2025年5月14日水曜日

 神の心をわが心とする

 出エジプト記24章で、主は「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう」と仰せられました。モーセが登ると、雲が山を覆い、6日間主の栄光がシナイ山を覆っていました。7日目に主はモーセを呼ばれ、モーセは、4040夜、山にいました。

 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられました。(3118節)

 ところが、モーセがあまりにも手間取っているのを見て、民はアロンに言います。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 それで、アロンは彼らに「耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい」と言ったので、民が持ってくると、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。子牛そのものを神としたわけではありません。目に見えない神の台座として造ったものと思われます。

 しかし、彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と呼ばわりました。そして、翌日、朝早く全焼と和解のいけにえをささげ、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れたのです。(出エジプト記32章参照)

 主は、モーセに「さあ、すぐ降りて行け。彼らは早くもわたしの命じた道から外れ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ、と言っている」と語り、民を絶ち滅ぼそうとされます。モーセが嘆願したので、主は災いを思い直してくださいましたが、宿営に近づき、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がり、板を砕き、子牛を火で焼き、粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませました。

 敵の物笑いとなっているのを見てとったモーセは、宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言ったところ、レビ族が皆、彼のところに集まりました。そこで、モーセは、彼らに「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」

 レビ人は、モーセのことば通りに行いました。およそ三千人が倒れました。

 モーセは「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために」と言われました。

 こうして、レビ族は、他の部族から取り分けられ、幕屋の奉仕をもって主に仕えるレビ人とされたのです。祭司アロンに仕え、またイスラエルの初子の代わりとされました。主は、レビ人はわたしのものである、と言われました(民数記31213節参照)。彼らはその行いによって、いかに大きな祝福と報いを受けたことでしょう。彼らは、とこしえまでレビ人として、祭司に関わる職を与えられました。それは、彼らが、主の心をわが心としたからです。

 イエス・キリストも同じようなことを言っておられます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません。(中略)自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイの福音書103739節抜粋)

 主を愛するということは、主の心をわが心とすることです。それは、自分以上に主を愛することであるのです。レビ人は、主につくゆえに同胞を殺しました。同胞への愛以上に、主への愛が勝っていたからです。そして、主はそれを良しとされ、レビ人を祝福し、特別な任務に就かせてくださったのです。

 このことは、旧約時代だけで終わるのではなく、その神への姿勢は新約時代にも受け継がれていることをイエスさまは示されました。イエスを愛する者は、イエスを何よりも第一にするということがなくてはあり得ません。そして、レビが、レビ職を受けたように、イエスのために自分のいのちを失なったものが、かえって自分のいのちを自分のものとするのです。

 歴代誌第二に、このように書かれています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(169節)

 私たちの心は、主と全く一つになっているでしょうか。主よりも、自分のいのちや父母を愛することは情としてあるものです。でも、レビは、あの時主の側に立ったのです。主の心をわが心としたのです。このような人々を主は求め、また用い報いてくださるのです。私たちも情にさえも死んで、いのちさえも惜しまず、主の心をわが心として従えるよう、祈り求めてまいりましょう。主は、その心を見、確かにその心に報いてくださるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年5月7日水曜日

罪の赦しと救い

 罪の赦しということを考えると、それは人間にはできないことであると分かります。旧約時代には、罪の贖(あがな)いのためには、律法によって細かな規定が定められていました。罪過のためのいけにえは、雄牛の頭に手を置き、それをほふり、聖所の垂れ幕に血を七たびふりかけ、その血を祭壇の角に塗り、血を全部祭壇の土台に注ぎ、取った腎臓や脂肪、小葉を祭壇の上で焼き、火によるささげ物として煙にします(レビ記4章参照)。人々はこれを繰り返し行い、罪の贖いをしました。

 へブル人への手紙1013節には「律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。(中略)かえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」と書かれています。

 そして、イエスさまはこう言われたのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」(57節)

 これは、イエス・キリストが受肉し、世に来られ、十字架の死によって、またそれに続く復活によって、私たち人類のすべての罪を贖ってくださることを語っています。御子イエスは、ご自分がご自分の肉によって、人類の罪を贖うという神のみこころを知った上で、世に来られ、苦しみと死と復活を通してそれを全うされたのです。

