2024年5月29日水曜日

神さまほど誤解されているお方はない

 学生時代、私は求道者でした。夏目漱石が『行人』の長野一郎に語らせた「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という一文は、全くの同感で、私もまた自分の前途を見いだせずにいました。

 特に、信じるということには懐疑的で、それが分からず、信じることは、結局は当人が思い込むことだと思っていました。ですから宗教に入ることは、信じていない自分にとって自分を偽わることであって、救われたいがための無理な取引であるとしか見えませんでした。

 世の中には、私と同じように考える方は決して少なくはないと思います。しかし、今なら分かります。この考え方の背後にはサタンが働いています。サタンが神はこういう方だよと、偽りの情報や誤った思いを入れてくるのです。そして、人はその偽りを見抜くことができずサタンの言葉を信じ、神を敵としてしまうのです。だから、神に愛されているにもかかわらず、それが見えないでいるのです。

 神さまほど誤解されているお方はおられません。いかに神が私たちを愛しておられるか、それは、御子イエスを下さったほどです。ヨハネの福音書にはこう書いてあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(316節)

 神は、鋼鉄のような心の持ち主なのではありません。私たちと同じような血肉(ちにく)通う心で、ありのままに痛みや苦しみを抱かれます。神であるからということで、何の情も伴わず合理的に淡々とイエスを死に渡されたわけではありません。これは、やむにやまれぬ中で神が出してくださった結論です。イエスは神がこの上もなく愛する子であり、しかもひとり子です。イエスに代わるものはないのです。にもかかわらず、神はこのイエスを、世に、また私たちに下さったのです。そこに神の痛みがなかったと言えるでしょうか。

 大いにあったのです。でも、神はその痛みより私たちへの愛を優先させられました。御子を失うほどまでに、私たちを惜しんでくださったのです。神のこの痛みは私たちの救いのために味わわれたものであり、これが私たちに対する神の「愛」なのです。神は私たちのすべての罪をイエスに負わせ、さばきを下されました。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死なれました。そして、神の大能の力によって3日目によみがえられ、ここに罪の贖(あがな)いが完成し、人類に「救い」が入りました。

 ローマ人への手紙に「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」という一文があります(832節)。イエスさまを下さったということは、すべてが与えられたということに等しいのです。これほどまで大きな愛で、神は私たちを囲んでくださっています。

 確かに世にあっては試練や困難があります。神がいるならどうしてこんなことが許されるのかと憤るようなこともあるでしょう。サタンはそれに対して同情を装って、それは君が神に愛されてないからだと言い、見えない神への反発を抱かせます。サタンは被造物一の大うそつきなのです。しかし、試練は神が許されたものであり、神とともに乗り越えてゆくことによって神を知り、大きな祝福をもたらす良きものです。神にあっては、すべては益で、悪い事さえ益となり、その愛は変わることがありません。神はあなたに、最善以外の事はなされないのです。

 まことに、神さまほど誤解されているお方はおられません。多くの人がサタンの口車に乗せられて、実際知りもしない神を憎んでいます。しかし、神はそれを訂正しようとはなさいません。心を向けさえすれば見つけられる所に神は立ち、私たちが自由意志でご自身の元に帰ってくることを待っておられるのです。それゆえ神はこう語られます。

 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ書333節) 

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年5月23日木曜日

芝桜

  先日、ある方から芝桜の苗床を頂き、副牧師が教会の庭に植えてくれました。私は、北海道に来て初めて芝桜というものを知りました。桜と言っても、木のように枝や幹を持ちません。芝生のように地面を覆い、強烈な原色の桜が、白、ピンク、赤と、辺り一面に敷きつめられ、花を咲かせた様子は圧巻です。また、この芝桜は、強く根を張ることで知られていてどんどん周りに増え広がってゆきます。

 今回、皆さんとお分かちしたいのは、この「根を張る」ということです。マタイの福音書13章でイエスさまは、群衆に「種蒔きのたとえ」というお話をされました。種とはみことば、すなわち神のことばで、種が蒔(ま)かれる土壌は、大きく分けて4通りあります。

 一つ目の種は、道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。これは、御国のことばを聞いても悟らないというケースで、せっかくの神のことばなのに、ことばがサタンに持ち去られてしまいます。次は、土の薄い岩地に落ちた種で、これはすぐ芽を出します。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいます。これは、みことばを聞くと喜んで受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうというケースです。

 また、別の種はいばらの中に落ちました。これは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため実を結ばないというケースです。最後は、良い地に落ちた種で、これは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人は100倍、60倍、30倍の実を結びます。

