2012年3月31日土曜日

神の戦い

 サムエル記第一17章にダビデとゴリヤテの戦いの様子が書かれています。紅顔の美少年であるダビデは、百戦錬磨の大男、ペリシテ人戦士ゴリヤテ を恐れずに立ち向かっていきます。ダビデはこう言いました。「この戦いは主の戦いだ」(47節)。そして、その告白通りにダビデはゴリヤテと一対一の戦いをしますが、たった一つの石でダビデはゴリヤテに打ち勝ちました。
 また、預言者エリヤは、バアルの預言者450人に、たった一人で主の預言者として立ち向かいました。2頭の雄牛が用意され、天からの火をもって応える神がまことの神であるとしたところ、主の火が天から降ってきて、エリヤの祭壇の全てをなめ尽くしてしまいました。主こそ神です、と民は口々 に語り、バアルの預言者は殺されました。
 さらに、ギデオンは、ミデヤン人との戦いにおいて、たった300人で13万2000人に立ち向かい、勝利しました。人知を超えています。こんな 事が起こるでしょうか。
 これら戦いに共通することは、圧倒的な人数に(敵に)対して、たった一人で、あるいはまったくの少数で神の陣営に立ち、勝利したということで す。これが神の戦いというものなのです。
 昔、教会学校で、「一人の小さな手、何にもできないけれど…」という歌をよく歌いましたが、神が共におられるなら、1人の小さな手でも、その信 仰によって山をも動かすのです。主が共におられる戦いなら、必ず勝つのです。
 神の戦いは勝利が決まっている戦いです。ダビデや、エリヤ、ギデオンのように、たった一人であっても、主の心をわが心とし主の陣営に堅く立つなら、圧倒的な勝利が現され、私たちは神さまのご栄光を見ることでしょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月8日号(第670号)より転載—




2012年3月25日日曜日

信仰義認

 新約聖書の中の代表的な人物というと、ペテロとパウロが挙げられます。ペテロが無学な漁師であったのに比べて、パウロは、誰もが認めるエリート中のエリートでした。
 彼自身こう言っています。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法について はパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」(ピリピ人への手紙3章5、6節)
 これらは、当時のユダヤの人々から見れば、羨望を覚えるものです。しかし、パウロは、それを捨て、ちりあくた同然のものだと言いました。なぜで しょう?
 先ほど、引用文の中で、「律法による義」という表現がありましたが、ここに鍵があります。パウロは「信仰による義」と出合ったからです。
 律法によって義と認められることはありません。誰も律法を完全に守ることはできないからです。律法は私たちが罪人であることを教え、それ故、イエスさまの十字架を信じる、「信仰による義」へと導くのです。
 イエスさまの十字架は、私たちの罪の身代わりであり、この十字架によって、私たちの罪は完全に贖われたのです。この十字架を信じるなら、神さま は私たちを義としてくださるのです。
 キリストを信じる信仰による義、これこそがパウロが推奨するものです。何かをなしたことなどではなく、ただキリスト・イエスを信じるなら、皆、救われるのです。これを、信仰義認といいます。ですから、どうぞイエス・キリストの福音を信じてください。ただ信じるだけで、私たちは救われ、永遠のいのちが与えられるのです。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年4月1日号(第669号)より転載—



