2015年5月30日土曜日

500円の奇跡
 ピリピ人への手紙4章で、パウロは「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(12節)と語りました。
 先日、ついに経済が底を突きました。こういう時に限って必要が生じるので、嫌な予感がしていたところ、1本の電話があり、予約していた会場の会場費を今日入れてくれないとキャンセルすると言われました。数千円の必要でしたが、無い袖は振れません。こんなわずかなお金にさえ苦慮するなんてどうなるんだろうと、恐れでいっぱいになりました。
 しかし私たちはありのままを感謝しました。使えるお金は、500円です。500円で何ができるでしょう。しかし、イエスさまは二匹の魚と五つのパンで5000人の給食をなさいました。同じ奇跡が起こらないとどうして言えるでしょう。
 神は人を備え、ある施設が開かれました。その施設は、なんとキャンセルされた会場の隣にありました。何より素晴らしいのは会場費が、4時間で370円だというのです。耳を疑いました。まさかあの500円で会場を借り、その上おつりまで来るなんて…。こんなことあるのでしょうか。
 コリント人への手紙第一には、「…神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1013節)と書かれています。全ては神の栄光が現れるために、主が働いておられるのです。信仰を堅くし、神に信頼する者でありたいと願います。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年5月31日号(第834号)より転載—

2015年5月23日土曜日

 
 私の子守をしてくださったHさんは、盆栽を趣味としておられました。枝を切ったり、針金で矯正したり、思い思いの形に仕上げていくのです。
 そのことを思うたびにほうふつとさせられる聖書のことばがあります。ヨハネの福音書15章には、このように書かれています。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(1、2節)
 ぶどうの木とはイエスさまのことであり、枝とは私たちのことです。そし
て、刈り込む農夫とは父なる神さまで す。神さまはより多く実を結ぶために、私たちを、剪定されるというのです。
 皆さんは、何の心当たりもないのになぜこんな試練がくるのか、と思ったことはありませんか。ヨブ記のヨブも そうでした。しかし、それこそ、刈り込みなのです。神さまは皆さんを益にあずからせようとあえて試練を許されるのです。ですから、急な試みが起こったとしても動揺せずに、忍耐を培う良い機会としましょう。
 詩篇105篇には、「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした」(19節)という一文があります。これは、ヨセフのことを言っています。ヨセフもまた刈り込みを受けました。高い地位に就く示しとは逆に、冤罪に次ぐ冤罪で牢につながれていました。しかし、ついにヨセフの時が満ち、ヨセフはパロに次ぐ大臣になりました。
 神さまは私たちをご存じで、私たち一人一人に計画をお持ちです。全ての困難・苦難は避けたいものですが、後には確かな実を結ばせます。全ての事を感謝しましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年5月24日号(第833号)より転載—

2015年5月16日土曜日

罪人を招くために
 ヨハネの福音書8章のお話です。律法学者やパリサイ人たちが、姦淫の現場で捕らえられた女をイエスのところへ連れてきました。彼らはイエスさまを試してこう言い
ました。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」(5節)
 しかし、イエスさまは取り合う様子もなく、指で地面に何か書いていました。それは十戒だとも、告発者の罪状であるとも言われていますが、彼らが問い続けてやまな
いので、イエスさまは身を起こし、一言語りました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7節)
 これを聞くと、年長者から始めて、一人一人出て行き、ついにイエスさま一人が残されました。イエスさまは、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪
に定める者はなかったのですか」と問うと女は「だれもいません」と語りました。「わたしもあなたを罪に定めない」「今からは決して罪を犯してはなりません」。そう
イエスさまは語られました(9~11節参照)。
 マタイの福音書の9章で、イエスさまは「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招く
ためでなく、罪人を招くために来たのです」(13節)と語られました。
 律法学者やパリサイ人は、上から目線で人を裁きます。しかしイエスさまは、世に見捨てられた人たち、弱い者たちに歩み寄ってくださり、全ての罪を憐れみをもって
赦してくださいます。イエスさまは罪を赦し、永遠のいのちを与えるためにこの世に来られました。あなたもまたイエスさまを信じましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2015年5月17日号(第832号)より転載—

2015年5月8日金曜日

鮮度の良い感謝
 「すべての事について、感謝しなさい」。テサロニケ人への手紙第一5章18節にはこのように書かれています。私たちはこの教えをマーリン・キャロザース師を通して約20年かけて学んできました。今では何か起こると、すぐに「あっ、これは感謝だな」と気付くようになりました。しかしここから先がまた一癖あってなかなか実践できません。
 例えば、夫婦げんかがクライマックスに達した時などは、なかなか感謝が言えません。火に油を注ぐようなものであるのは明白で、「感謝します」なんて言おうものなら相手のさらなる怒りが爆発しそうで、ちゅうちょしてしまうのです。
 かつて、み声新聞の中で、ご主人とけんかになろうとした瞬間、奥さんがいきなり「イエス、勝利。イエス、サタンに勝利」という歌を歌ったという記事を読みました。賛美した途端、急に笑いが起こり、たちまち空気が変わって元に戻ったそうです。本当に勝利が現されました。すべての事を感謝することはサタンのたくらみに打ち勝ちます。
 私たちの教会には、「感謝の戦士祈祷会」という名の祈祷会があります。全ての事を感謝することは戦いに等しく、それ故、戦士という名が付けられています。この祈祷会で、忍耐を持って問題の一つ一つを感謝してきました。感謝は質から量へ転換してきました。
 その中で、夫と話すのは、感謝もまた鮮度があるということです。思い出して後から感謝するというのもよいでしょうが、オンタイムで新鮮な感謝をささげることはより強く主の勝利を見ることができます。一つ一つは戦いです。全ての事について感謝しましょう。主は全ての事を益に変え、大いなる勝利を現してくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年5月10日号(第831号)より転載—

2015年5月2日土曜日

美しい老い方
 先日、免許の更新に行きました。そこで免許証に使う写真を撮った後、出来上がった写真を見てがくぜんとしました。身に覚えのないふくよかなおばちゃんが笑みを浮かべて写っていました。これって、本当に私?なのでしょうか。にわかには信じられませんでした。
 しかし、私も50の大台を越えた身です。数字の上では40歳で初老ですから、おばちゃん顔をしていても無理なからぬ年齢です。そして、美しく年を取るということは今や若い時以上に切実な課題となっています。どんな美人も寄る年波には勝てません。容色の美しさは一時的なものです。主はどう見ておられるのでしょうか。
 ペテロの手紙第一3章には、こう書いてあります。「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです」(3、4節)柔和で穏やかな霊こそ、美しく時を重ねる秘訣であるのです。目には見えない隠れた人柄、これを育てていくことが美しい老い方なのでしょう。
 箴言にも31章に、聖書の語る良き女性像が書かれています。この女性は非の打ちどころない女性です。しかし、そこで語られていることの結論は「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる」(30節)というものです。見掛けではなく、本当の美しさは内側に宿るのです。若い時には外観に引かれるものですが、神を恐れることを知ったことから始まる柔和で穏やかの霊こそ何にも勝る美しさだと私は思います。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年5月3日号(第830号)より転載—