2023年12月28日木曜日

迫害前夜

 世の中には、サタンという存在がいます。天の父なる神さまを目で見ることができないように、サタンもまた目に見えるような者ではありません。サタンは、ルシファー(明けの明星)と呼ばれる存在でした。美や音楽をつかさどる天使であり、御使いたちのトップ(頭)であったのです。彼は非の打ち所がないほどまでに神に仕えていました。ところが、ある時ルシファーは、自分が神になろうとしたのです。自分の上には神しかいません。ですから、自分こそ神になろうとして背いたのです。たちまち神にさばかれ、神の敵という名すなわち「サタン」になり、追放され地に落とされました。その時、天の御使いの約3分の1が彼とともに地に下ったと言われています。悪霊がそれに当たります。

 こうして、サタンや悪霊は地に暗躍するようになりました。サタンの名はサタンの実質に伴い、「アポリュオン」(破壊者)や「ベルゼブル」(ハエの王、無価値)などとも呼ばれています。1人でも多くの人間が神から離れ、罪の内に死に、滅んでゆくことを願って働いているのです。目にこそ見えませんがサタンは地上であちこち動いています。サタンなんているわけない、ーーこれこそサタンが入れてくる最も典型的な惑わしです。こうして身を隠し、好き放題私たちを食いものにし、滅びに至らせようとしているのです。

 さて、話は飛びますが、キリスト教は世々にわたって迫害を受けてきました。迫害には必ずサタンが介在していると私は思います。拷問や責め苦の残虐さは、サタンが絡んでいるとしか思えない非道のわざです。生かさず殺さずを旨として耐えがたい苦痛を与え、背教させようとするのです。そのひどいありさまは映画「沈黙サイレンスー」で多くの論議を生みました。

 神はなぜこうした迫害を許されるのでしょう。迫害の結果、日本においてもおびただしい数の殉教者が出ました。今は落ち着いていて、信教の自由が保障されています。でもこれは一時の休みのようなもので、根本にある霊性が変わらぬ限り、やがては再び、至る所で迫害が起こるでしょう。

 それでは、迫害を受けた私たちへの報いは何でしょう。それは、天に用意されている殉教者の報いであり、また、この地上ではたましいの大収穫、すなわちリバイバルが来るということです。殉教者の血はリバイバルの種だと言われています。日本は、既に多くの殉教者を出しています。けれども、その血の報いはまだ見ていません。それは、これから見るのです。

 神さまはあえて私たちの祖先に殉教を許されました。天での報いが地上の命よりずっと優れているので許されたのだと私は思っています。また、世界を見回してみると、イスラエルと日本だけがクリスチャン人口が特に少ないと言われています。しかし、この汚名を覆すような大リバイバルを神は起こしてくださいます。殉教者の血の報いは必ずもたらされます。

 私たちは今、迫害前夜にいます。まもなく、反キリストが登場し、自分こそ神だと言い、真に神に聞き従うクリスチャンたちを激しく迫害するでしょう。サタンは反キリストと共に働き、わが物顔で殉教者たちの血に酔いしれます。しかし、その時にこそ主は来られ、さばきがもたらされるのです。

 ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「不正を行う者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る」221112節)

 主を恐れ、主の来臨に備えましょう。時は近づいています。神が報いをなされるその日がそこまで来ていることを知りましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年12月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年12月21日木曜日

新生の喜び

 大学進学のために上京した私は、高円寺辺りに差し掛かるといつも中央線の窓から見える、白い十字架を眺めることを楽しみにしていました。恐らくそこは教会なのだろうな、と幼い頃の楽しい教会学校を思い出し、好感を持って眺めていました。

 ところが、人生の不思議で、なんと私はその十字架の教会を訪れるようになったのです。クラスメートに誘われてついて行った教会がまさにその教会であったのです。皆、生き生きとしていて気持ちの良い教会でした。その日、たまたま時間が取れたので、しばらくお話しませんかと牧師に勧められ、屋根裏部屋の一室に案内されました。

 一通り話が済むと、お祈りしましょうということになりました。そうしたら牧師さんが興味深いことを語るのです。「目には見えませんが、ここには神さまが満ちておられます。神さまは私の祈りに応えてくださり、ご自由にあなたに対して働いてくださいます。私は日本語ではないことばで祈りますがよろしいでしょうか。平安を求める祈りです」

 そうして、祈りを受けたのです。するとしばらくして気付きました。体が横に横にと押されるのです。最初牧師さんが力をかけてきたのかと思いました。でも、そうではないようでした。このままいくと畳に体を投げ出してしまいそうで、立て直そうと躍起になったあたりで、急に「先生、お時間です。急いでください」という人の声があり、祈りの途中で牧師は急いで出て行きました。「すみません。ご自由に祈っていてくださって結構ですから」という言葉を残して。

 ひとり残された私は「キリスト教って失礼ね」とちょっと反発しました。しかし、それ以上に今さっき自分の身に起きた力のことを知りたくて、牧師さんが祈った通りに自分で祈ってみることにしました。「神さま、あなたは今ここに満ちていて、ご自由にわざをなしてくださいます。この者に平安が注がれますように

