2021年9月29日水曜日

ゲッセマネの祈り

 イエス・キリストが、この世に来られた意味、それは私たちの救いにあります。主は私たちを贖うために世に来られました。使命を果たし、勝利を取られたのは、ゲッセマネでの祈りによるところが大きいと私は思っています。

 過ぎ越しの食卓で、イエスさまは「まことに、あなたがたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、私を裏切ります」とおっしゃいました。弟子たちは非常に悲しんで、ひとりびとり「まさか私のことではないでしょう」と言いました。イスカリオテ・ユダもそう言いましたがイエスさまは「いや、そうだ(お前だ)」と言われました。それを合図であるかのようにユダは、イエスを祭司長らに引き渡すため、外の闇の中に姿を消しました。

 その後、皆は賛美の歌を歌ってオリーブ山に出かけました。よく会合するために使っていたのです。ゲッセマネに来ると、イエスは弟子たちにここで座っているように告げ、ペテロとヤコブとヨハネを連れて行かれ、悲しみもだえ始められました。「私は悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」そう言われました。

 それから、少し進んで行って、ひれ伏して次のように祈られます。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようではなく、あなたのみこころのように、なさってください」

 この祈りはゲッセマネの祈りと呼ばれています。汗が血のしずくのように落ち、イエスさまは切々と父なる神に祈られます。み使いが天から現れてイエスを力づけます。そして、終に3度、イエスさまは祈りきったのです。ユダが手引きし、イエスさまは、祭司長や群衆の前で捕縛されました。

 この祈りの良い所は、正直に祈っていることです。イエスさまは本心を注ぎ出し祈られました。けれども、神のなさることは最善なのだということをご存知なので、「しかし、わたしの願うようではなくあなたのみこころのようになさってください」と、最後にはこう祈ることができたのです。イエスさまであっても、ひれ伏して神の助けを乞う程、み苦しみは激しく厳しいものでした。それは一時的であるにせよ、この時、イエスさまは全人類の罪を一身に担われたからです。

 こうしてイエスさまは十字架上で死に、3日目に復活を遂げられました。十字架で流されたご自身の血潮を代価として、主はサタンの支配下にある私たちを贖い解放し、神の子としてくださいました。これがイエス・キリストの福音です。あなたもまた、イエス・キリストを救い主として信じ、心にお迎えするなら、同じくこの恵みに与ることができます。ありのままのあなたでいいのです。イエスを信じ、み神の元に帰りましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年9月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2021年9月21日火曜日

貧しいお金持ち

 お金の問題というのは、一筋縄では行きません。イエスさまも宣教途中、群衆の1人から、遺産を分けるように私の兄弟に言ってほしいとお願いされました。これを聞いてイエスさまは、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、そのいのちは財産にあるのではないからです」と語られました。そして、1つの例話を話して下さいました。(以下ルカの福音書12章参照)

 ある金持ちの畑が豊作でした。それで金持ちは新しく作物を蓄えておく場所が無いと心中案じ、考えた末、倉を取り壊して、もっと大きいのを建て、作物や財産は皆そこにしまっておこう、と決めます。そして彼は自分のたましいに言います。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ安心して、食べて、飲んで、楽しめ」

 しかし、神は彼にこう言います。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです、と聖書は書いています。蓄えた人がそれを使うことなく死んでしまったら、その富はどこへ行くのでしょう。恐らく、貯めた苦労を知らない別の人があなたの財産を湯水のように使ってしまうでしょう。これもまた虚しいことだと思います。

 金は天下のまわりものとか、宵越しの金は持たない、という気前の良い文化も日本にはあります。しかし、その一方で私が出会ったお金持ちは、皆一様に吝嗇家(ケチ)でした。お金が減ることを極端にまで嫌い恐れています。食べる物を減らし、欲しいものを買わず、その分貯金が増えることを喜ぶ、そんな人生を送っています。本人はそれに満足しているので他人が口出す話ではないのですが、神さまから豊かさという祝福を頂いているのになぜそれを使わず、持たないと同然の貧しい生活をするのか、と勿体なく思います。

 箴言30章に、こんな祈りがありました。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。(中略)貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(79節)

 私たちが生きていくには、お金が必要です。それを否定するものではありません。しかし、人の命は財産にあるのではないのです。自分のために蓄えても神の前に富まないなら、その富は羽をつけて飛んで行ってしまいます。それ故、日々あなたを養ってくださる主に期待して、主が与えてくださるものを楽しみ、また喜びましょう。これこそが真の豊かさではないでしょうか。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年9月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年9月14日火曜日

