2012年12月19日水曜日

神を恐れる


 申命記6章16節には「主を試みてはならない」と書かれています。私が主イエ
ス・キリストを信じ、最初に学んだことは、まさにこのことでした。 神を恐れ
るということです。
 友人に誘われて行った教会は、本当に神さまがいるようでした。アーメンとい
う信仰者の声が漏れ、私の心に触れました。神さまを信じたい。生きて 働く神
さまがいるなら、全てをささげてもそれを知りたい、そんな思いを抱きました。
 折から教会では、神は祈りに答えられると語られていましたので、私も神さま
に「教会に行くための自転車を下さい」と条件を掲げて祈り始めまし た。
 並行して私は、自転車をくれそうな友人にも声を掛けました。条件通りの自転
車ではないものの、タダで下さるという方が現れました。喜んで頂こう とした
のですが、それは私の元へ来る前日に、何と盗まれてしまいました。
 ごめんね、と友人は言ってくれたのですが、悪かったのは私です。私は主を試
みたのです。強い恐れが生じ、二心を悔い改めたところ、その直後に、 祈った
全ての条件を満たした、奇跡の自転車がやって来ました。私は驚き、生まれて初
めて神を恐れるということを学んだのです。
 若き神学生であったころ、毎週水曜日に祈祷会の奉仕が回ってきました。神奈
川から埼玉まで、交通費も出ないのですが、自腹を切って赴きました。 そんな
中で、ある神学生は、こんな事やっていられるか、とつい言ってしまったそうで
す。誰もそのことを知らないはずですが、翌週から彼に奉仕が来 なくなりまし
た。神さまは、彼の言葉を聞いておられたのです。
 神を恐れることを学びましょう。これこそ全てです。 (イスラエル北野)
 
み声新聞2012年12月23日号(第707号)より転載—

2012年12月14日金曜日

クリスマス

 長い年月を経て、この方は世にやって来られました。何千年も待たれた約束の
成就のために、時満ちてこの世に来られたのです。
 この方に、使命がありました。この方は、肉によって成り、やがてはちりに
帰ってしまう私たちに救いと永遠のいのちを与えるために、神によって遣 わさ
れたのです。彼は神の御子でした。
 私たちはきらびやかな王の誕生を夢見ましましたが、その王の揺りかごは、馬
の飼い葉おけでした。貧しく、また虐げられ、その誕生や人生は、万事 につけ
へりくだっていました。全ての人を救うため、全ての面で底辺を通られたので
す。私たちのためにです。
 預言者イザヤは「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を
知っていた」(53章3節)と語りました。彼とは、イエスさまのこと です。
 ピリピ人への手紙2章には、次のように書かれています。
 「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考え
ず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられま し
た。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架
の死にまでも従われました」(2章6―8節)というものです。
 神は、罪を持ち死に至る私たちを救うために、神のあり方を捨て、世に来られ
たのです。すなわち、イエスさまは、私たちに永遠のいのちを与えるた めに、
私たちの身代わりとなって十字架で死に、尊い血潮を流し、贖いを成し遂げてく
ださいました。
 クリスマスの本当の祝福は、神の下さった御子イエスを信じることにありま
す。私たちの身代わりとなって死んでくださったイエスさまを、あなたの 心に
お迎えください。(イスラエル北野)

み声新聞2012年12月16日号(第706号)より転載—

2012年12月4日火曜日

山をも動かす


 信仰は山をも動かすと言いますが、本当にその通りです。
 かつての友人Mさんは、信仰によって素晴らしい神さまの栄光を見ました。実
は、Mさんの家には電話がありませんでした。連絡を取るのに不便なの で、電
話が与えられるように、神さまに祈りました。程なくして、神さまは彼にみこと
ばを下さいました。「祈って求めるものは何でも、すでに受けた と信じなさ
い。そうすれば、そのとおりになります」(マルコの福音書1124節)というみ
ことばです。
 彼はそのことばを握りました。信仰のレースの開始です。Mさんは、まず牧師
宅で不用となっている電話機をもらって、自宅に置きました。そして、 受話機
を取っては、まだつながっていない回線に向かって言うのです。「もしもし。M
です。今日はどうもうんぬん」。あたかも回線があるかのよう に語り続けて
いったのです。
 おかしな事をするものだと思われるでしょうが、信仰を用いるというのはこの
ようなものです。行いを伴うのです。彼の信仰は立派です。神さまもそ う思わ
れたのでしょう。Mさんに、電話を引くにあたっての必要な費用が速やかに与え
られました。
 また、ある人の証しですが、お母さんのアパートの前に大きな建物が建ち、太
陽の光が入らなくなりました。そのことに心痛めたその人は、繰り返し 何度
も、イエスの名によってそれが立ち去るよう祈り続けたところ、建物は撤去され
ました。
 祈りは決して一方的なものではありません。また、神さまの前に聞かれていな
い祈りもないのです。それ故、私たちもまた信仰を用いて祈りましょ う。主は
ご栄光を現してくださいます。
(イスラエル北野)


 
み声新聞2012年12月9日号(第705号)より転載—