 すると、また力が来て私を押すのです。ついに私は畳に体を投げ出してしまいました。そして、起きようとしたところ、不意に教会学校で習った讃美歌「慈しみ深き」の一節が思い出され、泣きたいほど胸がいっぱいになりました。それは、「なぜお前は負っている重荷を(私の前に)下ろそうとしないのか」、という謙遜で愛に満ちた主イエスの語りかけでした。こうしてその日、私のたましいは主に帰ったのです。

 コリント人への手紙第二にはこのように書かれています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(517節)

 その日の帰り道、東京は珍しい大雪でした。雪に足を取られ何度も転びながら、うれしくてうれしくてたまりませんでした。私は救われたのです。古い私は過ぎ去り、私はニューパーソン(新しい人)になりました。主がそうしてくださったのです。

 これは、ちょうど40年前の実話です。今でも雪を見るたびにその日のことを思い出します。私のすべての罪はイエスさまの血潮によって赦され、雪のように白くなりました。私は、神の子となりました。あなたもまた、イエス・キリストを救い主として信じ、神の愛に戻りましょう。主イエスとの出会いは、あなたの人生を変えるものとなります。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年12月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年12月14日木曜日

不法の秘密

  86歳になる私の母は、小学生の頃戦争を体験しました。海辺にいたところ、1機の戦闘機から攻撃を受けました。浜辺に打ち上げられた古い船に身を避け難を逃れましたが、その恐怖は今も覚えているようです。母はいわゆる戦中派です。戦争を自身のものとして体験した世代です。そして、残念なことに今はそういった戦争体験者が高齢になって次々に亡くなられておられます。あと何年かで、日本は戦争体験者を失う時代になります。

 そうすると、どうなるでしょうか。戦争の痛みを知らないので、机上の議論だけで恐らく再び戦争に向かってゆくようになるでしょう。傷病者の痛み苦しみを知らず、個人の尊厳が顧みられることなく、人はただ頭数として捉えられ一兵卒として兵役に駆り出されます。既に、ロシアとウクライナは戦時体制に入っており、イスラエルとハマスの戦いも、さらに戦火が拡大する方向へ進んでいます。世界を巻き込んだ大きな戦争も既に想定内のことになっています。

 しかし、恐れないでください。テサロニケ人への手紙第二2章にはこのように書かれています。「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。(中略)不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです」(237節)

 不法の人、滅びの子とは、反キリストのことです。今はまだ引き止める者があって公には出現していません。しかし、やがて遅からずその人物は現れ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。サタンの働きにより、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、彼は絶大な人気を誇るでしょう。

 しかし、これらのことが起こったなら、私たちは信仰のともしびを整え、主が戸口まで来られたことを知らなければなりません。反キリストは激しくクリスチャンを迫害します。その迫害は、今までにないような残虐なものとなるでしょう。しかし、主は御口の息をもって彼(反キリスト)を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれる(8節)と約束されています。

 また、ペテロの手紙第二では「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます」(310節)と書かれています。

 天の万象は火によって焼けくずれ、世は終わりますとありますが、戦争で、核兵器を使用するならまさにその通りになります。主の来られるのはそれほどまでも近いのです。神のことばは成就します。良いことが成就するように、悪いこともまた成就するのです。しかも突如として滅びは襲ってきます。

 私たちは、終わりの時代に生きています。まもなく再び主イエスが来られます。目を覚まして、時を捉え、備えてまいりましょう。世と世のものは終わりますが、ヨハネの黙示録では、新しい天と新しい地が到来することが書かれています。イエス・キリストは王として再び来られます。そこに私たちの希望があるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年12月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年12月6日水曜日

人生 100 年時代

 若い頃から教会とともに歩んで、もうすぐ私は還暦を迎えます。いにしえより、還暦は老いの終着点と考えられて来ました。還暦まで生きられたというのはたいしたものだ、というのが当時の認識で、赤いちゃんちゃんこを着て、お祝いしました。

 しかし、自分がその年になってみるとまだまだ壮健です。老いの意識はありません。今の日本人の平均寿命は、男性は78歳、女性は85歳だそうです。ちなみに大東亜戦争の時には平均寿命は50年でした。

 老いに対する見方は時代とともに変わってきています。1959年に日本老年医学会は老年を60歳からとしました。しかし、1990年には高齢者は65歳からに引き上げられ、今はそれに加えて75歳以上を後期高齢者と呼んでいます。老いは遠くなりました。還暦を過ぎてもすぐに亡くなる時代ではないのです。

 私の世代は、通常仕事は60歳定年で、そこから年金生活に入りました。今は、年金は65歳開始となっていますので、年金受給までの5年間、食べてゆく算段をしなくてはなりません。それで知人の多くは再雇用という形で仕事を続けています。あとは、貯金に手を付けて乗り切る人もいます。どちらもできない人も大勢いて、年金だけでは食べてゆけない、と老いを危ぶむ声もあがっています。