イエスキリストの御名によって

 新約聖書、使徒の働き第3章でのことです。ペテロとヨハネが午後3時の祈りのために宮に向かうと、「美しの門」と呼ばれる門で物乞いをしていた男が施しを求めました。ペテロがヨハネとともに、その男に「私たちを見なさい」と言うと、男は何かもらえると思って二人に目を注ぎました。

 するとペテロは「金銀は私にはない。しかし、あるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」そう言って男の右手を取って立たせたところ、たちまち足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだしました。歩いたり跳ねたりしながら神を賛美しつつ、宮に入っていきました。

 これを見て群衆は皆、驚きあきれ、いっせいに彼らのところに押し寄せてきました。ペテロはこれを見てこう言いました。「イスラエル人たち。なぜ、このことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。(中略)イエスの御名が、その御名を信じる信仰の故に、あなたがたが今見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです」

 この告白は多くの示唆に富んでいます。1つには、いやしは主のみわざであるということです。ペテロやヨハネは用いられましたが、いやしは彼らの力や信仰で起こったのではないということです。2つめは、イエスの御名が、イエスによって与えられる信仰が、いやしというわざを生んだのだということです。いやしは神のものです。イエス・キリストが十字架で贖ってくださったその打ち傷によって、いやしは起こるのです。

 ペテロは、ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい、と語りました。いやしや奇跡は私たちから出るものではなくイエスの御名に力があるのです。また、同412節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と書かれています。

 私たちは、御名によっていやされ、御名によって救われるのです。イエス・キリストの御名には力があります。私たちは、この御名に期待しましょう。信仰は、無い所から苦労して搾り出すようなものではなく、イエスによる折々の助けがあります。それは、恵みによって与えられるものです。主は私たちが信じることができるように、その信仰さえ備えてくださっています。

 間もなく時が来て、私たちは信仰による神の現実を、今まで以上に体験するようになるでしょう。イエス・キリストの御名によって救いを受け、またいやしを受けましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年9月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2021年9月6日月曜日

いやされる信仰

 いやしと信仰は密接な関係にあります。私の母は、奇跡の人と呼ばれています。母はアレルギー体質なので病気になっても副作用を考えると薬が使えません。安静しか治療方法がないというのが現状で、医者もさじを投げています。そんな母は、イエスさまだけが唯一の拠り所です。膀胱がんがいやされ、リューマチがいやされ、臨終からの生還も果たしました。次々と病がいやされているので人は母を奇跡の人といいます。しかし、側で見ていた私には分かります。母にはイエスさましかなかったのです。1人で、いったいどれほど深くイエスさまにすがったのでしょう。

 聖書に、母と重ね合わさるようなある婦人のいやしが取り上げられています。(マルコの福音書5章参照)この婦人は、12年の間長血をわずらっていました。医者に恵まれず、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったのに、何のかいもなく、かえって悪くなる一方でした。その中で婦人はイエスによってなされるいやしの評判を聞きつけ、自分にも起こると信じたのです。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」そう一心に信じて、群衆の中からイエスさまの着物に触れました。するとたちどころに血の源が枯れ、完全にいやされました。

 イエスさまはいろんな形でいやしの働きを成しておられます。いやしは一方的な主の恵みです。とはいえ、いやしは信仰をベースに持つように思います。いやされるのに必要なものは信仰です。信仰といっても不信仰から搾り出すような信仰ではなく、恵みとして神がその時に与えてくださる信仰があります。

 もう20年以上昔になりますが、その頃私は病人で、イスラエルのヤボク川のほとりに居ました。黙想しているところに、牧師が現れて私に言うのです。「あなたの病気はいやされてきているのではないの?」それを聞くと御霊に感じてすぐに祈りました。「主よ。もし私がその通りいやされてきているなら、これを含めて3度牧師が私がいやされていると言いますように。そうすれば私はいやされます」

 すると、また牧師が現れ、ついには3度、いやされているのではないかと語ったのです。その瞬間です。たちまち私を縛っていた霊の鎖が解け落ち、聖霊による自由とキリストにある喜びが心に差し込みました。私は、いやされたのです。

 いやしの現場に立つ時、いやされる信仰というものが働きことを思わされます。私がいやされたのも、いやしを信じ祈ったからです。長血の婦人も、母も、イエスさまは最後の望みでした。自分にはもう、イエスさましかいない。でもイエスさまならきっと、とそう信じてすがった信仰に神は働かれました。

 誰であれ、願いや信仰を持ってイエスさまに近づくなら、奇跡に与ります。主は豊かに憐れんでくださいます。死の淵にいたとしても、救ってくださいます。神にいやせない病などありません。主イエスは、あなたを助け、あなたを守り、あなたの力となってくださいます。

奇跡は今でも起こります。あなたも主イエスを信じて、あなたの人生の中でこの奇跡を体験してください。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年9月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/