2016年7月27日水曜日

マルタな私
 聖書を読んでいると、自分と似たようなキャラクターがいるものです。私にとってその一人は、マリヤの姉のマルタです。イエスさまが来られた時、妹のマリヤはイエスさまの語ることばに耳を傾けじっとしていました。マルタは、といえばおもてなしのためあれこれ忙しく立ち働いていました。二人は好対照です。
 ところが、忙しさのためにマルタはついに切れてしまい、イエスさまに妹が自分を手伝うよう言ってください、と願い出ました。イエスさまは「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカの福音書104142節)とおっしゃったのです。イエスさまが望まれたのは、主のことばを聞くことでした。
 マルタは、イエスさまに、自分の持っている全てを注いでこうしてあげたい、ああしてあげたい、その一心で動き、これがマルタの愛の表現でした。イエスさまは、マルタにどうしても必要なことは一つだと教える必要がありました。
 その一つとは、神のことばを聞くということです。サムエル記第一1522節に次のように書かれています。「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」
 求められていることは、神の御声を聞き、そして従うことです。私たちは今、自分を中心として歩む人生から、神に聞き従う人生へと向きを変えましょう。それは、二つと無い祝福の道です。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月24日号(第894号)より転載—

2016年7月19日火曜日

父の愛
 ルカの福音書15章に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる箇所があります。
 放蕩息子は、父が存命中にもかかわらず、身代を分けるよう求め、それらをまとめて、遠い国に旅立って行きます。そこで放蕩の限りを尽くし、ついには食うにも困るようになり、父の所へ向かいました。雇い人の1人にしてもらおうと思ったのです。しかし、父は立ち上がって駆け寄り、彼に愛を示し、再び子として彼を受け取りました。
 神さまというお方は、人が罪を犯しても、悔い改め、立ち直ろうとするなら、喜んで赦し、父の愛
祝福をもって迎えてくださるお方なのです。
 ところで、先ほどの放蕩息子には兄がいました。兄は出来が良く、忠実に父に仕えていました。しかし、父が放蕩の限りを尽くした弟のために祝宴を設けたと知って彼は「自分には友人と楽しめと子ヤギ1匹下さったこともない」と憤りをあらわにします。
 父は「私のものは全部おまえのものだ」と言ってくださいました。兄は子ヤギだろうが、何だろうが、自分の物だからほしいままにできたのです。
 なぜ兄はそのことに気付かなかったのでしょうか。それは、父(ここででは神さまのたとえ)の愛やあわれみをよく知らなかったからです。従順な者には従順な者としての報いが備えられているのです。
 この聖書の箇所は、罪人にあわれみ深い神さまと、従順な者に恵み深い神さまの両面が描かれています。そして、どちらも神が愛のお方であることを表しています。
 罪を犯さない人など1人もいません。罪を犯したなら悔い改めれば赦してくださいます。どの道にいようが私たちは神さまの愛に取り囲まれているのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月17日号(第893号)より転載—

2016年7月12日火曜日

主の守り
 先日、とても恐ろしい思いをしました。揚げ物をするため、鍋に油を注いで火にかけ温度が上がるのを待っていたところ、古新聞の記事が面白くて、すっかりそんなことを忘れてしまいました。
 何をしている、という夫の声にわれに返ったところ、油が何とぼこぼこと沸騰しています。白い煙を出し、しかも部屋中にそれが充満しています。
 すぐさま夫はふたを取り、てんぷら鍋を押さえて発火するのを防ぎました。火災報知器が作動し、火事です、というアナウンスが繰り返されました。あと1分遅かったら、引火して大事故に遭うところだったと、夫は言いました。それを聞いて私は青ざめました。あわや、というところで神さまが災害から守ってくださったのです。私は危機から救われました。
 詩篇127篇にはこんなことばがあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」(1節)これは、結局は神さまの恵みが事を成すのであって、われわれの力などではない、ということを言っていると私は読んでいます。
 全ての事柄の下には神の手があります。神の手が事を成すのです。人の頑張りではなく、全能者のみこころが、事を成し遂げるのです。全能者は私たちを愛し最善をなされます。
 人は努力しますが、それでもなお足りないということは、まま直面する人生の問題です。人間のできることには限界があります。しかし、神にあっては不可能なことは一つもないのです。神さまは配慮に富んだお方です。どうかこの神をあなたの救い主として心にお迎えください。主はあなたに関わる全てのことを益としてくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年7月10日号(第892号)より転載—

2016年7月4日月曜日

帰って行った取り立て屋
 かれこれ20年になります。牧師である夫がある方に招かれ、お宅に伺いました。その方は事業に失敗し、自己破産されました。法の定める手続きに沿って行われたものであって、返済の義務はもうありません。しかし、それでも諦めないでやって来る取り立て屋がいました。
 やっと与えられた再就職先をかぎつけて、取り立て屋は、会社に借金をばらして解雇させてやると脅しをかけてきました。弁護士さんからは、決してお金を支払ってはなりません、と強く言い渡されていました。
 そして、その日取り立て屋が来るというので牧師を呼んだのです。しかし、何ができるわけではありません。ただ、私たちがしたことは感謝です。テサロニケ人への手紙第二5章18節に、「すべての事について、感謝しなさい」と書かれています。それに従って賛美し、一つ一つ感謝して主に委ね、帰路に就きました。
 夫が帰宅するより早く、私は一本の電話を受けました。その方からでした。牧師が帰った後、すぐに取り立て屋が来たそうです。そして不思議なことを言うのです。「もう諦めた。もう2度とここには来ない」。そう言って取り立て屋は帰って行きました。八方ふさがりで解決がないと思われたにもかかわらず奇跡が起こりました。私たちは大喜びで神をたたえました。
 神さまはよく、「この戦いは神の戦いだ」と語られます。それが神の戦いであるなら私たちは決して負けることがありません。恐れるお方はただ一人、父なる神さまです。このことを知っているならあなたは人生の成功者です。神さまの御手は動きます。感謝を堅くし、神の栄光の現れを求めてまいりましょう。主はいつも、弱い人、貧しい人の味方です。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月3日号(第891号)より転載—