2021年6月28日月曜日

脱出の道

 キリスト教徒への迫害は、時の権力者によって実に残酷な方法で行われ、政治利用されました。その良い例は、ローマ皇帝ネロによる大迫害です。ネロは詩や歌を好んでいました。そして詩歌のインスピレーションを得るためローマに大火を放ったといわれています。そしてそれをキリスト教徒の仕業だとし、良い口実としてこれを利用しました。こうして、迫害が始まっていきました。ローマでは、コロッセオにクリスチャンを集め、お腹のすいたライオンを解き放って食べさせるという残虐な処刑方法で多くの殉教者を出しました。

 日本のキリシタンの迫害も、政治利用のなれの果てです。信長、秀吉、家康と最初は良かったですが、日本が植民地化されるのではという政治的な意図を読み取ると、一転して迫害に転じました。あまり知られていませんが、日本も二十六聖人を初めとして数多くの殉教者を出しています。そしてその処刑は、生かさず殺さずを旨とし、責め苦を与え、およそ人が考えつかないような残虐な方法が取られています。

 「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録210節)とは聖書のことばで本当にその通りです。クリスチャンはイエスキリストを信じた時に、世に対して死んでおり、永遠のいのちが与えられています。真の命を頂いているので、喜んでこの世のかりそめの命を差し出すことができたのです。とはいえ、肉体は弱いのです。

 先日、遠藤周作氏の『沈黙』が映画化され、多くの議論を巻き起こしました。迫害の様子があまりにもむごたらしいので、具合を悪くした人も多く、信仰を持つことがこんなに大変ならとても自分にはできないと思った人も多かったようです。

 それが正直なところでしょう。「ころぶ」とは、棄教するという意味です。迫害に耐え抜くのはなまやさしいものではありません。「心は燃えていても、肉体は弱いのです」(マルコの福音書1438節)とイエスさまはおっしゃいました。肉体はしばしば心を裏切ります。生身の責め苦に耐え切れず信仰を捨て、ころぶことも多いのです。またころばせようとありとあらゆる手が尽くされます。

 迫害下、信仰を守り通した者は、そこに神さまの助けが恵みやあったことを証ししています。そして、コリント人への手紙第一1013節にはこのように書かれています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」

 脱出の道、これは神の恵みであり愛であり約束です。どのような状況下にあってもこのことばは私たちの希望です。期待していきましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年6月20日日曜日

 生ける神の現実

 クリスチャンになる以前、私は宗教に関して多くの日本人がそうであるように、お正月には神社に行き、お葬式は仏教で、結婚はキリスト教式と、それぞれ宗教というよりは文化として関わっていました。

 ところが、18歳の時にイエス・キリストを信じ救われ、クリスチャンになりました。そこから祈りを学び、生活の一部としていつも祈るようになりました。そして発見しました。祈りが聞かれるのです。祈って終わりではなく、具体的に祈りの応答を見るのです。神が今も生きておられ、助けてくださることを至る所で体験しました。

 一例を挙げると、クリスチャンである私の妹に起きた奇跡があります。妹はМバーガーの店長をしていました。毎月、前年度以上の売り上げ達成を求められます。ところが月末まであと23日という頃になるとこれじゃあノルマは達成できないと読めるらしいのです。そうなると、そこから彼女の奥の手が動き始めます。祈りです。祈ると急にお客さんがたくさん来たり、大口の注文があったり、自然な形で助けられ、月末にはほんの少しだけ前年度の売上げを上回って落ち着くのです。それも1度や2度ではなく何度も起こり、これには本部の方にも不思議がられ、神さまのご栄光の現れとなりました。

 イエス・キリストを信じ、神の子になったその日から、私たちは神との生ける交わりに与るようになります。神さまを肉眼で見ることはできませんが、見えること以上に神の現実を見ることができます。こういった生ける交わり、生ける信仰は、寺社仏閣参拝では見られないものです。

 それでは、信仰とはどういうものでしょうか。信じるとは、どうすることでしょう。へブル人への手紙116節にはこのように書かれています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」

 私たちが信仰に立つことを神さまは喜んでくださいます。そして、何を信じるのかということについては、前述のように神がおられることと、報いてくださることを信じるのです。信じ祈る時、奇跡が起こります。しかし、信じない者はそもそも祈ることさえしないのです。それ故、生きて働く神のみわざをその現実を、見ることもありません。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年6月15日火曜日

お入り用なのです

  「赤鼻のトナカイ」という歌があります。クリスマスによく聞く歌ですが、その歌詞がまた、とても素晴らしいのです。赤鼻のトナカイ君は、いつもみんなの笑い者でした。でも、その年のクリスマスの日に、サンタのおじさんは、トナカイ君に言いました。「暗い夜道はぴかぴかのおまえの鼻が役に立つのだよ」いつも泣いていたトナカイ君は、「今宵こそは」と喜びました、というストーリーです。

 この話から、サンタさんがトナカイ君の心に深く愛を注いでくださったことが分かります。赤鼻のトナカイ君は赤鼻が心の傷となっていたのです。しかし、サンタさんは、その心の傷を良いことに逆転させてくださったのです。お前の赤い鼻は、夜道を行く時にぴかぴか光るので、とても役に立っているのだよ。サンタさんにこう言われると、長年彼にとってマイナスであった赤鼻は、この瞬間いっきにプラスに変わりました。こうしてサンタの言葉によって自分に意義を見出だしたトナカイ君は、すっかり元気になり、張り切ってサンタをお乗せし、その日の夜空を駆け巡ったのです。

 赤鼻のトナカイ君が立ち直ることができたのは、トナカイ君がサンタさんの言葉によって、自分が役に立っている、必要とされている、ということを知ったからです。自分が必要とされるということは、素晴らしいことであり、神さまは、そのように私たちをかけがえのない存在としてご愛を示されています。

