2021年8月29日日曜日

天に届く祈り

 祈りは、人間だけに与えられている特権です。いにしえからこのかた犬や猫が祈るなんて聞いたことがありませんし、彼らも自分たちと飼い主以外の世界があるなんてことは知りもしません。自分を造られた神という存在を知らされているのは人間しかいないのです。このことから、いかに神が私たち人間を特別に愛しておられるのか、ということが分かります。私たちを愛しておられるからこそ、神は被造物の一切を、御使いたちにではなく人間に委ねておられるのです。

 聖書には第一サムエル記という箇所があり、その1章では、預言者サムエルの生い立ちに触れています。サムエルのお母さんはハンナといいます。お父さんはエルカナといい、ハンナをとても愛していました。しかし、エルカナにはぺニンナというもう一人の妻がいたのです。彼女との間には子どもがいて、ハンナを憎むぺニンナは、ハンナが、子がなくて気をもんでいるのを知って、あえて彼女をひどく苛立たせるように仕向けたので、ハンナは泣いて食事を取ろうともしませんでした。

 遂に、ハンナは主の宮に行きました。同10節には「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」とその祈りの様子が記されています。ハンナは、長く祈っており、心のうちで祈っていたのでくちびるが動くだけで声は聞こえませんでした。それで祭司は、酒に酔っていると思い、酔いをさましなさい、とハンナをたしなめました。

 するとハンナは「いいえ祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。お酒も飲んではおりません。主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。私はつのる憂いといらだちとのため、今まで祈っていたのです」といいました。祭司は、「安心して行きなさい」といってくださいました。「彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」(18節)聖書はそのように記しています。

 祈りには強力な力があります。神のみ前にとうとうハンナは祈り切ったのです。そして、実際ハンナはサムエルを授かりました。問題を前に彼女がなしたのは祈りです。ハンナは神の所に行きました。そしてそれは正解であったのです。祈りは、神の手を動かすものであり、私たちに与えられた特権です。私たちは、祈りによって神と語り、交わることができます。こんなこと、人間以外に誰に許されているでしょうか。

 また、時に私たちは四面楚歌という状況に陥ることがあります。その中にあっても、上は、天は、私たちに開かれています。そこには神が座しておられます。祈りは天に立ちのぼり、助けは天からやって来ます。神は私たちの祈りを地に落とすことはなさいません。神は常に私たちに目を注いでくださっているのです。それ故、私たちは祈りましょう。心を尽くして主に願いましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年8月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年8月23日月曜日

 罪人を愛された主

 1980年代は、青春の時代でした。ピンクレディーが一世を風靡して、その振り付けを真似して踊ったものです。また、「新人類」と呼ばれる次世代の若者たちが現れ、社会には新しい時代の風が吹いていました(バブルを迎える前の時代でした)。通った学校は良家の子女が集まるという私学です。しかし、それでもクラスのうちには必ず23人はアウトローがいました。頭にパーマをかけ、スカートの丈を長くし、禁止されていたアルバイトをして、恋人をつくり、彼らは「不良」や「つっぱり」と呼ばれ蔑まれていました。若さからくる間違いや罪もあり、彼らを見る社会の目は厳しいものでした。それ故彼らもまた社会に反抗する姿勢を硬くするのです。仲間にこそなりませんでしたが、私には彼らに共感するものがありました。

 クラスメートのRはその「不良」でした。見るからに浮いた存在で、生活は乱れ、悪い噂ばかりです。ところが、ある時そのRがまともなことを言って周囲を驚かせました。キリスト教会のことを誰かが伝えたのでしょう。神が自分を愛しておられること、十字架の赦しを語り始めました。それも自分一人にとどめておくのが惜しいように、喜びを持って語るのです。その変化を目の当たりにしたある保護者は、こんなに変わるならうちの娘もぜひ一緒に教会に連れていってほしい、と願ったほどです。

 ルカの福音書5章では、パリサイ人や律法学者たちが、イエスのお弟子たちに、「なぜあなたがたは取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と問うています。それに対してイエスさまは、「医者を必要とするのは丈夫者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」(3032節参照)とお答えになりました。

