2021年11月28日日曜日

足を洗われたイエスさま

  ヨハネの福音書13章には、ヨハネだけが言及しているイエスさまのお姿があります。

 過ぎ越しの祭りの前のことです。いよいよ弟子たちとの別れの時が来たことを知ったイエスさまは、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいでふき始められました。こうすることによって、イエスさまは弟子たちへの愛を示されました。

 お弟子たちは、さぞ困惑したことでしょう。ペテロは、「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」といいました。イエスさまは「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃいました。

 ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください」と辞退しようとします。しかし、イエスさまが「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語られると、今度は一転し「足だけでなく、手も頭も洗ってください」といいます。イエスさまは、「水浴した者は、足以外には洗う必要がありません。全身きよいのです」とおっしゃいました。

 これは、私たちの日々の罪の赦しに関わってくる事柄でもあります。イエスを信じ罪の赦しを得た私たちですが、罪自体がなくなったわけではありません。原罪を持ち、生まれながらの罪人である私たちは日々犯してしまう小さな罪があります。それが足につく汚れで、それをも拭ってくださるという意味もあるようです。

 また、同1415節にはこう書かれています。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきです」「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」

 こうしてイエスさまは、世にある私たちにご愛を示されました。そこに見えるのは、謙遜の姿です。

 主イエスにならい、互いに赦し合うこと仕え合うことを、イエスさまは体をもって教えてくださったのです。このような形で、神、主イエスは私たちにご愛を示されたのです。

 愛を示すということは大切なことです。私は、クリスチャンとしては家族の初穂です。しかし未熟であったために、遅れて信仰を持った父に律法をあてがい、裁くようなことばかり語っていました。すると、ある神の人から、父が神さまの愛を分からないで戸惑いまた傷ついている、だからあなたは神の愛で接し、お父さんにキリストの愛を示していきなさい、という勧めを受けました。これを実行した時、父も私も変わりました。赦し赦され、口先だけでなく、熱心に愛し合う関係になりました。

 神は愛です。赦すために主は来られたのです。この愛のうちに留まり、互いに足を洗い合いましょう。そうすることによって、神は栄光をお受けになられます。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月21日日曜日

時代 

 教会の修養会の帰りに、芥川賞作家の重兼芳子先生に渋谷の大学まで車で送っていただいたことがあります。小説家は憧れの職業であったので、どうすれば小説家になれるのか聞いてみました。すると、意外な答えが返ってきました。

 時代が変わったからだ、というのです。昔は作家の弟子に入ったりした、ごく限られた人しか小説家になる道がなかったけれど、今は誰でもやろうと思えばできる。音楽も昔は一部の人しかできなかった職業だったけれども、今は誰でもできるようになっている、それと同じことなのよと話してくださいました。

 それから、三十数年、さらに世は大きく変化して行きました。特筆すべきは、ネットを通しての働きです。世は、情報社会になりました。テレビ局など一部の人しか扱うことができなかったメディアの働きですが、今ではスマホや端末を用いて、誰でも瞬時に情報を世界中に発信することができます。「YouTuber」や「ブロガー」として収入を得て、暮らして行ける時代なのです。

 とはいえ、良いことばかりではありません。情報は生き物で、それを掌握するものは巨大な力を持つからです。一見、言論の自由を得たように見えますが、実は反面、強い管理のうちにあり、いともたやすく情報統制がなされる時代となっています。

 そして世界は今、民族や国境の垣根を超えて、ひとつの政府になろうと、産みの苦しみの始まりを迎えています。このことに関しては、聖書はこと細かに述べています。そして、この世界政府の頂点に立つ人物こそ、まさに反キリストであると言われています。反キリストは情報を掌握し、心の赴くままに曲がった情報を流し、民心を掌握します。彼は人気者となり、終には自分を神だと宣言します。そして、真に神に聞き従っているクリスチャンを憎み、迫害します。

 今回、コロナウイルスの世界的な大流行が起こりましたが、これは私たちを眠りから覚ます神の手となりました。コロナ禍は象徴的な出来事です。コロナは国境を越え拡がりました。これを時として、時代が変わったのです。顧みればお金も電子マネーにうって代わろうとしていますし、マイナンバー制への移行が世界的に推し進められています。体内にチップを埋め込むことはもう現実のこととなっています。反キリストは、いよいよ表舞台に出て来るでしょう。時は、終末を指し示しています。

 こういう訳で、時代に飲み込まれないよう、しっかりと神に目を向け、目を覚ましていましょう。神を避け所としなければ、乗り越えられない困難がこれから次々に起こってきます。しかし間もなく再び主が来られます。主は王として来られ、私たちを永遠の住まいに、天国に導いて下さいます。こういう訳で、私たちは主がいつ来られてもいいように、日々救いの達成につとめましょう。

 「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」(マタイの福音書2414節) 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月16日火曜日

 宗教

 私は、宗教が大嫌いでした。本当に嫌いです。しかし、元から嫌いであったわけではありません。むしろ好きなほうで、いろいろな本を読み、信心は持ち合わせていた方です。中学生の時には母の代理で、ある宗教の総本山に行きました。