 医学の進歩もあり、今や人生は、100年の時代だというふうに言われています。60歳の人が新規採用される時代なのです。しかし、何と生きづらくなった人生でしょう。率直なところ、いきなり降って湧いてきた40年もの老いの時間をいったいどうやって消費するのでしょう。私の乳母は、ご主人と二人で仲良く8畳の茶の間で自称老人クラブをしていました。ご飯を食べてお茶を飲んで、こうやってね、お迎えが来るのを待っているんだよ、と言いながら。

 長寿は、神さまからの祝福です。平均寿命が延びたのも祝福でしょう。けれども、すべてそれは神さまの計画あってのことです。老年に果たして可能性があるのかというと、それは大いにあります。何歳であろうと老け込むには早いです。聖路加国際病院名誉院長の日野原重明先生は、105歳まで現役で医師として過ごされ、召されていきました。なおかつ、年を取らないと分からないことがあるのでと、後進の育成にも尽力されました。身をもって老いにある使命と老いの意味とを教えてくださいました。

 還暦を過ぎた、年を取った、と言っても人生はまだまだこれからなのです。それは新たな始まりと言っても良いかもしれません。老いることはすべてが終わってしまうのではなく、老いにあっても、老いにあるからこそ、神が下さるビジョンがあるのです。老いを知ったあなたにしかできない神の働きがあるのです。神さまはあなたにそれをしてもらいたいのです。

 イザヤ書46章で神はこう語っています。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」34節)

 あなたに対する神の愛は変わることがありません。神はあなたが生まれる前からあなたの一生を造られました。あなたは神に知られているのです。それこそ胎内にいる時から白髪になる時まで。神は私たちを背負い、運び、救い出してくださいます。人生の中で、いかに主が良くしてくださったか、これを語ることができるのも老人の特権だと私は思います。若者には若者の生き方があるように、老人には老人の働きがあります。人生100年というこの時代、第2・第3の人生をイエスさまと共に生き、時満ちて天に帰りましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年12月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年11月29日水曜日

人生は選択で決まる

 私たちは、意識・無意識のうちに日々いろいろなことを選択しながら歩んでいるものです。大きいことから小さいことに至るまでさまざまに選択した結果、今の自分がある、そう考えても良いのではないでしょうか。

 それとともに、人生には生涯をかけた決断をしなければならない時が訪れます。仕事や結婚などがそれに当たります。昔、教会学校でお世話になった福音派の牧師が、自分は今、生涯の中でめったにしないほどの大きな決断をしようとしている、と明かしてくださったことがあります。その牧師はご両親が開拓した教会を継いでいました。教会は祝福されており、すべてが順調でした。しかし、そのただ中で牧師は、今の教会を出て他の教団に入る導きを捉え、それを決断されたのです。信徒はみなそれは先生のわがままだと言い理解しませんでした。それを押し切って家族でアメリカに渡り、さまざまな導きを経て、今は日本で大きな教会を任されています。あの時、牧師はか細い神の声を聞いていたのだと思います。そして、それに従ったゆえに今の働きがあるのだと私は思っています。

 何を選ぶかは、人生を決定します。そして人生を変えます。モーセもパウロも、聖書に残るほど大きな働きをしました。しかしそれは、彼らが神の召しに応答したからです。へブル人への手紙によれば「モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(112425節)と書かれていますし、パウロは、キリスト教の迫害者でありながらダマスコ途上で天からの光に照らされ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ」(使徒の働き2章参照)というイエスの声を聞き、召命を受けます。パウロはこれを機に180度一変した人生を歩むようになります。

 そして、これはモーセとパウロだけのものではなく、誰にもその人生の中で神が呼ばれる時があります。そして、何を選ぶかを決断すべき時がやってきます。Мさんは新聞屋さんでした。奥さまがイエスさまを信じたところ、ご本人いわく、けんかを売るつもりで牧師に会いに行ったそうです。ところが、逆に主に触れられてしまい、涙とともにたましいの牧者のもとに帰りました。救われたのです。そのМさんは今、牧師をしています。先日は、およそ考えもつかなかったであろうチェコ共和国に行き、路上で多くの群衆の前で賛美し賛美を導きました。こんな人生があるなんて、誰が知り得たことでしょう。

 人生は選択で決まります。イエス・キリストを信じるかどうかの決断が、私たちの人生やいのちを決定づけるのです。神は、すべての人がキリスト・イエスを信じ救われることを望んでおられます。すべては自由意志に任されています。でも、神にある人生を歩むことは、自分の心のままに歩む人生よりはるかに勝っています。

 神が私たちに語り掛けるか細い声を一心に聞き、その御声に聞き従いましょう。私たちは今、終わりの時代に差し掛かる、人生で最も大きな選択の戸口に立っているのです。全て神を選ぶ者を、神は選ばれます。神は私たちをご自身の栄光の現れとして用いてくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 