 確かに真っ先にイエスさまに帰ったのは、遊女や取税人など、罪人と呼ばれる者たちでした。彼らはイエスさまが救い主であることにいち早く気づきました。なぜなら彼らのうちには自分は罪人であるという負い目があったからです。彼らは医者を必要とする病人でした。人にはできない罪の赦しですがイエスさまならおできになると、彼らは信じました。そしてその通り彼らは受けたのです。

 Rは不良であり、また人一倍愛に敏感でした。ありのままのRを愛したイエスさまの真実を知った時、それはRを根底から変えるものとなりました。

 イエスさまは医者です。罪人の主です。この方は、人が見るように人を見ません。心を見られるのです。ありのままのあなたを愛し、あなたを取り戻すためにイエスさまは、十字架で死んでくださいました。どうかイエス・キリストを救い主だと信じ、告白し、あなたの心にお迎えください。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年8月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年8月18日水曜日

 近づく再臨

 聖書は、霊的な書物です。私は、聖書は原典において誤りなき神のことばと信じる者です。聖書には他の書物にはない特徴があります。それは、創世記11節の「初めに、神が天と地を創造した」というところを起点として、黙示録に書かれている新天新地に至る世の終わりという未来までを、預言を含め完成した形で書きあらわしている点にあります。未来に関する記述の中には既に成就したものもありますが、これから成就するものもたくさん残っています。特に世の終わりに関する言葉は、いよいよこれから実現してゆく時代になるでしょう。

 マタイの福音書24章は、小黙示録と呼ばれ、終わりの時代に起こることについて言及されています。ある時弟子たちはイエスさまに「お話しください。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう」と問いました。イエスさまは、人に惑わされないように気をつけなさいと言い、これから偽キリストが大ぜい現れ、多くの人を惑わすこと。また戦争のことや戦争のうわさを聞くがあわてないこと。これらは必ず起こることであるが、終わりが来たのではないこと。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震がおこる、と予告し、そしてそのようなことはみな、産みの苦しみの「初め」であるのだと、おっしゃいました。(28節参照)

 注意しておかなければならないのは、私たちはさまざまな困難を通りますが、それが産みの苦しみの「初め」であると語られていることです。終わりの日は、すぐには来ません。同14節によると、終わりの日が来るのは、御国の福音が全世界に述べ伝えられて、すべての国民に証しされてからだと定められているのです。

 ペテロの手紙第二3章でも、「主の日は、盗人のようにやって来ます。(中略)その日が来れば、そのために天の万象は焼け溶けてしまいます」(12節)という記述が見られます。しかしそればかりでなく、13節には「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」と語られています。すべてが崩れ落ちた後には、新天新地の到来が約束されています。これをもって、神とともにある、永遠という時代が再び始まるのです。

 さて、私たちは今、新型コロナウイルスによる病の拡大の中に置かれています。これは人類と未知のウイルスとの戦いです。特筆すべきは、このことによって世界に国境がなくなって来たことです。コロナウイルスは今や地球規模で動き、国境を越えて広がりました。それで私たちもコロナウイルスに立ち向かうに当たって、国境や民族の垣根を越えて地球規模で動いてゆくようになりました。このような社会変化は今までになかったことです。地球(世界)は分断されていましたが、今や1つになろうとしているのです。

 それらのことは、すべてイエスさまが来られる前のしるしです。産みの苦しみの初めです。イエスさまは、ご自身を待ち望んでいる者たちのために間もなく再び世に来られます。イエスを信じ、頭を上げ、主の再臨を迎えましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年8月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年8月11日水曜日

イエスの血潮

 イエスさまにはいろんな呼び名があります。ご自分のことを人の子と呼ばれましたし、黙示録では小羊あるいは神の小羊と書いてあります。小羊というのは、罪のために屠られた小羊の事で、イエスさまが生涯をかけて成し遂げられた十字架での贖いを意識した呼び方です。

 イエスさまの来臨以前すなわち旧約時代には、人々は、罪に関してモーセの律法に従って年ごとに罪の贖いのために小羊を屠りました。そこで流された血潮によって、罪は赦され贖いがなされたのです。しかし、動物の血は、人を完全に救うことができません、きよめることもできません。それ故、神は、時を定めて御子イエスさまを世に送ってくださったのです。イエスさまが受肉されこの世に来られたのは、ただ一度、永遠に私たちを贖うために十字架でご自分を罪のためのいけにえとしてささげ、死なれるためであったのです。そして罪の贖いを果たされると、イエスさまは3日目に死者の中からよみがえり、救いは完成しました。そのこと故に黙示録ではイエスさまのことを屠られた小羊、神の小羊、と呼ぶのです。