 話は変わりますが、福音書によるとイエスさまがエルサレムに入場する際、預言書に従って子ろばが必要でした。その子ろばを調達するに当たってイエスさまは、持ち主に「主がお入り用なのです」と言いなさいと弟子たちに指示を与えています。子ろばはやって来て、イエスさまをお乗せする祝福に与りました。イエスさまはご自身のお望みになる者を入用とされ、呼ばれるのです。

 終わりの時代の大リバイバルが始まっているので、父なる神さまは今、至る所でリクルートをされています。ぜひあなたも、神の子としてこの招きに応じましょう。あなたが神に立ち帰り神に従うなら、神もまたあなたを選び、あなたを尊い働きにつかせて下さいます。主はあなたが「お入り用」なのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年6月8日火曜日

感謝の勧め

 聖書には数多くの勧めがあります。その中でも、テサロニケ人への手紙第一518節の「すべての事について、感謝しなさい」という勧めは、実行すれば人生を一変させるほどの強力な力があります。私たちはそれをマーリン・キャロザース師から学びました。マーリン師は、絶えず神をたたえている器で、プレイザロード!ハレルヤ!サンキュージーザス!などの言葉が口癖のようにあふれ出てきます。このマーリン師の肝入りで私たちは「すべての事を感謝する」ことの学びを始めました。

 マーリン師は特に、感謝することができないような時こそ、感謝するのだと、その奥義を教えてくださいました。良いことで感謝するのは当然でしょう。でも、悪いことを感謝するのはそうそうできるものではありません。しかし、あえてそれを感謝するなら、そこに信仰がはたらき、奇跡の手が動きます。禍さえも益となり、生ける神の現実とその勝利を目にするようになります。

 二十数年前、牧師である夫がある方に呼ばれてお住まいに伺いました。マンションの管理人をしておられるご夫婦です。この方は、事業に失敗して多くの借金を抱え自己破産しておられました。問題は法律上既に解決済みなのですが、諦めずにお金を取ろうと何度もやってくる取り立て屋がいました。弁護士からは絶対にお金を渡してはいけません、と言われており板挟みになって苦しんでおられました。

 そこで、牧師が呼ばれたのです。一通り話を聞いた後、牧師はマーリン師の教えを分かち合いました。そしてともかくこの問題を感謝するよう提案し、皆で賛美をささげ、11つを感謝し、お宅を後にしました。

 奇跡は忽ち起こりました。牧師が帰った後、案の定、例の取り立て屋が来たそうです。しかし様子が違うのです。あなたがたからはお金は取れないな。もう諦めた。二度と来ないよ。そういって何もせず帰って行ったのです。大逆転が起こりました。取り立て屋は二度と来ることがありませんでした。

 私は、この件は感謝をささげたことが逆転の鍵となったと思っています。感謝はまず目を問題から神へと向けさせます。次いで祈りの言葉は信仰に進ませます。感謝が奇跡を起こすのは、感謝によって私たちが信仰の立ちどころに立つからです。感謝するということは、実は信仰を用いるということなのです。奇跡が起きるのもまたそういう理由です。

 ピリピ人への手紙4章に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」という一文があります。神さまは全てをご存知です。ですからどのような状況にあっても感謝をもって祈りまた願い、神の守りの内に憩いましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2021年6月1日火曜日

 救いと悟り

 人の一生は「救い」を探し求めて歩む旅のようなものであり、私たちは皆、「救い」を求める求道者です。「救い」というのは、もっぱらキリスト教において使われる言葉であり、仏教ではそれに近い言葉として「悟り」という言葉があげられます。

 仏教的な言葉を援用すると、キリスト教の「救い」は究極の他力本願です。救われるには、既に完成されているイエス・キリストの救いをただ信じ、受け取るだけでよいのです。それに対して、大方の仏教のいう「悟り」とは努力、修行・苦行など徹底した自力本願による境地です。「救い」が神の一方的な恵みによってなされるものであるのに対し、「悟り」は仏教の境地で、修行に重きが置かれ、自分の力により頼ませます。ここに両者の大きな違いがあります。「悟り」の境地に入るには並々ならぬ自助努力が求められるのです。それゆえに、かえってそれが価値あるものとして見なされ、今に至っています。

 聖書の使徒行伝16章に興味深い話があります。キリスト・イエスの弟子であるパウロとシラスが、福音宣教のかどで牢屋に捕らえられていた時、真夜中に神に祈りつつ賛美していたら突然大地震が起こりました。獄舎の土台が揺れ動き、鎖が解けてしまいました。看守はてっきり囚人たちが逃げてしまったものと思い、自殺しようとしました。しかし、パウロはそれを止めました。

 すると看守は震えながらひれ伏し「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか」と言いました。何を言われても努力するつもりでそう聞きました。けれども、これに対して二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。何かをすることではなく、ただ信じることによって救いにあずかれるのです。看守もそれを理解し、全家族そろって神を信じたことを心から喜びました。

 「救い」は「悟り」とは異なり、ただ信じることによってあずかるものです。そしてこれこそが神の知恵なのです。なぜなら、もし救いが力によるものなら、力のない人は救いにあずかることができません。お金で買うものであるなら、お金のない貧しい人は救われません。それ故神は、私たちが救いにあずかるために必要な唯一の条件として、信じることを選ばれたのです。これなら、誰にでもできます。

 救いは、信じるという、一見愚かに見えるあり方を通して、今やすべての人に等しく開かれています。信じる者は皆救われ、多くの者が神に立ち返っています。こういう訳で、あなたもまたイエス・キリストの福音を信じ、救いを受けましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年6月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/