 その総本山に行ったことを機に、「鰯の頭も信心から」ということわざから、信じる対象は何でもいいわけだから、思い切ってこれを信じてみようと決め、タスキを掛けました。そして教えられた通り朝夕のお勤めをして信徒になりました。しかし、その姿を叔母に目撃されてしまい、真夜中に父が怒りに燃えてやって来て、私を起こし拳で打ちました。

 これは魂に大きな傷を残した出来事で、これを最後に私は、ありとあらゆる宗教を嫌うようになりました。また、宗教に対して疑問も感じていました。信仰にお金が絡んでくることです。1人につきいくらという供養料を払うようになっていて出費や負担が大きいのです。人の弱みを食い物としているように見え、こんな宗教とは一生関わりたくないと思いました。その宗教ばかりでなくすべての宗教を封印し、一生無宗教で生きよう、と堅く決心しました。

 このように私は宗教嫌いを誓っていたのですが、その後、青天の霹靂で、何と私はクリスチャンに、宗教家に、なったのです。キリスト教の牧師である夫の妻として、今に至るまで三十数年間を神の教会で神に仕えて過ごしました。この展開は人生の不思議さを表し、頂いた救いは神さまの深い恵みです。18歳になった時、神は人手によることなく私を新しくしてくださり、私はイエス・キリストを救い主として信じました。お金で買えない真の救いに与り、この出会いに背かずこの道に進みました。

 今、私の回りにいる人々は、子育てを終え、老親や伴侶を天に送り、自分の時間ができた人が多いように思います。人生の完成を考える年頃であり、再び宗教を考える時に来ています。知人たちは、宗教に関心を持っています。教会にも来ますが、いろいろな宗教にも足を向けています。何かに祈りたいという気持ちや、近づく死に対して、備えや確信を得たいと願ってのことでしょう。

 人には宗教は必要でしょうか。かつてはノーと言いましたが、今は人と宗教は分かつことのできない関係であるというのが私の確信です。伝道者の書511節には「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」と書かれています。人は生まれながらに神を求め、永遠を求めるよう造られているのです。また、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(同12章1節)とも書かれています。

 それ故、どうかあなたの救いの達成につとめてください。今がその時です。世界は未曽有の患難に突入しようとしています。あなたは今、神を知ったかもしれません。しかし、神は世が始まる前から、あなたを知っておられ、あなたとあなたの人生を用意してくださいました。イエス・キリストを下さった御神の愛こそ私たちの住まいです。神の元に帰りましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月16日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月10日水曜日

新しい人

 コリント人への手紙第二に、次のようなことばがあります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(517節)

 その通り、誰であれ御子イエス・キリストを信じ、自らの救い主として心にお迎えする人は、新しく造られた者です。なぜなら、その人はイエスを信じることによって「救い」を受けたからです。今から約2000年前、イエス・キリストが世に来られ十字架で死なれたのは、私の罪を贖い赦すために私の身代わりとなって死なれたのであり、またイエス・キリストが三日目に死からよみがえられたことによって、人類は死に勝利し、信じる者は誰一人として例外なく永遠のいのちを持つようになりました。それまでは、罪過の中に死んでいた何の望みもなかった私たちですが、キリストが来られたことによって、すべてが一新されました。古い私は過ぎ去り、すべてが新しくなったのです。

 新しくなった、というのは古いものが過ぎ去ったということです。そしてこれはイエス・キリストによって実現しました。キリストを信じる以前の私は、世にあってさまざまな悩みに縛られていました。端的に言えばサタンの支配の中にいたのです。自分で自分を救うことはできません。そういう点では、囚われ人であったと言えるでしょう。

 しかし、キリストが来てくださったことによって、できないことができるようになりました。その最も大きな出来事は救いを得るというものでした。罪からのきよめ、死からの復活、病のいやし、悪霊からの解放、問題からの解決を頂きました。目には見えませんが、私はキリストにあって、新しく生まれたのです。

 新しくなったということで最も大切なのは、サタンの支配から神の支配へと移されたということです。私たちはサタンの支配下にありましたが、イエスを信じることによって神の、御父の支配のもとに置かれるようになったのです。

 ある時、私は牧師に聞いたことがあります。サタンに攻撃されたり、支配されたりすることが不安だ、というものです。

 それに対して、牧師は「新しいあなたに対してサタンは何の手出しもできませんよ」と言いました。本当にその通りなのです。キリストにあって新しく生まれた者に対しては、どんなにサタンが攻撃の手を尽くそうとも効き目がないのです。十字架のイエスさまは、真実、私たちを贖ってくださったのです。

 新しい私は、完全な罪の赦しを受けています。また、聖霊の導きの中に生き、死から命へと移っています。恐れることはありません。サタンはもはや敗退し、信じる者はキリストの支配のうちに置かれています。この素晴らしい救いにあなたもこの瞬間から加わることができます。見よ、すべてが新しくなりました。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月6日土曜日

天国

 昨年最後の日曜日に、教会の姉妹が召天しました。姉妹とは、教会のスタート時から今に至るまで30数年間、共に教会で過ごしました。親しい方であったので第一報を聞いた時には驚きました。けれども、彼女は天国に行った、ということがなぜかよく分かりました。そして、天国が急にとても近く感じられるようになりました。