2023年11月24日金曜日

空の巣症候群

  一昔前に、空(から)の巣症候群ということが盛んにメディアで取り上げられていました。子どもが巣立って行ってしまい、子育てをすることもなくなったことで急に心が空虚になることからそう呼ばれています。

 ある婦人が興味深い話をされていました。彼女の幻(まぼろし)、人生の目標は、マイホームを持つことでした。幸せを象徴するかのようなマイホームは、彼女にとって心からの願いでした。そして、幸いなことにしばらくしてから彼女は念願のマイホームを持つことができたのです。欲しいものを手にして、これからいかに幸せな日々が来るかと、彼女は大いに期待していました。ところが、それは長く続きませんでした。最初の23年は良かったのです。でも、やがて新居に慣れてくるとその感動も薄れてきました。彼女にとってマイホーム取得は人生の目標だったので、それを手に入れてしまうと、次に目標とするものが見いだせず、思いもしないむなしさが心に生じたのです。これも空の巣症候群の一つでしょう。

 人生には節目があります。節目ごとに行事があります。誕生、入学、卒業、就職、結婚、出産、退職などです。次から次へと私たちは、これらをこなしつつ年を取っていきます。そして、あっという間に人生の終焉(しゅうえん)を迎えるのです。世の歩みは、人との競争もあり、他者との比較で悩んだり、また、ねたみを抱いて苦しんだりします。勝ち組・負け組という言葉もあるように、毎日が戦いと言えるでしょう。世の欲は切りがなく、あれもこれも得ようとしていますが、これもまた風を追うようなむなしいものです。

 マタイの福音書44節でイエスさまは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られました。パンとは、生活してゆくこと食べてゆくことです。しかし人生は、単に生活ができればよいというようなものではありません。私たちの人生には意味があり、役割があり、使命があるのです。これは、食べること以上に重要なことです。冒頭で紹介した婦人は、自分の目的とはいえ、幻(まぼろし)を堅く握っていました。そして、それは神の定めた時にかなえられました。幻(ビジョン)は人を立て上げ、また育て上げます。神の前に、神のみこころにかなう願いを持つことは大きな力になります。

 反対に、幻(ビジョン)がない人生はつまらない人生です。まず、信仰が働く余地がありません。世のものを受けるでしょうが、それらはいずれ朽ちてゆきますし、やりたいことを全部やってしまったら、何が残っているでしょうか。それこそ空の巣症候群になりかねません。

 人はパンだけで生きるのではありません。日々の必要を追求すること以上のものが人生には用意されています。それは、神のみこころを行うということです。神のみこころを行うことは私たちの人生の目的です。この目的を持っていなければやがて淘汰(とうた)され、むなしく塵(ちり)に還ってゆきます。前述の婦人は、マイホームを得た後、むなしさが残りました。しかしその時、本当に必要なものは神の口から出る一つ一つのことばにあると知ったのです。彼女が追求するものは一変しました。

 神の口から出る一つ一つのことばが、私たちを生かします。神のことばは確かなものです。神のことばを土台とする人生は、何があっても揺るぐことがありません。それゆえ、あなたも主イエスを信じ、神のことばに立ち、幻(ビジョン)に生きる人生をお送りください。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年11月15日水曜日

再臨に向かって

  2022224日、ロシアがウクライナに、軍事行動を仕掛けたことからロシア・ウクライナ戦争が始まりました。少しずつ戦禍が拡大しつつあるところに、今度はハマスがイスラエルを攻撃しました。今は、両者とも激しい戦いを繰り広げています。そればかりかこの戦争に加わろうとする国々や民族の動きがあちこちで起こっていて、目が離せません。この戦争はまだ入り口です。でも、もはや引き返すことができないところまで来てしまったように思えます。

 イスラエルの歴史は、昔から、戦争から戦争、そして民族迫害の歴史でした。そしてそれらのことを今も昨日のことのように記憶しています。それゆえ、やられたらやり返す、また、やられる前にやれ、これが今のイスラエルの戦い方となっています。でも、そうせざるを得ない歴史をたどって来たのです。
 私たちは毎年10月の第1日曜日に世界中のクリスチャンとともに心を合わせてエルサレムの平和のために祈ります。平和とは何とうるわしいものでしょうか。戦いの中ではなおさらです。すべては神のお心の内にありますが、一刻も早く戦争が終結するように祈ります。そして、本当の平和が訪れることを願ってやみません。

 しかし、これには「時」があります。伝道者の書3章でソロモンはこう語りました。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。捜すのに時があり、失うのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(111節抜粋)

 ここにはそれぞれ正反対のことが書かれています。どちらが良いとかそういうものではなく、ただ、相反する二つのものにそれぞれに神の時というものがあるのです。生まれるにも死ぬにも、戦うにも和睦するのも、すべて神がその采配を握っておられます。