 今日はこの2番目の、土の薄い岩地に落ちた種について考えたいと思います。私は、5人家族の中の初穂として救われました。ところが父は宗教嫌いで、時には暴力をもってしても、棄教するよう迫ってきました。父は神を憎んでいたかもしれません。その憎しみは神を知ったと明言した私に遠慮会釈なく向けられ、この父のもとで信仰を持つ困難さは、大げさではなく命懸けでした。友達やその家族は、こんな苦労もなく救われて教会に行っている、平和で祝福されている、なのになぜ私と私の家族だけこんな目に遭うのかと、何が違うのだろうかと、ずいぶん悩みました。

 しかし、時は流れ、やがて神の時が来て、聖書で約束されているように、私たちの家族は父を含めて全員が救われました。主は真実です。そして、私は知るのです。私にとっては迫害と言えるほどの困難をくぐったのは、主のこの上ない祝福であったと。神は困難の中で、私の信仰の根を岩地の中深く育てていてくださったのです。

 父に背いても受洗すると決意した12月、しかし私はその時病院のベッドの上でした。身じろぎ一つできない中で、幻を見ていました。それは、土の中にある一つの種です。その種は私だったのでしょう。神さまは、「この種は死んでいるのですか生きているのですか」と問うてこられました。「主よ、あなたがご存じです」と言うと、土の中にある種からかすかに根らしいものが生えいでてきたのです。そして、見るたびに少しずつその根が伸びてゆくのです。根は地中深く下ろされていきました。そして、次に芽が造られようとした頃、入院して教会や礼拝から離されていた私に、「まもなくここを出て、地上に芽吹く。そこは聖霊の風が自由に吹き、光が照らす新しい世界だ」。神は私にこう語り、それを約束してくださいました。

 試練は恵みです。父が私のそそり立つ壁となってくれたゆえに、私はこの宗教の真偽を根本から問いました。迫害されたゆえに、信仰が鍛えられました。問題がないことは祝福のように見えます。でも、信仰の面から見ればそうではないのかもしれません。問題があるからこそ、神の近くにいられるのですから。そして、困難の中には必ず神の深い慰めがあります。この慰めこそ私たちの報い、そして取り分です。

 芝桜はその根をしっかり広げます。私たちもまた信仰の根を広げましょう。そして、この地を占領し、おびただしく増え広がりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年5月15日水曜日

肩書

  人というものは、高ぶりやすく、機会がありさえすれば肉(自分)を誇ります。北海道の政治家に、鈴木宗男さんがおられます。氏はロシアとの関係の第一人者を自負されており、病を押して今も活躍されておられます。なかなかできないことです。けれども、いただけないと思ったのは、ご自分の手柄としてできあがったものに、自分の名前である「ムネオ」の文字を入れるのです。鈴木氏の働きで実現した踏切には「ムネオ1号、ムネオ2」と連綿と書かれていますし、北方領土で互いの交流の場として作られた施設は「ムネオ・ハウス」といいます。自分の名を出す、残す、ということをあからさまに行っているので、彼の働きを評価する一方、人々の失笑を買っています。

 人が偉くなると、自分を偉大な者とする誘惑が来るのか、学歴に関して誇ってみたり、時には虚偽の学歴を公表したりします。真偽はさておき、東京の小池都知事も今それで揺れているようです。また少し前になりますが、ある野球監督の奥さんに、特別待遇の海外留学があったかどうかをめぐって、マスコミがこぞってたたいたことがありました。

 結局、真実は分かりませんでした。しかし、それでいいと思います。というのもこれは誰にでも起こり得ることだからです。人間、偉くなったら、次は肉を誇りたくなるのです。過去にさかのぼって自分は特別な人物であったと世に知らしめたいのです。学歴詐称はどちらかといえば妄想に近く、まったくのうそではないだろうと思います。けれども、話すうちに尾ひれ背びれがくっついて、ついに高ぶってしまい、事実と違う偽りをあたかも事実として主張するようになるのだと思います。

 顧みるに、私たちは何と肩書きに弱いのでしょう。私も役職名を連ねた名刺を頂くことがあります。拝見してお忙しいのだな、と思いはします。しかし、その人を役職で判断することはいたしません。あくまで自分の判断を優先させます。けれども、肩書きを通して自分を見てほしい、自分はこういうものなのだ、すごいだろうと肩書きに身を隠して小さな世界に生きている方は少なくないように思います。ありのままの自分に自信が持てないのでしょうか。肩書きに酔いしれて、立場や役職を手に入れ、自分の前でラッパを吹きます。

