2012年10月25日木曜日

信頼の的

 ルカの福音書12章にあるお話です。
 金持ちの畑が豊作を迎え、彼は、作物を蓄えておく新しい大きな倉を建てまし
た。そして、自ら祝福して言いました。「たましいよ。これから先何年 分も
いっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」
 ところが神さまは、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去ら
れる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになる のか」
と語られました。
 皆さんは、ご自分の人生において何をよりどころとして生きておられますか?
 家族ですか。ペットや仕事、と言う人々もいるでしょう。けれども圧 倒的に
大多数の人は、「お金」と答えるのではないかと思います。
 確かにお金は万能のように見え、お金さえあれば何でも手に入るということは
偽らざるところでしょう。先ほどの金持ちもまた「お金」を信頼の的と したの
で倉を建てたのです。
 先日、ジョージ・ミュラーの伝記を読みました。孤児院に多額の献金を申し出
たある婦人に、ジョージは、後悔しないようによく考えてからささげな さいと
促しましたが、彼女はこう語りました。「自分の信頼の対象をお金から神に替え
たことについて、私は決して後悔などはしておりません」
 素晴らしい信仰です。献金をささげたことを言っているのではありません。も
ちろんそれもあります。しかし、ご婦人に起こった事はもっと大きな事 でし
た。お金をはじめとして、自分の持てるものに信頼する人生から、神を信頼の的
とする人生へと新しくされたのです。神を信頼の的とした生き方に は、自由が
あり、喜びがあります。神に対する信頼は、決して失望に終わることがありませ
ん。 (イスラエル北野)

み声新聞2012年10月28日号(第699号)より転載—

 


2012年10月18日木曜日

パリサイ人と取税人

 信仰生活の中で、しばしば陥りやすい過ちの一つに「自己義認」が挙げられます。自己義認は恵みから目を離させ、私たちを高ぶりのわなへと誘います。
 ルカの福音書18章に、ある例話です。二人の人が祈るために宮に上りました。
一人は当時のエリートであるパリサイ人、もう一人は人々が嫌う取税 人です。
 パリサイ人は心の中でこんな祈りをしました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のよう ではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」。自分は落ち度なく律法を守ってい る、自分自身を正しい、と誇りたいのでしょう。
 それに引き換え、取税人は、遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」。イエスさまは、神の前に義(正しい)と認められたのは、パリサイ人でなくこの取税人だと言いました。
 信仰生活の中で、私たちはしばしば「何をやったか」ということばかりを追求しがちです。それは間違いではありませんが、神さまは、私たちの心が 神の前に「どうあるか」ということに、より関心をお持ちです。自己義認は、神さまの恵みを必要としません。何でも自分の力でできる、と思っている からです。しかし、取税人は、神さまの恵みにより頼む、たましいの打ち砕かれた人物でし
た。この取税人が神さまの目にかなったのです。
 恵みの神を知らずに、どうして神を語れましょう。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年10月21日号(第698号)より転載—



2012年10月10日水曜日

コンプレックス

今は天にいる私の父は、自分と気性が似ている私に、幼少のころから一種の帝王学を教えました。どこに行っても通用する強さを持ち、また何があっても物おじしない娘へと育てようとしました。最低でも平均点、というのが父の教えでした。しかし、出来の悪い私はこの高いハードルに苦しみました。
 成人に達するころには、ついに無理が来て挫折しました。時流に乗って、うまく立ち回っている友人の姿を見ると、それができない自分を情けなく思 い、コンプレックスを覚えました。私は大学を休学し、医者を必要とする状態になってしまい、弱いことは私のコンプレックスとなりました。
 人生に絶望している時ほど、聖書が親しく語りかけてくることはありません。
神さまは聖書のことばを下さいました。このように書かれています。
 「主は遠くから、私に現れた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。おとめイスラエ ルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう』」(エ レミヤ書31章3、4節)というものです。
 そのご約束通り、父なる神さまは、私を病から立て直し、愛を示し、私を再び教会へ戻してくださいました。
 父や私が嫌った弱さですが、神さまは「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント人への手紙第二12章9節)とも語ってこられました。神さまのことばは真実です。弱さを感謝し、神さまの恵みの中に住まいましょ う。
 弱いことは、今や私にとっては尊いこととなりました。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年10月14日号(第697号)より転載—

2012年10月4日木曜日

危険な遊び

 小学生のころ、「こっくりさん」という遊びがはやっていました。文字盤を作り、十円玉を置き、動くままにその上を移動させ、結婚相手は誰だろう かなどといろんなことを聞き出すのです。半分本気、半分遊びで、大人たちにはおおむね他愛のない遊びと知られていましたが、これはもう立派な魔術 です。あずかりしれぬ闇に、足を踏み入れてしまうことを知ってください。
 以前にもお話ししましたが、悪霊と関わることは、後の人生に大きな障害となって出てきます。
 それ故、何でも信じやすく、好奇心の強い子どもの時代に、敵は、ターゲットを絞って、このような遊びに姿を変えて悪魔に反応しやすい種を植え 付けるのです。
 こっくりさんだけではなく、タロットや手相など、気を付けなければならない悪い遊びを、それと知らずに手を染めてしまいやすいのです。
 私もまた、幼少期に、悪魔的な遊びに大いに関係を持っていました。私は、この悪しき霊にとらわれてしまい、このままだと自分が滅んでしまうことが、よく分かっていました。
 ただただ、イエスさまのあわれみによって私は救われました。私は、次のようなことばを頂きました。「あなたがたの死との契約は解消され、よみと の同盟は成り立たない」(イザヤ書28章18節)というものです。イエスさまの十字架での死を代価として私はサタンとの死の契約から自由にされま した。想像を超えた大きな愛です。
 イエスさまの十字架によって私の、死との契約は解消されました。イエスさまの名を呼び自分の罪を悔い改めるなら私たちは救われます。主の恵みは 死の力よりもはるかに強いのです。十字架を仰ぎ見、救いを受けましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年10月7日号(第696号)より転載—