 私たちは今、戦争という局面を迎えています。それは長い年月語られてきた終末の「時」の始まりなのです。ここにおける全能者の計画があり、それが終わらなければ時代は移り変わりません。しかし、忍耐をもって備えるなら、遠からず神の決着を見ることになるでしょう。今、世界は再臨に向かって動いているのです。そしてその次に来る新しい世界へ向かっています。

 ルカの福音書にはこう書かれています。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」(34節)。その通り、私たちは再臨に向けて主の通られる道を用意していきましょう。イエスさまはまもなく、再び来られます。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年11月8日水曜日

安息

 若い頃から私は、何でもがむしゃらに突き進む人間でした。夜更かしが好きで、休むなんて時間がもったいないといつも思っていましたし、常に何かをしていないと落ち着きませんでした。今でもその傾向があります。でも、随分変えられました。

 聖書を読むうちに、だんだんと分かってきたのは、休むことが奨励されているということです。週に1度の安息日やヨベルの年などで、これらを守ることはとても大切なこととして先祖から受け継ぎ、今も継承されています。ユダヤ人にとって、休むことは怠惰ではなく、休むことは聖なることであるのです。何もしないでいるという安息の期間を持つことは、これから先のことに備えるための大切な営みであるのです。

 先日、ある精神科医が執筆した書物を読みました。生き物には生き残るために組み込まれた大切な機能があるというお話で、たいへん興味をかきたてられました。「桃太郎」では、おじいさんは山にしば刈りに行き、おばあさんは川で洗濯していました。これは、子孫を残すという役割を直接担う女性はより安全な、家のそばで働き、男は食を得るために外に出て働きます。このようにして、人類には生き残りの戦略が自然と働いています。男女の仕事のふるい分けもまた、人類が生き残るための知恵でしょう。他にも、熊は暖かい季節には食を得て活動しますが、食のない冬は、力を温存して生きるために冬眠します。これもまた生き残り戦略が刷り込まれている例だと紹介されていました。

 ここから私も、休むということは人間にとって、これから先を生きるため、また生き残るために備えられている重要な機関(機能)であるのではないかと考えるようになりました。人間もまた、休息期と活動期があります。活動期ばかりが目立ちますが、休むことは、場合によれば働くこと以上に重要なのです。

 というのも、安息することは創世記の始まりから言及されているからです。神は天地創造の際に、6日かけて、天と地とそのすべての万象を完成されました。それらは非常に良かったのです。それで神は第7日目に、なさっていたわざの完成を告げられました。そして、なさっていたすべてのわざを休まれました。そして、その第7日目を祝福し、この日を聖であるとされたのです。

 いかにこの安息が大切か、それは十戒にも取り上げられています。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」(出エジプト記20810節)

 神が創造のわざを休まれたことと、その日を聖とされたことには密接な関係があります。この休みというのは私たちが毎日体験している休みとはちょっと異なります。この安息は万物の完成を告げ知らせるものであり、聖なるものであるのです。

 これらのことから、私たちは休むということがいかに大切なもので、聖なるものであるかをうかがい知ることができます。マタイの福音書11章でイエスさまはこう言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(中略)わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます」(2829節)

 生きる営みには働くことだけではなく安息が必要です。真の安息は休むことにあり、安息は主イエスの内にあるのです。ですから、あなたもまたイエス・キリストを信じ、イエスさまご自身から安息を学びましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年11月2日木曜日

あわれみといけにえ

  マタイの福音書9章のことです。パリサイ人たちは、イエスさまが罪人(つみびと)とともに食事をしているのを見て、それをさげすみました。それに対して、イエスさまは「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」、とおっしゃいました(13節)。これは、神の手を動かすのはあわれみであって、いけにえによるのではない、という意味です。人は罪人(つみびと)であるので自分で自分を贖(あがな)うことができません。ですから神はあわれみを語り、恵みの内に私たちを救ってくださるのです。これは、聖書の軸となる教えです。

 ルカの福音書18章に興味深い記述があります。パリサイ人と取税人、2人の者が祈るために宮に上りました。パリサイ人はそこで心中こんな祈りをささげました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」。一方、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました。「神さま。こんな罪人(つみびと)の私をあわれんでください

 聖書では「この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(914節)と書かれています。あわれみは好むがいけにえは好まないというイエスさまのおことばは、この例話からも読み取れます。主は私たちがあわれみにより頼むことを好まれるのです。

 私たちの失敗は自分で自分を高くしてしまうことにあります。パリサイ人が誇り高々に述べた祈りの数々は、確かにそうそうできるものではないと思います。けれども神はそれに目を留められず、ただあわれみを請うた取税人を義(正しい)とされたのです。

 詩篇5117節にこんな一文があります。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」。これは、ダビデの詩です。ダビデはウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、それを隠そうとウリヤを激戦区に送り殺してしまいます。姦淫に加えて殺人の罪を犯したダビデに、神は預言者ナタンを遣わしその罪を指摘されました。するとダビデは即座に「私は主に対して罪を犯した」と罪を告白します。すると「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない」と神は語ってくださいました。これがあわれみなのです。