2012年3月18日日曜日

離陸

 初めにあったのは、神のことばでした。
 1984年4月1日に、東京都国分寺市に一つの教会が産声を上げました。終末の大リバイバルと、再臨に至るまでの終わりの時代の主の働きを担うという二つの使命によって立てられました。
 ことばは人を呼び、神の使命に心動かされた人々が、あらゆる所から集まってきました。こうして、私たちはリバイバルを待ち続けて、今月いっぱい で28年になります。
 リバイバルを全世界に流すために、教会は今や9つの部門を持つようになりました。出版社、新聞社、ミュージック会社、祈りのミッション、海外宣教、孤児院、神学校、映画ミッション、IT会社です。これらの働きもまたリバイバルのために用意されたものです。リバイバルに向かっての私たちの 歩みはいよいよ本番を迎えようとしています。
 それはさながら、飛行機の滑走のようです。私たちは皆、神のことばというゲートをくぐり抜けました。そして今はもう飛行機に搭乗しています。飛 行機は、静かに滑走路に向かい、次の指示を待っています。これから私たちは空を飛ぼうとしているのです。いよいよ離陸です。
 V1。私たちは全速力で駆け抜けました。VR。もはや誰もこの前進を止める
ことはできません。そして、ついに、V2。浮力を捉え、私たちは離陸 を果た
したのです。
 私たちの信仰もまた離陸しました。不可能を可能にする神の力に覆われ、リバイバルの約束は、もう始まっています。マルコの福音書でイエスさまは こう語られました。
 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(1章15節)
 イエスさまを信じましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年3月25日号(第668号)より転載—



2012年3月11日日曜日

二 心

 天の父なる神さまは、私たちがどのように信仰を用いて生きているのかを、興味深くご覧になっておられます。
 イエス・キリストを救い主と信じたその時から神さまは私にとって霊の父となり、御子イエスさまの御名によって祈るという特権を下さいました。
 私は新生したばかりの幼い信仰者でしたが、教会に通うための自転車を下さい、と祈ることにしました。事細かく祈り、教会の仲間に祈っていること を告げました。
 しかし、ここからがいけなかったのです。神に祈り求めると言いながらも私は二心で、一方で主に求めながら、他方で友人のうちから自転車を下さる 方を探しました。そして、祈っていたものとは違いますが、「自転車をもらえました」と証しするつもりでいました。
 ところが、その自転車は私の所へ来る前日に、何と盗難に遭いました。右も左も分からない者でしたが、その事を聞いた瞬間、神の手だ!とはっきり と分かりました。即座に二心を悔い改め、主を恐れました。
 すると、そのような事を何も知らない知人と電話で話していたところ、突然「自転車は要らないか」と話が持ち上がりました。主を恐れました。祈った通りの自転車がそこにはありました。
 神への祈りはどんなものであっても必ず届いています。それ故、天のお父さまは、もっと信仰を用いて、もっとご自身により頼みなさい、信じなさ いと私たちに求めておられるのです。
 マルコの福音書に「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(11章24節)と書いてありま す。このことばを信じ、神を信じ、神のご栄光を見ていこうではありませんか。
(イスラエル北野)
み声新聞2012年3月18日号(第667号)より転載—



2012年3月4日日曜日

リバイバル

2月16日から18日まで、主の十字架クリスチャンセンター主催の白馬スネルゴイキャンプに出席しました。会場には300人を超える人たちが集 まり、そこで私たちは、受けたと信じる信仰(マルコの福音書11章24節)によって、リバイバルが起こったことを宣言し、また、それを告白し、感 謝と賛美の声を上げ、主を拝し、踊りながら主をほめたたえました。日本を覆う厚い霊の壁は打ち破られました。
キャンプから帰ってきてもなお、その素晴らしい臨在と喜びは、消えることもあせることもなく、繰り返し聖霊さまの温かな注ぎかけを受けていま す。
リバイバルというのは、そもそも「復興」を意味する言葉です。神に対して無関心なたましいがリバイブ(復興)され、新しくされます。また、神を 愛する故に熱心に清められることを追い求めるようになり、父なる神を愛する思いは、いよいよ深く増し加わります。
また、リバイバルは「後の雨」とも呼ばれ、たましいの大収穫の時でもあります。聖霊の大いなる働きによって、いやしや奇跡が起こり、それを見た 大勢の方々が救われていきます。多くの人が見たいと願っていた大リバイバルの約束の成就を、これから私たちは見ていき、担っていくことになりま す。これは、神の約束であり、ただ神の恵みの御手が成し遂げてくださるでしょう。
ヨエル書には次のように書かれています。「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ」(2章23節)
時はやって来ました。皆さん、用意はよろしいでしょうか?
(イスラエル北野)


み声新聞2012年3月11日号(第666号)より転載—