 そして、このように書かれています。「キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。」(1213節)。罪の赦しは、イエス・キリストにおいて完成したのです。

 ヨハネの手紙第一には、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(19節)と書かれています。ですから、今や、どんな罪でも赦されない罪はありません。神の前で罪を言い表すだけで、すべての罪が赦されます。そして、恵みによって罪の生活から立ち直る力までも与えられるのです。

 けれども、ある方々は、自分のこの罪だけは決して赦されない、赦されてはならない、と思っておられます。しかし、どうか赦されることを信じ、受け入れてください。

 人は自分の罪を自ら償うことはできないのです。自分の罪を赦していただくために人は何を差し出すことができるでしょうか。何千年もの間、人類は律法に従い牛や羊をささげ、罪と格闘しました。しかし、誰一人として、罪を帳消しにできた人はいませんでした。罪は依然として残るのです。罪の前に人は無力です。ただ無条件に赦していただくより他はないのです。そして救い主(メシア)であるイエス・キリストだけが、罪を赦すことがおできになるのです。

 ヨハネの福音書316節で「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と語られています。御子イエスさまは、私たちが滅びることなく、永遠のいのちを持つために、義なる神と私たちの間を断絶していた罪の問題を、十字架によって解決してくださったのです。それは、神の愛とあわれみとによります。

 詩篇103篇にもまたこのように書かれています。「主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(812節)

 私は、東が西から遠く離れている、というこの表現を、とても気に入っています。御子を信じる者は、その罪、咎、そむきから遠く離されているのです。東が西から遠く離れているほどに。

 罪の赦しのために神はどれほどの犠牲を払われたことでしょう。それらはすべて、神が用意し神が完成させてくださったものです。人が関わったところは一つもありません。ですから、それは「恵み」なのです。

 イエスさまに関して、ヨハネは「この方は恵みとまことに満ちておられた」と語り(ヨハネの福音書114節)、また「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現した」(17節)と語っておられます。モーセによって与えられたのは律法で、私たちを救うことはできませんでした。しかし、赦しという恵みとまことは、イエス・キリストによって実現し、私たちを救いに導き入れたのです。

 ですから、この恵みにしっかりと立ち、イエス・キリストによる罪の赦しを信じてください。私たちは、十字架を信じることによって救われ、罪を告白することによって赦されます。そして、赦されたあなたの上に、神は豊かな祝福を与えてくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年5月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月30日水曜日

もし、あなたが本当に困っているのなら

 人生にはいろいろな事が起こります。例えば、突然見舞われた不治の病や思いもよらぬ事故。陰湿ないじめや、お金がないこと。夫婦間のすれ違いや、親しい人の死。そして戦争やききん等々。本当に人生には、特に最近は、予期せぬことがいろいろと起こっています。

 誰にも相談できないこと。解決の糸口が見いだせないこと。あらゆる面で行き詰まり、もし、あなたが本当に困っているのなら、その時にはイエス・キリストのもとに来てください。イエスさまの前にあなたの悩みを、また苦しみを打ち明けてください。その心を、イエスさまに知っていただいてください。死を考えるほど追い詰められているのなら、なおさらのことです。

 イエス・キリストまた神は、あなたを拒まれるような方ではありません。信者であろうがなかろうが、神はすべての人にとって神です。あなたを造られたあなたの父です。あなたを顧みてくださらないわけがありません。また、十字架の上で自分のいのちさえ投げ出して、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったキリストが、どうしてあなたを助けてくださらないことがあるでしょう。必ず、脱出の道はあるのです。絶望する中にも、神の解決はあるのです。神は、あなたの救いとなられます。そのことをぜひ知っていただきたいと思います。

 そして、困難にある時、神はそれを乗り越えられるように、私たちにまず慰めを与えてくださいます。聖書のコリント人への手紙第二1章には、このように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。(中略)それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(略)その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。」(3節~6節まで抜粋)