 罪人(つみびと)である私たちに対して、神のあわれみは実に深いです。主は砕かれたたましいを貴重なものとして受け取ってくださいます。さげすまず、むしろ寄り添い、そこに真実な悔い改めがあるなら、罪より深いあわれみを神は注いでくださいます。

 人の罪を赦すことのおできになる方はイエスさま以外にありません。イエスさまは、いけにえは好まないと語られました。そもそもそのいけにえも、本をただせば神がお造りになったものです。このようなものに人の罪を贖うような力があるでしょうか。

 それゆえ主イエスは、私たちに神のあわれみを学ぶよう勧められました。イエスさまは滅びに向かう私たちをあわれみ、十字架による救いに導かれました。私たちは神のあわれみによって無条件で救われたのです。そして、今や神の子です。神のあわれみにより頼み、恵みある人生を送りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年11月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年10月25日水曜日

宣教のことばの愚かさを通して

 マタイの福音書1626節にこう書かれています。「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう

 まことのいのちとは、私のいのちであるとともに、イエスさまとイエスさまにあるいのちのことです。イエスさまは、私たちの救いのために、すべての罪を身代わりに負って、十字架の死を遂げられ、3日目に復活されました。そして、この十字架を代価として、イエスさまはただ一度、罪や死から完全にまた永遠に、私たちを贖(あがな)ってくださいました。イエスさまの十字架の死は私のためであったと罪を認め、悔い改めてイエス・キリストを心に迎え入れるなら、その人はすべての罪の赦しを得、救いを受けます。私たちは神の子となり、永遠のいのちが与えられます。

 このいのちは何よりも尊く、全世界を得るよりも大切なものだと福音書の著者は語っています。ただ恵みによって、私たちはこの永遠のいのちを受けます。これが信仰の素晴らしいところです。「救い」は努力や能力などによって勝ち取るそのようなものではありません。一方的な神の恵みによるもので、「救い」は信じる者なら誰にでも与えられます。ただ信じる。それだけで、誰であってもまたどのような状況であっても救われます。神の知恵は、「救い」を、信仰を通して受けるものとされた点にあると私は思います。

 というのも、コリント人への手紙第一1章に、このように書かれているからです。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする』(中略)事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(181921節)

 ここでも、「救い」は信仰によること、十字架のことばの愚かさを通してもたらされるものであることなどが書かれています。神さまはあえて、理性や賢さによって「救い」がもたらされることがないよう、その「救い」の方法に信仰を選ばれたのです。そして、これが神の知恵でした。

 信仰は世の知恵によれば、愚かに見えます。しかし、その愚かに見える信仰こそ、私たちを救いに至らせるものなのです。パウロもモーセも、学があり知恵の人でした。世の成功の中にいたのです。しかし、彼らはすべてを捨てて、イエス・キリストのしもべとなり、ある時は民を導き、人々に理解されなくても神に聞き従う人生を選び、死に至るまで忠実に神に従い通しました。その変容は、世の人から見れば、正気の沙汰ではないと思われるほどのものでした。地位も学もある彼らがなぜその良きものを捨て神のしもべになるのか、大いに疑問でしょう。

 それは、この福音が神から出ており、ここにこそ、まことのいのちがあるからです。キリスト・イエスの義は、すべてをなげうっても得たいと願うほど高価で素晴らしい宝石に例えることができます。それを見出した彼らは、躊躇(ちゅうちょ)なくそれを選んだのです。

 人は、たとい全世界を得たとしても、まことのいのちを損じたら、何になるでしょう。むなしくちりに帰るだけです。しかし、イエス・キリストを信じるなら、私たちは救いを得、永遠のいのちを受けるのです。イエスの宣教は、世々にわたって十字架のことばの愚かさを通してもたらされました。信じること、これより外に求められるものはただ一つとしてありません。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年10月25日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年10月18日水曜日

キリストには代えられません

 東京に住んでいる時、娘の幼稚園で「ママ友」(ままとも)というグループがありました。子どものお母さん同士の交わりで、子どもを迎えに来た後、しょっちゅう集まっては、おしゃべりします。内容は、主に暮らし向きの自慢、家柄の自慢、夫の自慢に子の自慢です。何とも居心地の悪い集まりでした。今から思えば、この自慢の背景にはねたみや比較、競争心があったと思います。「ママ友」仲間に入っていないと何かとバッシングされ、子どもにそれが返ってゆくので、ひたすら耐えました。もちろんそうではない良い「ママ友」グループも数多くあるでしょう。けれども、私のいた所はサタンが働く温床でした。

 ヨハネの手紙第一2章にはこのように書かれています。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」(1517節)

 なぜ、ママ友になじめなかったのか、これを読んで分かりました。欲や自慢、競争は神さまから出たものでなく、世に属するものであるのです。サタンは世の支配者であり、すべて世を愛させる思いはサタンから来ます。ママたちの自慢は世だけのことで、世と世の欲はやがては滅び去るのです。神の子と世の子は、互いに交じり合うことはできません。

