2018年11月28日水曜日

 

信仰が何であるかを頭で理解しようとすると、何が何だか分からなくなります。恐らく、これは実践の中で学んでいくものなのでしょう。
 マタイの福音書14章は、ペテロが水の上を歩いたという箇所として有名です。真夜中、イエスさまが湖の上を歩いて弟子たちのいる舟に行かれると、弟子たちは、あれは幽霊だ、と恐ろしさのあまり叫び声を上げました。
 その時、ペテロは信仰を持ち出してこう言いました。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」(28節)。イエスさまは「来なさい」と言ってくださいました。ペテロは水の上を歩いてイエスさまの方に進みました。
 ところが、ペテロは風を見て、怖くなり、沈みかけました。イエスさまはすぐに手を伸ばしてペテロをつかみ、言いました。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」(31節)
 せっかく信仰を用い、実を結んで、奇跡が起こっていたのにもかかわらず、現状に目を留めたため、不信仰が信仰に水を差し、わざはそこで止まってしまいました。
 信仰とは何でしょう。ヘブル人への手紙11章1節にはこう書かれています。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(口語訳)。さらに6節ではこう語られています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」
 神のことばに目を留め続け、必ず神のことば通りになる、と信じ切ること、これが信仰です。神にはどんな事もおできになると信じ切ったたましいは、奇跡を見ていきます。私たちもまた、信仰を働かせて神のわざを見ていきましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月2日号(第1018号)より転載—

2018年11月21日水曜日

種蒔きのたとえ

 マタイの福音書13章に「種蒔きのたとえ」として有名なイエスさまの説教があります。
 種を蒔(ま)く人が種蒔きに出かけました。蒔いた種はそれぞれ、「道ばたに落ちた」もの、「土の薄い岩地に落ちた」もの、「いばらの真ん中に落ちた」もの、「良い地に落ちた」もの、の4通りに分けて語られます。そして、種というのは神のことばです。地は、人の心の状態です。
 「道ばたに落ちた種」は、鳥が来て食べてしまいました。聖書の解釈では「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです」(19節)と書かれています。悪い者とはサタンであり、サタンは神のことばを奪います。
 次に、「土の薄い岩地に蒔かれる」とは、「みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる」のですが「自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしま」う人のこと(21節)です。また、「いばらの中に蒔かれる」とは、「みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のこと」(22節)です。
 最後は、「良い地に蒔かれる」種ですが、これは「みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます」(23節)と書かれています。
 みことばを聞いたならば、悟ることが必要です。必ず神のことば通りになる、と信じ、最後まで従うことです。そのことによって、私たちの心に蒔かれた神のことば・種は、深く根を下ろし、幾倍もの実を結ばせます。
 わが心を良い地としてささげ、御国の建設のために用いていただきましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2018年11月25日号(第1017号)より転載—

2018年11月14日水曜日

ちりあくたです

 神さまは、ご自身の働きをなす器として、無学な荒くれの漁師からセレブに至るまで、幅広くお召しになりました。そして皆、神に出会うと変えられました。劇的に変えられた2人のセレブを紹介しましょう。
 それは、モーセとパウロです。2人は人がうらやむもの全てを持っていました。モーセは、へブル人でしたが、王の娘の息子となり、エジプトの帝王学を修めました。パウロは、出自に恵まれ、生まれながらのローマ市民でした。最高学府であるガマリエル門下で研さんを積み、律法による義についてなら非難されるところのないパリサイ人でした。
 ところがパウロは、ピリピ人への手紙3章で驚くようなことを語ります。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました」(7節)「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくただと思っています」(8節)というのです。
 モーセにおいても同様です。ヘブル人への手紙11章には次のように書かれています。「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(2425節)「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(26節)
 パウロもモーセも、世にあっては最高のものを得ていました。しかし、それをちりあくただと言い切ったのです。彼らは、この世が決して与えることできない、イエス・キリストの内にある、天の報いとその素晴らしさを見ていました。これこそ、神さまが私たちに与えてくださるものです。(イスラエル北野)

み声新聞2018年11月18日号(第1016号)より転載—

2018年11月7日水曜日

親と子

 私の娘は、私という人間を実によく知っています。私は、ひとたび食卓を整え席に着いたら、あとはもう食べ終わるまで立ち上がりたくないという人間です。ところが急に娘がある一品を作ってほしいと私にリクエストするのです。面倒だな、諦めてくれないかなと思いました。でも、そこからは娘が得意とする分野で、あの手この手で甘くねだる娘の声にほだされ、ついに立ち上がりました。
 私は、めったなことではしようとしていることを曲げない性格です。しかし、こと娘のお願いとなると、拒まないで何とかしてあげようとしている自分がいて、自分でも不思議です。
 ルカの福音書18章には、私と娘との関係に似た、粘るやもめと根負けした裁判官の例話が記されています。
 ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいました。その町にはひとりのやもめがいて熱心に自分のために裁判してくれと頼みます。その裁判官は、しばらくは取り合わないでいたのですが、後には心ひそかに「私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない」と言いました(18節参照)。
 押しの一手、というのでしょうか、娘が「お願い」と頼んでくる時、彼女はきっとお母さんは聞いてくれると信じ切っています。これには負けます。やはり、娘はかわいいのです。
 主イエスにあって、神さまと私たちの関係は親子です。娘が私にしたように、皆さんも神さまに甘えてみませんか。あなたもまた、神の愛する子です。そのみこころにかなうなら、神さまはその願いを聞き届けてくださいます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年11月11日号(第1015号)より転載—