2014年6月24日火曜日

聖書の読み方
ある宣教師が語られました。ある日、礼拝奉仕に立たれましたが、思うようなご
奉仕ができなかったそうです。失望して家に帰り、主に祈ったところ、 神さま
はこう語られました。
 「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったか
ら、私はあなたにたくさんの物を任せよう」(マタイの福音書2521 節)
 驚いた、そうです。そして涙が止まらなかったそうです。まったく駄目だと
思っていたのに主はよくやったと褒めてくださったのです。忠実だ、とさ え
言ってくださいました。
 私もまた同じみことばで励まされました。これは、タラントを用いるという聖
書の箇所ですが、タラントを地に隠してしまった悪い怠け者のしもべは 自分の
ことではないかと、否定的に読んでしまいます。しかし、その日は違いました。
「よくやった。良い忠実なしもべだ」という文字が浮き上がって 見え、内側か
ら喜びがあふれました。
 神さまだけではなく、サタンも聖書の言葉を巧みに用います。私は、否定的な
思いの背後にサタンが介在していたことに気付きました。私たちは神の 声と、
そうでない声と聞き分けねばなりません。そして、このことに関して聖書は「聖
書は(中略)教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益で す」(第二テモテ
の手紙3章16節)と聖書を読むことを語っているのです。
 信仰の赤ちゃん時代は、聖書をつまみ食いしても恵みによって語られることも
あります。しかし、神の声を聞く耳の成長のためには、聖書通読の土台 を持つ
ことは大切です。分かっても分からなくても、しっかりと聖書を読みましょう。
そうすることによって神の声を聞く耳が出来上がってきます。
(イスラエル北野)

み声新聞2014年6月29日号(第786号)より転載—

2014年6月21日土曜日

奇跡の現れ
神さまの助けは、遅れ気味にやって来るようです。ダニエル書に、シャデラク、
メシャク、アベデ・ネゴというイスラエルから捕囚されて来た、3人の 者のこ
とが書かれています。彼らはネブカデネザル王が作った金の像を拝むことをしな
かったので、燃える炉の中に投げこまれることになりました。
 しかし、彼らはこう言いました。「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、
火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。(中略)しかし、 もしそ
うでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなた
が立てた金の像を拝むこともしません」
 これを聞いて王は怒りに満ち、7倍も熱くした炉に、彼らを縛ったまま投げ込
みました。ところが、王はとんでもないものを見たのです。「私にはな わを解
かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四
の者の姿は神の子のようだ」
 第四の者とは受肉前のイエスさまだと言われています。彼らの信仰どおり神さ
まは救ってくださいました。しかし、少し遅いのではないでしょうか。 炉に入
れられる前なら期待できます。ところが、彼らは、炉に入れられ、いわば死を味
わったのです。そしてそこから奇跡が、神の栄光が現されまし た。
 モーセもまた同様でした。神さまに従って出エジプトしたのにも関わらず、追
い詰められたところは紅海でした。この絶体絶命の時に奇跡の手が動き まし
た。紅海は左右に分かれ、民は海の底の道を通って無事脱出しました。
 私たちが待たされるのは、神さまの側でよりすぐれた別の計画があるからで
す。神は奇跡を起こされます。神に信頼することを学びましょう。
 (イスラエル北野)

み声新聞2014年6月22日号(第785号)より転載—

2014年6月13日金曜日

主の手のある所
 もし、あなたが人生に成功したいと願うなら、その秘訣をお分かちしましょ
う。それは、神のみ手のあるところに居るということです。成功は神さま が下
さるものです。ですから、神さまの計画に乗れば必ず成功します。すべてにおい
て、神の手があるかどうかは人生の明暗を分けます。
 神の手のある所にいれば、いるだけで大きな神のみ業が現されます。例えば私
たちの教会にはGifts(ギフツ)というゴスペルグループがありま す。全くの素
人の集まりでしたが時を追うごとにうまくなり、今では国内外で豊かに用いられ
ています。神の計画をわが計画とし、従ったことに彼らの 成功の秘訣があると
私は思っています。
 人は皆、得意分野と不得意分野があります。多くの人は、得意分野で勝負しよ
うと研さんを積みますが、必ずしもそれが成功するとは限りません。か えって
不得意な分野で成功することも人生には起こるのです。神はその大能の力をもっ
て私たちの前を進み、勝利と成功を与えてくださいます。
 ゼカリヤ書に次のようなことばがあります。「権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって」というものです。これはゼルバベルに語られたこ とばで
すが、私たちにも語られています。神さまが人をお用いになる時、主は能力のあ
るもの、権力のあるものを選ばれるのではなく、神を恐れ神に聞 き従う者を選
ばれるのです。
 能力や権力の追求は、終わりのない戦いです。そこで私は、主の恵みにより頼
む人生をお勧めしたいと思います。主の手が置かれている所には繁栄と 成功が
追いかけてやってきます。あなたもまた神さまを信じ、神さまとともにある人生
へと進みましょう。
         (イスラエル北野)

み声新聞2014年6月15日号(第784号)より転載—

2014年6月8日日曜日

罪を赦す権威
 マルコの福音書2章の出来事です。中風を病んだ人が、友人によってイエスさ
まの所に連れて来られました。家は人でいっぱいなので、彼らは屋根を はがし
てイエスさまの前に床のまま彼をつり下ろしました。彼らの信仰を見たイエスさ
まは、「子よ。あなたの罪は赦されました」と語られました。
 ところが、そこには律法学者たちが居て「なぜ、あんなことを言うのか。(中
略)神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」と心の中で理 屈を言
いました。イエスさまはそれを見抜いてこう語られました。
 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるた
めに」「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさ い」
 たちどころに病人はいやされ、神の栄光が現されました。人には、罪を赦すこ
となどできません。しかし、イエスさまは神の御子です。イエスさまに は罪を
赦す権威があるのです。
 私自身、生きてきた人生の中で赦しを乞いたい罪は、1つや2つではありませ
ん。また逆に私に傷を与えた赦し得ない人も、1人や2人ではないので す。人
は必ず、何らかの縛りの中に生きているようです。このような縛りから解放され
るためにはどうしたらよいでしょうか。
 イエスさまの十字架の贖いを信じましょう。十字架によって私たちはどのよう
な罪でも赦されます。それゆえ私たちもまた、私たちに負いめのある者 をまず
赦しましょう。主の祈りにも「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに
負いめのある者をみな赦します」と書かれています。
 赦すなら赦される、この原則によって、私たちは、あらゆる人生の縛りから解
放されるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2014年6月8日号(第783号)より転載—