 イエス・キリストを救い主として信じた者は、天国、神の国を国籍とする神の子として新しく生まれました。イエスさまの十字架によって世から贖(あがな)われたのです。それゆえすべては一変しました。かつては追求していた世の欲も自慢も、今の私にはむなしいばかりです。それに引き換えイエスさまにある人生は、日々新しく、いのちに満ちあふれています。罪を赦し、聖さで満たし、喜びを与え、神は最高のもので私たちを取り囲んでくださいました。私たちは神のものであり、神に愛され、神を愛しています。

 「キリストには代えられません」という有名な讃美歌があります(讃美歌21522番)。世の何ものであっても、キリストにある神の愛には比べられない、世の何ものもキリストの愛から私たちを引き離すことはできない、という歌です。このことに関しては、ローマ人への手紙8章にはこう書かれています。

 「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。(中略)私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(3539節)

 私たちはキリスト・イエスを愛しています。しかし、それ以上に神は私たちを愛してくださっています。神は、ねたむほど私たちを愛しておられるといいます。何があろうと決して私たちを離されません。私たちが神を捉えたのではなく、神が私たちを捉えてくださったのです。ですから、その愛と救いは、神にかかっており、何があろうと神から私たちを引き離すことはできないのです。

 何ものにも代えがたいキリストの愛、これが私たちを取り巻いています。他の何ものも、キリストに代わることができません。キリストの愛こそ最も高価で尊いものなのです。世の誉れも、楽しみも、有名な人になることも、キリストを得たことには代えられません。

 立ち止まって考えましょう。そして、イエス・キリストを信じましょう。ママ友も本当はイエス・キリストの愛が必要なのです。

MIKOE NEWSから転載」 2023年10月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年10月12日木曜日

産まれいずる悩み

 2023108日、イスラエルは、一方的にイスラエルに宣戦布告をし攻撃してきたパレスチナのハマスに対し、正式に宣戦布告を表明しました。これによって、「第5次中東戦争」が始まりました。先のことは分かりません。しかし、状況によっては世界を巻き込み、核兵器使用を念頭に置いた、厳しいものに発展しかねません。

 前日の7日、ハマスの宣戦布告をエックスで知りました。その時、娘としみじみこれからのことを語り合いました。「お金も無駄。備蓄も無駄」。戦争を回避するために努力したものの、結局は全面戦争になってしまったことに、例えようのない空しさを覚えました。いのちを的(まと)とする、それが戦争というものです。双方に死者が出、町はがれきの山になりました。本当に頼りになるのはいったい何なのか。平和はどこにあるのか。今や、世界全体がその答えを見い出そうとしています。

 この戦争の政治的解決は、恐らく中東包括和平の締結になると言われています。しかし、これによって平和が来ると思いきや、聖書から読むと、むしろここからキリストの再臨を迎える7年間の患難時代が始まるのです。中東包括和平を取りまとめるリーダーは反キリストと言われており、それに協力する偽キリストも遠からず現れます。戦争は破壊を生むばかりで、死者・犠牲者は増える一方。何とか止めたいと思っても、既にさいは投げられてしまいました。

 聖書には世の終わりについてさまざまな記述があります。ヨハネの黙示録や預言書などです。マタイの福音書24章も、小黙示録とも呼ばれ、世の終わりの前兆を教えてほしいという弟子たちにイエスさまが解き明かされたものです。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」(48節)

 今、世界中で起こっている戦争や災害は、この「産みの苦しみの初め」ではないかと言われています。産みとは、おそらく主の再臨、そしてその後に来る「千年王国」であると思います。一口に産むといっても、人間を例にとっても、長い経過をたどります。受精し母の胎の中で約9カ月。陣痛が始まって10数時間。30分に1回であった陣痛は規則正しく1分置きになり、激しさはクライマックスを迎えます。そして産声とともに新しい命が誕生するのです。

 このように、今、世界は「産みの苦しみの初め」にあるのです。再臨の兆候は至る所に現れています。戦争一つとっても、既にロシアとウクライナでは戦争が始まっていますし、台湾有事の懸念も気を抜けません。ハマスとイスラエルの戦争もまた、聖書に書かれていることを越えてはいません。イエスさまは、「戦争のことや戦争のうわさを聞くがあわてないようにしなさい。これらは必ず起こるが、終わりが来たのではありません」。そう語られたのです。

 終わりに関して、その日その時は、父なる神さまだけが知っておられます(36節)。そして本当に恐れなければならないのはこの、世の終わりの日なのです。再臨に至る産みの苦しみは既に始まっています。聖書にはこう書かれています。「まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(3435節)

 私たちは、終わりの時代に生きるクリスチャンです。再臨の約束が果たされるのは近いと思い、それを信じています。ただ、聖書に書かれているように終わりはすぐには来ないことも知っておいてください。それゆえ祈りましょう。いつ主が来られても良いように備えましょう。祈りは強力な武器で、神の手を動かします。1日でも早い戦争終結を祈り、王として来られるイエスさまを待ち望みましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年10月12日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2023年10月4日水曜日

