2020年11月21日土曜日


堅く信仰に立って立ち向かいなさい

 最近、私の周りにいるクリスチャンの多くが、それぞれ信仰の試しが許されているようです。皆、口をそろえて、厳しい厳しい、と言っています。一体いつまで待たされるのか、忍耐ももう限界、という言葉も聞こえてきます。与えられた約束は、実現のその時まで試されるものです。いったいどこまで忍耐して待たなければならないのか、神さまに問うてみたいです。しかしヨブがそうであったように、多くの場合、神はなお沈黙を守っておられます。

 祈りが答えられることは、心が生き返るかのようです。力が与えられ、問題に勝利し、試練に打ち勝ちます。でも、神さまから何の返答もなく祈りが届かないと、心は干からびた草木のようにうちしおれてしまいます。

 なぜ私の祈りは答えられないの、と悩む人は多いです。これには2つのことが理由として挙げられます。1つは、すべての事においては、神のみこころと時があるということです。聞かれている祈りであっても、実現の時までは、あたかも、祈りが聞かれていないかのような、忍耐の時が許されるのです。この場合、聖書は「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(へブル人への手紙1036節)と語っています。またもう1つの場合は、サタンが神からの祈りの答えを私たちにとどめている場合です。神がみこころとされていても、サタンは、神の許しのうちにではありますが、それがならないよう妨げるのです。

 これに関して、聖書は次のように記しています。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい」(第一ペテロ5章8,9節)。

 ここでは悪魔と記載されているサタンに対して、聖書は立ち向かうように語っています。具体的には、身を慎むこと、目を覚ましていること、堅く信仰に立っていること、そして立ち向かうことです。

 悪魔に対しては、決して背を見せてはならないことを覚えてください。背を見せるのは敗北のしるしであり、悪魔に好き放題をさせることになります。悪魔は、ほえたけるししで狂暴です。まともな対応など望むべくもない敵であり、私たちの隙を伺っています。しかし、神に従い、悪魔に立ち向かうなら悪魔は私たちから逃げ去ると聖書は言及しています。

 イエスさまが十字架で贖いを成し遂げてくださったので、今や私たちは圧倒的な勝利者です。堅く信仰に立って悪魔に立ち向かいましょう。悪魔は、必ずあなたの前から逃げ去り、あなたは神の勝利を見るでしょう。

 MIKOE NEWSから転載」 2020年11月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年11月10日火曜日

心の貧しい者

 先日、友人から「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイの福音書53節)というのは、どういう意味なの?というメールが来ました。

 実は私も、この「心の貧しい者」ということばの意味が何であるのか、よく分かりませんでした。この箇所の聖書解釈は、昔から諸説紛々あるところで、最初私は、心の貧しい者とは道徳的に問題がある人のことだと考えていました。でも天の御国はその人のものだというのだから、これでは意味が通りません。そこで、牧師に聞いたところ、これは反語であって、心の貧しい人とは、「心の豊かさに飢え渇いている者」と読み解くといいと教えてくれました。それ故「心の貧しい」ということばは、「心の豊かさに飢え渇いている」と読まれるのが妥当だと思います。

 また、ここで言う「心の豊かな人」というのは、世の楽しみやさまざまなことで既に心がいっぱいで、これ以上何かが入る余地がない心の状態の人を言います。神抜きで既に心が満ち足りているならば、そこにキリストの祝福やことばがあっても、それが心に入っていく余地はほとんどありません。

 それに引き換え、「心の貧しい者」とは、ありのままの私たちの姿です。心の豊かさに飢え渇き、痛みを覚え悩みを抱え、心には隙間風が吹いています。満ち足りるなんてとんでもない。自分には何かが足りないのだと思っており、その思いがキリスト・イエスに向かわせるきっかけになっています。心の貧しさの故に多くを神に求めざるを得ませんが、神は恵みをもって働き、キリストの愛や慰めは、私たちのひび割れた心に深く浸透しています。

 こういう訳で、心の貧しい者は幸いです。天の御国は、豊かさに飢え渇く方々を知っており、彼らを受けてくださる居場所です。

 それ故、どうか御国にあずかる者として、あなたもまたイエス・キリストを信じてください。イエス・キリストは、私たちの罪を贖うために、約2000年前に世に来られ、十字架で私たちの罪を担って死なれ、また3日目によみがえり、私たち人間を贖ってくださいました。キリストを信じる者は、無条件で罪の赦しと永遠のいのちが与えられています。キリストにあって、今や私たちは神の子です。

 神は、あなたを愛しておられます。また私たちの弱さも知っておられます。神は、私たちの避け所です。また力です。この方の元に帰りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2020年11月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2020年11月4日水曜日

約束

 子どもの頃、よく友だちと指切りをしました。「指切りげんまん。うそついたら針千本飲ます。指切った」と歌い、互いの小指を絡めてそれを切り、堅い約束を交わしました。興味深いことは、指切りは必ず11間の約束であったことです。指切りの対応は、複数の者と同時に指を切ることはできません。どうやら約束というのは、神や人に対して、11の間で結ばれるもののようです。

 私もまた、イエスさまを信じ、救いを頂いた中で、多くの約束を受けました。罪の赦しをはじめ、いやしや、折にかなった助け、脱出の道を頂くなどで、受けた約束のことばは多岐にわたります。

 頂いた約束のあるものは既に成就しました。しかし、長年にわたって忍耐し、辛抱強く待ち続けることによって成就したものが多くあり、また、まだ成就していない約束も数多くあります。信仰の約束と忍耐は表裏一体で、約束を受けたその時から、忍耐もまたスタートします。

 教会においてもまた、成就を待ち望んでいる約束のことばがあります。その一つはハバクク書の預言のことばで、「もし、遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(23節)というものです。直接的には、私たちはこれを後の雨、すなわち世の終わりに起こる大リバイバルの約束のことばであると信じています。結婚や就職のみことばとして受け取った人もいますが、つまりは「待たされますが大丈夫ですよ、遅れることはありません」という意味で、三十数年来の約束のことばとして、私たちはこれを信じ、希望を抱き、熱心に待っています。

 約束は必ず試されます。実現するその時まで待たされ探られ試されます。そして、試しと忍耐を経た後に、約束のことばは成就します。

 へブル人への手紙10章には、このように書かれています。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(3536節)

 まさに求められるのは忍耐です。ヨブを思い起こし、またヨセフを思い出してください。彼らの上に置かれた忍耐の年月を思い出していただきたいのです。神の約束とは真逆の方向に現実は向かいました。絶望することもできたでしょう。いっそその方が楽だったかもしれません。しかし彼らへの神の約束は変わらず、忍耐の末に彼らはその約束の実を得ることができたのです。

 私たちもまた、忍耐を働かせ時を待ち望みましょう。もし遅くなっても、それを待ちましょう。約束は必ず成就し実現します。

MIKOE NEWSから転載」 2020年11月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/