 天国は、私たちクリスチャンにとって故郷でありホーム(家)です。懐かしい方々がそこにおられます。すべてのことを感謝することを教えてくれたマーリン・キャロザースさんや若いころ大変お世話になった新井先生、断食祈祷の力を教えて下さった崔子実先生も。フィリピンで殉教したジャッキーやジュリエッタたち、そして私の父も息子も。他にもSさん、Mさん、Tさん、Aさんもと枚挙にいとまがありません。多くの友人知人が既に御国の子となって、パラダイスにいます。ひょっとすると地上にいる私たちより天にいる者たちのほうが人数多くなったかもしれません。

 天に召されて、今、姉妹は、天国のすばらしさに満ち足りていることでしょう。先に天に行かれたご主人とも再開を果たされたでしょうし、ひょっとしたらマーリンさんとともに「プレイザロード」と神を讃えているかもしれません。姉妹の喜びが伝わってくる思いがします。

 天国がどれほど素晴らしいところか、皆さん薄々は分かっておられるように思います。しかし、知ってはいても、この素晴らしい天国に入るにはどうすればよいのかまで知っている人は極わずかです。また、死んだあと自分はどうなるのか、これも誰もが問いたい疑問です。

 聖書によれば、イエスさまを自分の救い主と信じる者は、罪赦されて、死んだらパラダイス(天国)へ行きます。しかし、信じることをせず、罪の赦しを受けない者は、おのれの罪と不義の中に死にます。そしてハデス(黄泉)に置かれるのです。日本語では、一口に「地獄」と言われていますが、聖書では地獄は「ハデス」と「ゲヘナ」の2つに分かれていて、前者ハデスはキリストを信じないで亡くなった死者が一時的に置かれる場所で、後者ゲヘナは、文字通りの地獄で、昼も夜も苦しみを受ける硫黄の燃える火の池です。

 信じることによる天国の救いのハードルは、驚くほど低いことを知ってください。ローマ人への手紙10章には、このように書かれています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(910節)

 すべての者が救われるために、神はただ御子を信じることを唯一の救いの条件とされました。信じるならば救われる、ただこれだけです。神はあなたが信じて永遠のいのちを受けることをみこころとされています。福音を信じましょう。 

MIKOE NEWSから転載」 2022年11月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年11月3日水曜日

神の慰め 

 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」これは、コリント人への手紙第二14節にあることばであって、私たちへの神の約束です。まもなく還暦を控える自分の人生を顧みると、一度や二度ならず深い苦しみの時があり、挫折し倒れたこともありました。

 多くの方は、神に関して厳しい方というイメージを持っていますが、それは私たちの罪に対する神の神性、そして、その神の聖さに対する私たちの罪に対する自覚がそうさせるのであって、神さまご自身は慈愛の父、慰めの神であり、変わりないお方です。また、神は聖であり義なる方であるため、生まれながらに原罪を持つ罪人である人間とは相交わることはできません。なので、私たちがいつでも神に帰ってくることができるよう、神は罪人が神に立ち返るご計画を立て、私たちに御子イエスさまを下さいました。イエスさまは私たちの赦しのために、およそ、2千年前、一度世に来られ、十字架で私たち人類のすべての罪を担い、死んで下さり、三日目によみがえり、贖いを成し遂げてくださいました。ここに、神のご愛は十字架という形に結実し、私たちの「救い」が決定したのです。

 神は私たちを愛しておられます。私たちには苦しみが許されることがありますが、その苦しみの中で、私たちを愛してくださるのも、また神でした。神は、幾度となく慈愛の父、慰めの神となってくださり、私を庇い、敵の前でご愛を注いでくださいました。

 それ故分かります。この方が、裁きをするなら、その裁きは正しいのです。この方のご愛は、律法以上に働き、罪を超え、どんな罪人であっても、悔い改めるよう働きます。そして悔い改めの実を結ばせると、今度は私たちを慰めてくださるのです。罪の赦しは、想像を超えるような大罪を犯していても、些細な罪であっても、どのような時であっても、神が私たちの避け所であって、私たちの罪のために流された御子イエスの血は全ての罪を赦し清めます。

 さて、イエスさまのご愛に関してマタイの福音書1220節にはこう書いてあります。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」というものです。彼とはイエスさまであり、そのご愛は慰めに満ちています。そして忍耐のある愛だと言えるでしょう。いたんだ葦とは、折れかけている葦で、くすぶる燈心は、今にも消えそうな明かりです。しかし決して、その葦も燈心も消し去られることはありません。イエスさまが、守ってくださるのです。

 イエスさまの慰めは私たちに満ち満ちています。イザヤ書5112節では「わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは何者なのか。死ななければならない人間を恐れるとは」、と書かれています。私たちを慰めてくださるのは神ご自身です。私たちが試練、困難の中にある時、神は確かに人の世にはないようなご自身の深い慰めを注いでくださいます。そして、人の知られない所にその慰めは届き、私たちの苦しみは祝福へと変えられるのです。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年11月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/