 十字架でイエスさまが流された血潮には、強力な力があります。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(ヨハネの手紙第一17節)と書かれているようにイエスの血潮には罪の赦しがあります。また、復活の力の先取りとして、主の血潮を通して私たちに病のいやしや悪霊からの解放がもたらされます。誰であれ、悔い改めて神に立ち返る者は例外なく永遠のいのちを受け、救われます。神さまはありのままの私たちを愛し、罪過の中で死んでいる私たちを憐れまれたのです。ここに私たちへの神の愛が現されました。

 今や神さまは私たちをイエスさまの十字架を通して見てくださっています。すなわち、あたかも罪を一つも犯したことのない者同様に私たちを見てくださり、一つも罪を犯していない者が受ける祝福を私たちに注いでくださっています。

 神は愛でありまた義なるお方です。神は私たちを愛してくださっています。しかし、神は聖なる方で、罪や世のものをはじいてしまうというという属性があります。神の義は罪と相容れることはできないのです。そこでイエス・キリストは、愛と義、この2つのものをご自身によって1つとなし、それは十字架の救いという形で結実しました。イエス・キリストを信じましょう。神は、私たちがご自身のもとに帰ることができるように、イエスの血潮を代価として私たちを買い戻してくださいました。こういう訳で私たちもまた、救いの達成につとめましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年8月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年8月4日水曜日

妬み

 罪にはいろいろありますが、その中で今回は特に「妬み」を取り上げてみたいと思います。

 正直なところ私は、自分がほしいと思っても与えられていないものを他の人が持っていると、心中穏やかではいられなくなります。劣等感が生じ、うらましいという思いも高じてくるとそれは時に憎しみに変わります。人は願っても手に入れられないと、持っている人を妬むのです。

 聖書で最初に「妬み」や「憎しみ」が取り上げられているのは、創世記4章のカインとアベル兄弟によります。兄のカインは土を耕す者であり、弟アベルは羊を飼う者でした。それぞれ神にささげものをする時になると、カインは地の作物からなにがしかのものを持ってきました。アベルは羊の初子の中から最上のものをそれも自分自身で持ってきました。主はアベルとその捧げものに目を留められました。けれどもカインとそのささげ物には目すら留められませんでした。それでカインはひどく怒り、顔を伏せました。神は罪を治めなさいとカインに忠告しました。しかし、カインはアベルを野に誘い出し、襲いかかって彼を殺してしまいました。これが妬みの罪が実を結んだ結果です。

 妬みの行き着く先は殺人です。アベルはカインに妬まれ、その妬みはアベルを殺すところまで行きました。妬みが働きそれが募ると、妬む相手が生きていることさえ我慢ならないのです。暗黙の裡にサタンが働いていることを心に留めてください。

 イエス・キリストを殺したのも、妬みでした。祭司長、律法学者たちは、民衆が自分たちから離れて、イエスキリストの方に行くのを見て、イエスさまの人気を妬んだのです。総督ピラトはそれを見抜き、イエスには罪を認めないとして釈放しようと務めました。でも、民の指導者たちは民衆を扇動して、イエスを十字架にかけるようピラトに求め、遂にその声が勝ちました。サタンはイエスさまを殺すことに成功し有頂天になっていたでしょう。

 ところが、神のはかりごとはそれより大きかったのです。なぜならイエスさまは確かに十字架で死なれましたが3日目に神の力によって復活を遂げられたからです。かりそめの世の命こそ死んで失いましたが、しかし、神はイエスの復活によってそれよりさらに優れた永遠のいのちをイエスにはたらかせ、またイエスを通してそれを私たち人類に与えてくださいました。イエスさまはよみがえりの初穂であられ、サタンはここに決定的な敗北を喫しました。

 神は愛です。またコリント人への手紙第一13章では愛は寛容であり、親切で、人を妬みません(以下略)と書かれています。この神の愛を知ることが真に人を妬みから解放させます。自分が愛されていることを知るなら、もはや妬む必要はありません。イエスさまはあなたの代わりに十字架で死んでくださったほどあなたを愛しておられます。「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ人への手紙1215節)という聖書の勧めも、イエスさまにあってそれができるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年8月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/