 ここで、聖書から1人の人物を紹介したいと思います。それは、パウロです。パウロがもし名刺を持っていたら、どんな役職が付いているでしょう。八日目の割礼者、きっすいのへブル人、生まれながらのローマ市民、律法についてはパリサイ人、最高学府であるガマリエル門下生、とざっと数えても彼は人もうらやむほどの経歴(肩書き)の持ち主なのです。彼はこれ以上ないほど多くの肩書きの持ち主であったのです。

 しかし、そのパウロがそのことをどう語ったか、ピリピ人への手紙3章をお読みください。「しかし、私にとって得(とく)であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(78節)

 いさましい言葉です。ここにパウロに起こった大きな変化が述べられています。パウロは、主イエスを知ったことによって、かつては「得」であった持てる肩書きのすべてを、「ちりあくただ」と言い切りました。これはまた、私たちクリスチャンにとっても同様で、私たちの唯一の肩書きは救い主であるイエス・キリストご自身であり、それ以外には無く、かつそれで十分なのです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年5月8日水曜日

時間泥棒

 21世紀は情報過多の時代です。情報はあふれかえっており、情報の選択に絶えずさらされています。パソコンの前に座って、朝から夜までずっと動かないで画面を見ている、こんなこともあるのではないでしょうか。画面を見始めたら最後、次から次へと新しい情報が入ってくるので気が付くと3時間、4時間たっていたということも珍しいことではありません。

 確かに情報によって知らないことを知ることができますから、それなりに充実感があります。しかし、これではいけないと私の心は警鐘を鳴らしています。その時間、他にするべきことがあったかもしれません。私の場合、最も打撃を受けやすいのは聖書を読む時間です。毎日ノルマを課して聖書を読むようにしています。でも、ネットに夢中になって、ついその時間を落としてしまいそうになることもあります。

 と同時に、速く速くという、せっつかされているようなスピード感が出てきました。情報が次から次へとどんどん入って来るので待てなくなるのです。敵もさるもので、1分とか30秒のショート動画を用意し、隙間時間もネットにくぎ付けになります。気に入ることだけ取り出すと後はスキップして次に向かいますから、忍耐もなく待てなくなってきた自分を知るのです。必要な情報がすぐ出てこなければ、もう違うことをやっています。

 さらに、提供される情報にも注意が必要です。だれがどのような意図をもって情報を流したか、その出どころに関して追求することはあまりしません。都合よく隠され、偽りを信じるよう働くこともあります。本当の情報か、偽りの情報か、ネット内では常に混在しているのです。

 また抱える人数というのがおびただしいのです。ネットは世界をつないでいるので、その影響力もまた甚大なものなのです。今日家に咲いたチューリップの画像を地球の裏側の人が即時に見ることができるのは、もはや当たり前のことになりました。見せ、拡散し、共有し、やがて民心を捉えるなら、AIITが政治的な利用をなされることは想像に難くありません。むしろこのために、情報化社会が構築されているのだといっても過言ではないでしょう。

 さて、話を元に戻しましょう。時間は無限にあるわけではありません。21世紀は最後の世紀で22世紀はないという考え方をする人がいます。確かに、今、世界は第3次世界大戦へ向けての戦争が始まっていて、いろんな国々に戦禍が飛び火しています。これはイエス・キリストの再臨が近いというしるしです。ですから、しっかりと目を覚まし、頭を上げましょう。そして、時間を大切に用いましょう。

 マタイの福音書633節ではこう書かれています。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。まず、神を第一に求めること、生活の中で神さまに関わる事を優先すること、こうすれば時間泥棒があなたの時間を盗むことはできません。

 第一にすべきものを第一にしなければ、すべてがなし崩しになります。秩序ある生活を送ることは大切です。それゆえ聖徒は皆、まず神の国とその義を求めましょう。今日あるこの日も、また明日も、神さまが私たちのために作ってくださった祝福の1日です。ネットではすぐにでも終わりが来たかのようにあおります。けれども、終わりはすぐには来ません。情報を見分け、振り回されないようにしましょう。そして、まず神のみ口のことばを聞き、いのちを得ましょう。イエスさまはこう語られました。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)。与えられた時間をどのように用いるか、私たちは神から委ねられているのです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年5月1日水曜日

託された宣教

  かつて、イリエ・コロアマさんという預言者の方から興味深い話をお伺いしました。たくさんのお子さんに恵まれたので、子を授からないようにしていたところ、夢にイリエさんが知らないイリエさんの子どもたちが出てきて、懇願してきたそうです。「お父さん。私たちも生んでください。私たちも地上で主のための働きをしたいのです」というのです。