 神は苦難を許されると同時に、慰めも与えてくださいます。これが人生の素晴らしい所です。世には「さばきの神」というイメージを持っておられる方は多くても、「慰めの神」を知る人は少ないと思います。しかし、先ほど挙げたコリント人への手紙第二1章では、「慰めの神」が描写されています。神は、苦しむ私たちを、ねんごろに慰めてくださるのです。苦難にある時は、神はご自身の「隠れ場」に私たちを連れて行ってくださり、ひそかに休ませてくださいます。

 顧みれば、イエスさまは、弱り果てた私を立たせてくださるお方でした。渇いた口に水を注いでくださるお方でした。マタイの福音書では、「いたんだ葦を折ることも無く、くすぶる燈心を消すことのない」お方だというふうに書かれています(1220節参照)。真実の愛で私たちを愛してくださっています。

 そして、マタイの福音書では、イエスさまご自身こう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(112830節)

 これは、すべての人に向かって語られていることばです。そして、救いのことばでもあります。イエス・キリストを、自分の救い主と信じることが、真に人を安息へと導くのです。イエスのくびきは軽いのです。それゆえ、重荷をおろしてイエスさまの十字架の救いを信じましょう。問題もまた神であるイエスさまによる解決があります。

 イエスさまが、十字架によってなしてくださったことは、あなたの罪を赦すことです。あなたのうちの、自分を責める思い(それは罪から来ますが)、行き場のない問題、そのすべてを、イエスさまはあなたの代わりに担ってくださいました。ですから、今、イエスさまを信じ、イエスさまのもとに帰りましょう。

 神の愛は、イエスさまによって体現されているのです。そして、それは私たちから出るものではなく、神の恵みによります。キリスト・イエスの恵みによって私たちは、どのような状況の中にあっても、希望となる力を頂くことができるのです。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月24日木曜日

自分に酔いしれる

 高慢ということは、自分に酔いしれた状態であると思います。ルカの福音書18章の9節から12節にかけて、神は興味深いたとえを話されました。

 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとり人はパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
 パリサイ人は当時のエリートで、取税人は税を取り立て、しかも往々にして不正をして同胞から決められた以上に取りたてて私腹を肥やしていました。それで、罪人として皆に嫌われていました。一方、パリサイ人は皆に尊敬されていて、人々の上に立って先生と呼ばれていました。

 それゆえパリサイ人は、宮に行き、立ってこのような祈りをしました。「神よ。私はほかの人々をようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。

 これは、パリサイの誇りでした。こんなにも主に仕えている私というものに、並々ならぬ自負があったと思います。確かに週に2度断食をしたり、律法を落ち度なく行うことはなかなかできないことです。それを守り行っていることは、当然、自分を褒める思いがあったでしょう。地位もあり、人の上に立ったパリサイ人は、知らないうちに自分の行いに酔いしれてしまったのです。もちろん、なすべきことは忠実に行ったでしょうから、非難の対象とは言えないでしょう。しかし、自分を高くするあまり、人を裁く高ぶりが生じたのではないでしょうか。

 それは「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」という一文に表れていると思います。

 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。

 イエスさまは、言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。

 地位や働きによって、知らぬ間に自分に酔いしれてしまうということは、どの世界においてもよくあることです。一国の首相から企業のトップに至るまで、不祥事によって辞任するケースを私もたくさん見てきました。高ぶりは滅びの前ぶれなのです。後になって、後悔してももう元に戻ることはできません。いかに多くの人が高ぶりの故に人生を棒に振ったことでしょう。

 神もまた高ぶる者を退け、心のへりくだった者をいつくしまれます。心が低いということは、神の前の美徳です。イエスさまは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」と語られました。(マタイの福音書53節)

 それゆえ、常にキリスト・イエスに救われたあの日のことを思い出しましょう。その日から神の前には何も変わっていないのです。教会が大きくなると教会の中でも、社会同様に地位や立場が与えられてくるでしょう。しかし、イエスさまに出会ったあの信仰の原点を忘れてしまうなら必ず、ずれてしまいます。最悪の場合は退けられてしまいます。

 私たちは、サタンの小さなほめ殺しの言葉によって、いとも簡単に自分に酔いしれてしまいます。しかも、なすべきことは行っているのですから、まさか自分が誇っているとは思いもしないのです。