死者の復活

 皆さんは、死者の復活を信じますか? これは、私たち生きているものにとってとても重大な課題です。毎年年末になると、喪中欠礼の葉書が届きます。そこには、○○が永眠しましたと書かれています。永眠とはうまい表現だと思います。死者は、確かに目覚めない眠りについたのです。しかし、黙示録20章では、死んだ人々が最後の審判で、いのちの書に照らし合わせてさばきを受けると書かれているので、正しくは永眠ではありません。

 先日、イリエ・コロアマさんが召天されました。預言者として行くべき道を示された方です。私たちクリスチャンは死んだら天国に行くので、別離の悲しみはありますけれども、死にあっても希望があります。なぜなら、私たちはよみがえるからです。望みのない人のように嘆く必要はありません。聖書のコリント人の手紙第一15章は、この復活について言及しています。

 「もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」(1617節)。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」(2022節)

 イエスさまは、その十字架の死を代価に、私たちを罪から贖(あがな)い出してくださいました。そして、私たちへの贖いがなされたことの証明として、死んで3日目に死からの復活を遂げられました。アダムの罪ゆえに人類に死が入りましたが、イエスの復活により人類は神との和解を得、死に引きかえ永遠のいのちを受けました。イエスさまは、人類の復活の初穂なのです。

 興味深いことに聖書にはこう書かれています。「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた』としるされている、みことばが実現します」(5354節)

 朽ちるものとは肉であり、私たちです。朽ちないものとはイエスさまです。イエスを着ること、すなわちイエスを信じることによって、私たちは不死を着、新しく生まれるのです。私たちはイエスさまにつき従います。イエスさまが戦われたら私たちも戦い、イエスさまがよみがえられたら、私たちもよみがえり、イエスさまが天におられるから、私たちもやがて天に迎え入れられます。

 イエスさまは死に勝利されました。そして、これをもって救いは完成しました。誰でもこのイエス・キリストを信じるなら、あなたも神の子です。復活の希望を堅く握りましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2023年10月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2023年9月27日水曜日

 ザアカイを愛されたイエスさま

 ルカの福音書19章のお話です。イエスさまはその宣教の働きの中で、エリコの町に入られました。そこでは、イエスさまの評判を聞きつけて、大勢の群衆がイエスさまを見ようとして集まっていました。

 この町には、ザアカイという人物がいました。彼は、取税人の、しかもその頭であり、たいそうな金持ちでした。ザアカイは、多くの取税人がそうであるように、不正を行って私腹を肥やしたのです。日本でいうところの守銭奴です。そんなこんなで人々は取税人を嫌い、ザアカイを嫌っていました。

 ザアカイもまた、イエスさまがどんな方か見たいと思い、沿道に駆け付けました。しかし、彼は背が低かったため、群衆のために見ることができませんでした。嫌われ者のザアカイに場所を譲ってくれるような人はいません。それで、ザアカイはイエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登りました。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからです。

 イエスさまは、ちょうどそこに来られて、上を見上げてザアカイに言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えました。これを見て、皆は「あの方は罪人(つみびと)のところに行って客となられた」と言ってつぶやきました。

 この箇所だけでなく、マタイの福音書9章にも同様の記載があります。イエスさまが大勢の取税人や罪人(つみびと)とともに食事の席についたことをパリサイ人は面白く思わず、弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人(つみびと)といっしょに食事をするのですか」と問いました。

 これを聞いてイエスさまご自身が答えられました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人(つみびと)を招くために来たのです」。

 これが、ザアカイの客となられたイエスさまのお心なのです。そして、これが神の愛です。罪人(つみびと)をあわれみ、行くべき道に導き、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、罪過の中に死んでいる私たちを赦し、いやし、神の子としてくださるのです。

 この神の愛、これがザアカイを変えました。イエスさまが自分の客となってくださったことで、ザアカイは救われました。よほどうれしかったのでしょう。自分の財産の半分を貧しい人たちに施します。だまし取った物は四倍にして返します。そう自らイエスさまに言いました。イエスさまは、これを喜び「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから」と言い、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と語られました。

 救いは宝石の原石のようなものです。そのままでは、泥にまみれたただの石にしか見えません。けれども、洗い削ってゆくうちに光を放ち、宝石としての実質が現れます。ザアカイは、この原石であったのです。それで、主は彼をアブラハムの子と言われたのです。そして、今なお多くのアブラハムの子たちがいます。彼らは原石で、往々にして罪という泥にまみれています。それで一見すれば悪い者のように見えます。しかし、イエスさまはご自分に属するものをご存じです。イエスさまの宣教は、その原石であるアブラハムの子たちを捜して救うためにあったのです。

 ザアカイの人生は一変しました。お金より尊いイエスさまの愛を知ったからです。イエスさまはあなたのところにも来てくださいます。救い主としてイエスさまを信じ、み神のもとに帰りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2023年9月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/