 天国という所は、筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい所で、いのちに満ちあふれていると聞いています。死んで天国に行き、後によみがえったある人は天国から引き離されたことが悲しくて33晩泣いて過ごしたそうです。それほどまで天国は素晴らしい所なのでしょう。しかし、イリエさんのお子さんが願ったように、天国にいてはできないことがただ一つだけあるのです。それは、地上で直接福音を語り、人々のたましいを神の元に勝ち取ることです。宣教の働き、人々の救いは、キリスト・イエスから託された私たちの使命です。

 少し神学的な話になりますが、イエスさまが昇天された後、イエスさまの再臨に至るまでの間に教会時代という時代が挿入されました。イエスさまは教会のかしらで、みからだなる教会はキリストの花嫁で、私たちひとりびとりはその各器官です。終わりの時代の神の働きは、教会を土台として展開していきます。

 お弟子たちは、イエスさまが世から去るということを聞いた時、悲しみました。しかし、イエスさまはヨハネの福音書167節で「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」と語られ、現にそのことば通りにペンテコステ以降、助け主である聖霊の顕著な働きが始まり、教会がスタートしました。

 また、同1232節には「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」と主イエスは語っておられ、この今の時代、主イエスは天に留まられ、聖徒たちによって敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 聖書によると、復活されたイエスさまは、11人のお弟子たちにガリラヤに行き、イエスが示された山に登るよう指示されました。そこでイエスさまは近づいて来て彼らにこう言われました。

 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイの福音書281820)

 これは、大宣教命令として広く知られている聖書の箇所で、このことばをもって、イエスさまは宣教の使命をお弟子たちに、ひいては私たちに委ねられたのです。私たちの使命、それは、全地に福音を宣べ伝えることです。天におられるイエスさまの心をわが心として、私たちは救いを携え、地の果てまで宣教に出て行きましょう。聖書にも次のように書かれています。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(テモテへの手紙第二42節)

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年4月24日水曜日

 従ってなお窮地に陥る時

 多くの人がよく、問題が起こってきた時、それを神とサタンの戦いというふうに捉え、そのように口にします。けれどもこれは、大きな間違いです。そもそも神とサタンを同列に挙げているところからして、間違っています。神は絶対者であり、サタンは堕天使で、神による被造物です。サタンは神の許しなくしては何もできません。例えば、サタンはヨブ記のヨブを打ちました。しかし、それも神が許す範囲の中でのことで、サタンがヨブの命を取ることは許されていませんでした。

 サタンは、神の計画を阻止しようとありとあらゆる手段を用いて働きます。パウロもテサロニケ人への手紙第一218節でこのように書いています。「それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました」。サタンは神のみこころを妨げるのです。サタンの攻撃が強い時ほど、神の素晴らしいみわざが現されるというのは理にかなったことなのです。

 私たちの教会では海外宣教を行っています。ところが、ある時チームリーダーが、パスポートやチケットの入ったバッグを電車の中に置き忘れてしまい、宣教に行けない事態になりました。失意のどん底に陥ったことでしょう。しかし、感謝の祈りがささげられ、翌日一日遅れで目的地に着くことができました。

 そして着いた後、車に乗り込むと、今度はそこで突然聖霊が「今、リコンファームに行きなさい」と語られたそうです。そこでそう告げると案内する人は「まず、ホテルに行ってからにしましょう」と言い、取り合ってくれなかったそうです。しかし聖霊が語るので、半ばけんかになることを覚悟して、強くリコンファームに向かうよう押したのです。

 そして、リコンファームをする場所に着くと、なんとその時、まさにそのタイミングで後に大きな関係となる人物と出会ったのです。まさにこれがみこころ中のみこころでした。私は、リーダーがバッグを失くしてしまったことは、行くべき所に行かせまい、会うべき人と会わせまい、とするサタンの妨害であったと思いますし、リコンファームの件も真に主に従うということにおける試しであったと思っています。重要な事柄が開ける際には必ずサタンはそれを妨害するよう働きます。

 ところで、話は変わりますが、イエスさまはその公生涯の初めにバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。すると、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分に下ってくるのをご覧になられました。その直後、マタイの福音書41節にこう書かれています。「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた

 ここで注目していただきたいことは、御霊に導かれて荒野に行かれたということです。サタンは荒野でイエスを誘惑し、後に現されるイエスの救いの働きをさせまいと策略を持ってイエスを試しました。これはサタンが仕掛けたわなではありますが、御霊に導かれたというだけのことがあり、かえって主イエスが救い主としてふさわしい方であることを証明する結果になりました。

