神の心をわが心とする
出エジプト記24章で、主は「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう」と仰せられました。モーセが登ると、雲が山を覆い、6日間主の栄光がシナイ山を覆っていました。7日目に主はモーセを呼ばれ、モーセは、40日40夜、山にいました。
こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられた時、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられました。(31章18節)
ところが、モーセがあまりにも手間取っているのを見て、民はアロンに言います。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」
それで、アロンは彼らに「耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい」と言ったので、民が持ってくると、のみで型を造り、鋳物の子牛にしました。子牛そのものを神としたわけではありません。目に見えない神の台座として造ったものと思われます。
しかし、彼らは「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」と言い、アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「あすは主への祭りである」と呼ばわりました。そして、翌日、朝早く全焼と和解のいけにえをささげ、民は座っては、飲み食いし、立っては、戯れたのです。(出エジプト記32章参照)
主は、モーセに「さあ、すぐ降りて行け。彼らは早くもわたしの命じた道から外れ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、これがエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ、と言っている」と語り、民を絶ち滅ぼそうとされます。モーセが嘆願したので、主は災いを思い直してくださいましたが、宿営に近づき、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がり、板を砕き、子牛を火で焼き、粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませました。
敵の物笑いとなっているのを見てとったモーセは、宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに」と言ったところ、レビ族が皆、彼のところに集まりました。そこで、モーセは、彼らに「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」
レビ人は、モーセのことば通りに行いました。およそ三千人が倒れました。
モーセは「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために」と言われました。
こうして、レビ族は、他の部族から取り分けられ、幕屋の奉仕をもって主に仕えるレビ人とされたのです。祭司アロンに仕え、またイスラエルの初子の代わりとされました。主は、レビ人はわたしのものである、と言われました(民数記3章12、13節参照)。彼らはその行いによって、いかに大きな祝福と報いを受けたことでしょう。彼らは、とこしえまでレビ人として、祭司に関わる職を与えられました。それは、彼らが、主の心をわが心としたからです。
イエス・キリストも同じようなことを言っておられます。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません。(中略)自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失ったものは、それを自分のものとします。」(マタイの福音書10章37~39節抜粋)
主を愛するということは、主の心をわが心とすることです。それは、自分以上に主を愛することであるのです。レビ人は、主につくゆえに同胞を殺しました。同胞への愛以上に、主への愛が勝っていたからです。そして、主はそれを良しとされ、レビ人を祝福し、特別な任務に就かせてくださったのです。
このことは、旧約時代だけで終わるのではなく、その神への姿勢は新約時代にも受け継がれていることをイエスさまは示されました。イエスを愛する者は、イエスを何よりも第一にするということがなくてはあり得ません。そして、レビが、レビ職を受けたように、イエスのために自分のいのちを失なったものが、かえって自分のいのちを自分のものとするのです。
歴代誌第二に、このように書かれています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(16章9節)
私たちの心は、主と全く一つになっているでしょうか。主よりも、自分のいのちや父母を愛することは情としてあるものです。でも、レビは、あの時主の側に立ったのです。主の心をわが心としたのです。このような人々を主は求め、また用い報いてくださるのです。私たちも情にさえも死んで、いのちさえも惜しまず、主の心をわが心として従えるよう、祈り求めてまいりましょう。主は、その心を見、確かにその心に報いてくださるのです。
MIKOE NEWSから転載」 2025年5月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/