2016年3月28日月曜日

エステル
 ペルシャの王アハシュエロス王が大きな宴会を催した時、王は王妃の美しさを見せようとワシュティを召しました。しかし、彼女が拒んだので、王は怒り、彼女を王妃の位から退けました。
 王はワシュティに代わる王妃を国中に求め、ユダヤ人モルデカイの養女エステルも召し入れられました。王はエステルを愛し、ついにワシュティに代わる王妃としました。
 王にはハマンという寵臣がいました。ハマンはモルデカイを憎み、ユダヤ人を根絶しようとたくらんで、王の許可を得ました。絶体絶命の危機に陥り、モルデカイはエステルに王へのとりなしを求めます。
 状況を聞いたエステルは「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル記4章16節)と言いました。
 法令にそむいても、というのは、誰でも王に召されないで内庭に入り、王のところに行くものは死刑に処せられるという法令があったのです。
 断食の後エステルは王妃の衣装を着て内庭に立ちました。王はエステルを受け入れてくれました。エステルは、自分の出自を明らかにし、民族が滅びることのないよう嘆願しました。王はこれを聞き入れ、ハマンが設けたユダヤ人をかすめ奪う日は、一転し、ユダヤ人がその敵に復讐する日となりました。これを、プリムの日と呼びます。
 美しさもさることながら、「私は死ななければならないのでしたら、死にます」と、語った婦人、これがエステルです。彼女の信仰には「覚悟」がありました。命をも主に委ねて従った時、主もまた彼女に応えてくださいました。私たちもまたエステルの信仰にならいましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月27日号(第877号)より転載—

2016年3月21日月曜日

ペテロ
 ペテロは、キリストの12弟子の筆頭です。イエスさまが祭司長、律法学者に引き渡されることを語った時に、「あなたのためには命も捨てます」と語った人物です。しかし、現実は厳しく、彼は命を捨てるどころか三度イエスを知らないと否んでしまいます。彼は号泣しました。
 しかし、イエスさまはペテロを見捨てず立ち直らせます。そして、イエスはペテロに言いました。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」(ヨハネの福音書2118節)
 聖書はこれを「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった」(19節)と書いています。
 伝承によると、ぺテロは周りの人々の強い要請を受け、迫害を避け、ローマから離れました。そして、道中アッピア街道でイエスさまと出会うのです。
 主よ、どこに行かれるのですかとひれ伏してペテロが問うたところ、イエスさまは、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」と語られたのです。ペテロは直ちに元来た道を引き返し、ローマで捕らえられ逆さ十字架で殉教しました。
 若いうちはやりたい放題に生きていけます。しかし、主に出会い献身する中で、やがては負うべき自分の十字架があると知るようになります。この十字架を担う者は多くの実を結びます。かりそめのこの世の命ではなく、永遠のいのちこそ目を向けるべきものではないでしょうか。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月20日号(第876号)より転載—

2016年3月9日水曜日

悔い改め
 神さまが何となく遠くなったと感じる時、有効な解決方法があります。それは「悔い改める」ことです。私たちはイエスさまの救いを受けた時に、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう一切の罪を赦していただきました。神さまは私たちを罪のない者として見てくださり、子として愛を注いでくださっています。
 しかし、神さまは愛なる方ですが、同時に義なるお方です。罪があると神さまとの関係は断絶してしまいます。それで日々の悔い改めの祈りは重要なのです。
 以前所属していた教会で、ある青年が興味深いことを語りました。確かに自分は祈っているが、いまひとつ力に欠ける。そこである日、朝から腰を据えて、自分の罪を一つずつ告白した。長くても1時間くらいで終わると思っていたが、次々と悔い改めのことばが紡がれて、あっという間に正午を越えた。祈りを終えると神さまとの距離が取り除かれ恵まれたというのです。
 悔い改めるなら赦される、これは神さまの約束であると同時に原則です。どんな罪であっても、主の前に告白して立ち返るなら全て赦されます。
 韓国の祈祷院にチョー・ヨンギ牧師専用の祈りの穴があったそうです。壁には落書きがありますが、その中で、韓国語で、悔い改め、悔い改めと、ひとしお大きく書かれた文字があるそうです。悔い改めがいかに大きな力であるかチョー牧師は知っておられるのです。
 私もまた、これを聞いて日を定め、腰を据えて悔い改めの祈りをしました。声に出してはっきりした言葉で告白しました。すると次々と悔い改めの言葉が出てくるのです。全てを告白し終わったら喜びでいっぱいになりました。皆さんもぜひ、この悔い改めの祝福をお受けください。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月13日号(第875号)より転載—

2016年3月8日火曜日

 
 先日、白馬スネルゴイキャンプに参加しました。
 開会聖会の賛美が始まると、いきなり特別なご臨在が下りました。賛美は一つの声になりました。賛美のうちに、私たちも引き上げられ、人手によらない聖霊のご臨在に打たれました。会衆の声というよりむしろ御使いたちの天の賛美がそこに現されたかのような賛美で、思わず熱いものがこみ上げてきました。
 このところ、私たちの賛美はいやしの働きをなす、ということが医学的にも認められてきています。確かに賛美にはその力があります。その秘訣は何でしょう。
 詩篇22篇3節にはこのように書かれています。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」あなたとは主です。賛美の中には、主がいてくださるのです。私たちは賛美を通して神さまと交わることができるのです。
 長崎の二十六聖人が処刑される時、少年アントニオが賛美を始めるとその場の空気が一変したと言われています。賛美によって天の臨在が下ってきて、刑場を満たしました。残酷な処刑にもかかわらず、多くのクリスチャンが私も十字架に付けてくださいと願い出ました。賛美は、私たちのたましいに、霊に触れるのです。
 ヘブル人の手紙12章には、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」(22節)と書かれています。私たちの賛美は発展し、やがては天の軍勢とともに神さまを賛美するようになります。賛美を通して、その前味を神さまは見せてくださいました。賛美をささげ、主を礼拝いたしましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年3月6日号(第874号)より転載—