 私たちにおいても、サタンの働きが許されます。特に大きな恵み働きの前には必ず妨害が許されます。多くの人はそれを見、恐れます。でも、それを許しているのは神であって、主の御霊の主導の中で起こっているということを忘れてはなりません。

 私たちには、神に聞き従って、なお窮地に陥るということが許されます。しかしそれは、しるしと奇跡を伴った神の素晴らしいご栄光と勝利の現れのためであり、神の許しなくしては、サタンは何ひとつ災いを起こすことができないのです。そして、そこには深くて高い神の計画があります。イザヤ書にはこう書かれています。

 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。-主の御告げ- 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ書558節)

 今、この時にも主は働いておられます。それゆえ、何も恐れることなく神を信頼し、またすべての事を感謝いたしましょう。主はすべてを益と変え、初めから用意されていたご自身のご計画を必ず成し遂げられるからです。恐れるべきお方は神おひとりです。サタンではありません。それゆえ感謝をもって主の勝利をほめたたえましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年4月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年4月18日木曜日

アブラハムは信じた

 かれこれ20年になるでしょうか。稚内教会設立のための準備で、家族で何度も稚内に通いました。聖会は夜なので、帰りは真夜中になり、辺り一面真っ暗になります。すると、星が瞬くのです。あまりにもきれいなので車を止めて、家族全員で外に出て天を見上げました。天の川は雲のように煙って見え、降り注ぐばかりのたくさんの星が天を覆っていました。

 私たちは誰彼となく創世記15章を想起していました。5節で神は、アブラム(後のアブラハム、以下アブラハムで統一)を外に連れ出して言われました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる

 既に老人であり、子もないにもかかわらず、アブラハムはこのことばを信じました。神のことばを信じ、そのことばが成就することを堅く信じたのです。同6節では「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。さらっと書いてありますが、ここに信仰の奥義が詰まっています。

 アブラハムは何か特別なことをしたわけではありません。ただ自分の状況よりも神のことばを優先させて、神のことばに立ったのです。ただ信じた、それだけのことです。しかし、それだけのその信仰を神は義(正しい)と認められたのです。神が私たちに求めておられるのは、ただ一つ。信じることです。

 それはまた、神の知恵でもあります。なぜなら、信じることは誰であってもできるのです。富んだ者も貧しい者も、老いも若きも、信じることにおいては等しいのです。それゆえ神はすべての人を救うにあたって、信仰という手段を用いることを選ばれました。アブラハムが「信仰の父」と呼ばれているのも、彼が神のことばを信じ、栄光を見たからに他なりません。

 信仰の素晴らしいところは、信じたなら必ず信仰は実を結ぶことです。確かに成就に至るまでは、試しや忍耐が許されます。しかし、信仰の種を蒔(ま)くなら、必ずそれは芽を出し、育ち、やがて実を結ばせます。信じることは神の働きにあずかるための確かな一歩です。

 冒頭に戻りますが、アブラハムは空の星を見て、子どものいない彼に、あなたの子孫はこのようにおびただしくなる、と約束された神を信じました。アブラハムはそこで、現状ではなく神のことばの方を受け取ったのです。これが信仰です。

 信仰が現れた今、私たちもまたアブラハムと同じように現状を超えた信仰による祝福を受けることができます。神のことばは、信じることによって実を結びます。ですから、信じることはとても大切です。不信仰からは何も生まれません。しかし、信仰は現実を超えた働きをするのです。まさに信仰は生きているのです。

 私は、イエスさまを信じるようになって41年になります。この間、多くの患難困難がありました。けれども、神への信頼が失望に終わったことはただの一度もありません。確かに試しがありました。しかし、どんなに試されても神のことばを信じる、その繰り返しによって信仰が立て上げられ、時至って神のことばは成就しました。信仰こそ神の目にかなうあり方であり、それは神の手を動かすのです。

 ローマ人への手紙4章にはこのように書かれています。「彼(アブラハム)は望みえないときに望みを抱いて信じました。彼は、不信仰によって、神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰(き)し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです」(182022節抜粋)。望みえない時にアブラハムは信じました。あなたは、どうですか。神とそのことばを信じてみませんか。望みえない時こそ信仰を働かせる絶好の機会です。

 どうかイエス・キリストをあなたの救い主として、心にお迎えください。主はあなたにも、信仰による勝利と奇跡のみわざを現してくださいます。 

MIKOE NEWSから転載」 2024年4月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/