 パリサイ人は自分が神に仕えていることを誇りとし、自分に酔いしれ、自分を義人とし、取税人を罪人であるとさばいてしまいました。これはもう、神の前では高慢という罪です。

 バビロンのネブカデネザル王は、神が彼を立て祝福していたのにもかかわらず、「この大バビロンは、私の権力によって(中略)私が立てたものではないか。」と言った瞬間、ただちに彼は宮殿から追い出され、野の獣とともに住むようになり、七つの時が過ぎるまで、捨て置かれました(ダニエル書42932節参照)。彼もまた、高ぶりの一線を越えてしまったのです。

 神のあわれみを求めた取税人が、神の前には義とされました。それゆえ私たちは意識して、日々へりくだりを求め、低い心を求めていきましょう。

 「神は高ぶるものに敵対し、へりくだるものに恵みを与えられる」(ペテロの手紙第一55節) 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月16日水曜日

ヨブと真珠

 ヨブ記のヨブは、いわれなき試練に置かれたことで有名です。多くの困難にある人が、ヨブのことを思い起こします。いわれなき試練というのを神は許されるのでしょうか。許されます。

 TLEA主催の白馬スネルゴイキャンプで、今や、100万人のフォロワーを持つインフルエンサーのあきand光一さんが、お話をしてくださいました。カイロプラクティックのクリニックを経営していた光一さんですが、ある時、家も財産もすべて失ってしまった、という事態になりました。まさに、ヨブ記のヨブに起こったことと同じではありませんか。

 その苦しみの年月は、7年にも及んだといいます。お二人は、ロサンゼルスを出てハワイに行き、そこで苦しい時を過ごしました。その時の事を語ると、光一さんは「困難にある人が、今いるかもしれませんが、必ずそこを抜けますから」と涙ぐんで私たちを励ましてくださいました。

 その時、私も自分に許された困難な日々のことを思い起こしました。18歳の頃、私はイエス・キリストを信じ、翌年のクリスマスの受洗を楽しみにしていました。しかし、父からの許しが得られず、強行するつもりでいましたが、迷っていました。

 その時、重い病気になったのです。神経の病気で、ベッドに寝たまま動くことさえできませんでした。こんなにつらいなら自殺したいと思っても、窓のところまでも自分で行くことができないのです。父は心配して、「代われるものなら代わってやりたい」と言ってくれました。「じゃあ、病気が治ったら洗礼を受けていい?」と聞いたら、「受けていい」と許してくれました。私は、このために病気になったのだ、と自信満々になって、クリスマスの洗礼前には良くなって東京に戻れると思っていたのです。

 ところが、現実はそんな甘いものではありませんでした。完全に治り東京に再び帰るまでには2年かかりました。動けないこと、その中で、私は主に叫びました。受洗はどう考えても神のみこころです。また、病院では毎週の礼拝の恵みも受けられません。そんなことが神のみこころであるわけがないと思いました。完全に神から断たれたように思いました。何の罪を犯したのか自分を探りました。ヨブのように。しかし、ヨブと同じように答えは出ませんでした。

 東京の牧師は、イエスさまが羊たちを大きな手で囲んでいる絵はがきを送ってくださり、「このことを感謝してみてください」と書かれていました。そのご愛には本当に慰められました。けれども、私はこんなこととても感謝できるわけがない、と一蹴したのです。まだ、感謝に対して目が閉ざされていたのです。そして、相変わらず苦しい毎日を送っていました。

 ある日のこと、神さまが、私にその苦しみについて教えてくださいました。それは、あこや貝のことでした。あこや貝は、真珠を作る貝です。真珠を作るには、まずあこや貝に傷を入れそこに核となるものを押し込みます。すると、それが痛いのであこや貝は、自ら液を出して核を覆おうとします。そして、それが何年もかけて、真珠に育っていくのです。

 「あなたに許されたことは、これである」と神は言いました。「今は痛いが、この中で神は宝石のような真珠をやがてあなたに造ろうとしているのだ」と。もちろんこの一言で、すぐに私の悩みや苦しみが消えたわけではありません。しかし、19歳から、今60歳になって、私は確かに神のおっしゃる通りであったと思います。

