が明るく輝いています。この方は、世にありながら既に天国を生きている、そういう印象を受けました。

 体全体が明るく照らされているということに関しては、マタイの福音書6章に、「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう」(22節)という一文があります。このことばがマーリンさんの上に実現しているのです。目は心の鏡といいます。目が病んでいるならそれは体全体が病んでおり、目に力があるならそれは体全体を明るく照らすのです。マーリンさんは全身が明かりに照らされた、神の器です。

 他にも、近しい所ではレーナマリアさんや、田原米子さんなどが上げられます。お二人は体に障がいを持ちながら、最大級の喜びを頂いてイエス・キリストの栄光を現しておられます。お二人にとっては、障がいの二文字は全く効き目がありません。そもそもお二人とも、ご自分を障がい者として見ていないでしょう。お二人は、神は私をとても愛してくださっている、と言います。この神さまの素晴らしさ故に、常に主をほめたたえているのです。彼女たちは、多くの者が神に立ち返るためのきっかけとして広く用いられています。

 さて、教会にはいろんな方が来られます。事実は小説より奇なりと言うように、私たちには信じがたい苦難に会った人が大勢いるのです。それは望み得ない病気であったり、貧しさであったり、罪の縄目の苦しみであったりします。けれども、教会に来てしばらくたつと、少しずつ神の愛がその人の心に浸透し、その人は変わっていきます。そして遂には、唇に嘆きの言葉ではなく感謝がのぼるようになり、キリストの栄光を現します。イエスの十字架によってすべての罪が赦された今、誰もが神の元に帰ることができます。涙に変えて、とびっきりの笑顔で神をほめたたえるようになります。

 この笑顔はどこから来るのでしょうか。実はこれこそ私が伝えたいことなのです。今日、あなたの心にイエスさまをお迎えしましょう。そうすれば主はあなたを救い、あなたの内に一点の曇りもない喜びを与えてくださいます。それ故、笑顔でいましょう。イエスさまは私たちを救ってくださいましたし、これから先も救ってくださいます。主イエスこそ、あなたの心の喜びです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年10月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/