 思いもしない試練が、突如あなたを襲うかもしれません。その理由を考えても分からないかもしれません。

 イザヤ書にこういうみことばがあります。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(5589節)

 神さまの計画というのは、私たちの思いを越えて、はるかに高いのです。

 ヨブは、神さまがどんな方か、試練を通して学びました。神は、ヨブに「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」と言いました(ヨブ記402節)。ヨブは、「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。(中略)それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています。」と申し上げました(ヨブ記4226節)。

 神は、その後、ヨブの前の半生より後の半生をもっと祝福されました。今いわれなき試練にある方、どうか感謝してください。必ずそれが抜ける時が備えられています。先が見えなくても、必ず試練には終わりがあります。そして、試練を抜けると試練が許されたこと以上の祝福を必ず受けます。

 そこにはより優れた神さまの計画があるのです。ヨブは失ったものの2倍を受けました。しかしそれ以上に優れた祝福は、神を知るということではなかったかと思います。そして、これこそが神が与えてくださる真の祝福ではないかと私は思います。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月9日水曜日

系図の学び

 最近、私の信仰生活はとても充実しています。というのは、今まで苦手として、読み飛ばしてきた新旧約聖書のある部分を、注解書の助けを借りながら丁寧に読むことができたからです。

 特に苦手であったのは、歴代誌第一です。綿密な系図が記載されていますが、誰が誰の子であるのかなどということは、また誰がどう任命されたのかなどは、正直なところ、みことばから日々の祝福を得たいだけの私にとっては、あまり魅力的なものではなかったからです。

 マタイの福音書1章も同じ理由で、読み飛ばしていました。読んでも頭に入らないのです。このことを通して神さまが何を語ろうとしているか、まったく分かりませんでした。しかし、今では系図には意味があること、系図こそ神の前に非常に重要であることを今回初めて知ることとなりました。

 今、日本人が北イスラエルの10部族の一つ、特にエフライム族ではないかということが、言われ始めています。これは、前より語られていたことではありましたが、まともに受け取る人は少なく、多くの人が一つのロマンとして聞いていました。

 ところが、イスラエルのアミシャブをはじめとする調査機関などによって、いよいよ科学的にそれが立証されようとしています。日本においても、皇室には、神武天皇を祖とする皇統の系図が綿密に書き記されて残されています。ここには、何か大きな意味が、神さまのご計画があることを思わされます。

 旧約聖書のエゼキエル書には、「見よ。私は、エフライムの手にあるヨセフの杖とそれにつくイスラエルの諸部族とを取り、それをユダの杖に合わせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つとする」(3719節)という預言があります。南北二つに分裂してしまったイスラエルが、再び一つになることを神は語っておられるのです。その預言が確かに成就するその時に備えて、神は系図に意味を持たせているのではないでしょうか。

 創世記のアブラムが99歳になった時、主はアブラムに現れ「あなたは多くの国民の父となる」という契約を結ばれ、その名をアブラハムと変えられました(創世記17章参照)。同6節、7節では、「わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出てこよう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。」と書かれています。あなたとは、アブラハムであり、あなたの後の子孫とは、イエス・キリストのことです。両者において契約を立てると、はるか昔から神は語っておられるのです。

 ご存じの通り、聖書は旧約聖書と新約聖書の二つで成り立っています。そして、驚くことに新約聖書は、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイの福音書11節)という一節から始まるのです。神がいかに系図を大切にしているか分かるでしょう。

 私が軽く読み流していた系図の記載には、これほど大きな意味があるのです。こういう訳ですから、私たちは、聖書を読む時に自分勝手に好むところだけを読むのではなく、たとえ意味が分からなくても、注解書に頼みつつも、まんべんなくすべてを読むようにしましょう。聖書通読・聖書研究は、私たちに大きな霊的祝福を与えてくれるものなのです。

 テモテへの手紙第二316節にはこう書かれています。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月9日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2025年4月2日水曜日

不妊の女に起こったこと

 アブラムの妻のサライは不妊の女でした。救い主の誕生を待望するイスラエルの女性にとって、不妊ということはいかに苦しく、また悲しいものか、ご存じでしょうか。ハンナは、主の宮で泣いてこのことを主に訴えました。ラケルは、「私に子どもを下さい。でなければ私は死んでしまいます。」と夫ヤコブに詰め寄りました。また、恐れ多いかもしれませんが、皇后雅子さまが愛子さまを授かるまで、どれほどのお苦しみをなさっていたか、私たちはメディアを通して知っています。

 子どもを授かることは、子孫を得ることであるので、女にとっても光栄なことでしょう。命の恵みにあずかることは、神が下さる恵みであり、人ができるものではないのです。ですから不妊の問題というのは、ひときわ強い悲しみがあり、人知れぬ心の痛みがあるのでしょう。

 サライの不妊もまたアブラム家にとって、影を落とす問題であったでしょう。それで、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、サライは自分の女奴隷であるハガルを連れて来て、ハガルによって子を得ようとします。ところが、ハガルは身ごもると、自分の女主人を見下げるようになりました。サライの気持ちはなおかきむしられます。それでサライは彼女をいじめたので、ハガルは逃げました。ハガルがその子イシュマエルを生んだのは、アブラハムが86歳の時でした。

 アブラハムが99歳になった時、主はアブラハムに現れ、あなたと、あなたの後の子孫との間に永遠の契約を立てると語られ、契約のしるしとして割礼が導入されました。そしてこの時、彼らの名が変わるのです。アブラムはアブラハムに、サライはサラにその名を神が変えました。

 そして主は、こう言われたのです。「わたしは彼女(サラ)を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。」アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか」。そして、「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように」と言いました。

 神は、「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする」と語られ、離れて上られました。(創世記17章)

 創世記18章。主は再びアブラハムに現れました。主は「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻ってきます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」と言われました。サラはそれを天幕の入口で聞いていました。サラには普通の女にあることがすでに止まっていました。それでサラは心の中で笑って言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

 そこで、主がアブラハムに仰せられました。「サラはなぜ笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」。サラは、恐ろしさにかられて「私は笑いませんでした。」と打ち消しましたが、主は「いや、確かにあなたは笑った。」と仰せられました。

 そして、創世記21章。神がアブラハムに言われたその時期に、サラは年老いたアブラハムに男の子を産みました。イサクの誕生です。アブラハムは8日目に彼に割礼を施しました。その時アブラハムは100歳でした。イサクは、アブラハムの契約を受け継ぐ子として約束通り産まれたのです。

 これらの話から、私が皆さんに分かち合いたいことがあります。一つは、命は神のもとにあるものであるということです。人の領域ではないということを分かち合いたいです。子どもをつくる、ということを言う人がいますが、命は授かるものだと思います。科学的な方法で受胎を求めたとしても、授けてくださるのは神なのです。

 そしてまた、子というのは、必ず神さまの召し、計画があるということです。イサクも、アブラハムへの契約の中に自分の誕生がありました。それゆえ、神さまとの契約の成就の時が来るまで、その誕生が待たされることもまたあると私は思います。

 三つ目は、神には不可能はないということです。神が語られたことばなら、人間的には笑うような不可能なものであっても信じることを選びましょう。アブラハムもサラも、約束をすぐには信じることはできませんでした。人間的には不可能なことは分かりきっているからです。それでも、神の時が来た時、神のことばはその通りに実現しました。

 ルカの福音書でも大祭司ゼカリヤは、不妊の妻エリサベツとの間に後のバプテスマのヨハネを授かるという、御使いガブリエルが告げたことばを信じることができず、そのことばの成就の時までものが言えなくなりました。しかし、時が来ると約束通りヨハネが誕生しました。

 ハンナもリベカも、神は覚えてくださって、後に子を産みました。そこからサムエルが出、また、ヨセフが出てきたのです。彼らは聖書の中での重要人物です。悲しみは神の前に蓄えられ、やがて時満ちると大逆転が起こったのです。神は全能者であり、またあわれみ深い方です。すべてに神の祝福の計画があるのです。私たちはそれを知りませんが、神を信頼していきましょう。神はあなたの人生に最善をなされます。 

MIKOE NEWSから転載」 2025年4月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/