信頼の的
以前ある人に、君はお金を使うことには長けていると思うがお金を蓄えることは苦手なようだね、と言われたことがあります。その通り、コツコツ貯めるようなことは性に合わないようです。
皆そうだと思って友人たちに聞いたところ、意外や意外、隠れたところで株を始めていたり、投資をしたりと幅広く資産運用をしていました。これには驚きました。お金は使うものでなく増やすものだというのが彼らの認識でした。そして、次第にハイリスクハイリターンの商品に手を染め始め、その結果結構な金額の損失を出していました。素人が手を出すものではなかったのでしょう。
さて、お金持ちと言えば、イスラエルで栄華を極めたソロモン王は間違いなくその中の一人です。その王朝は繁栄し、富に満ち、ソロモンは空前絶後の権力を掌握していました。しかしながら、その彼がしたためた「伝道者の書」には意外な一文が寄せられていました。
「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる」(5章10~12節)
明らかに、金銭や富を嘆いている様子です。金銭や富の追及は終わりがないものなので、それがむなしいのです。身丈に応じた仕事を持ち、誠実に働いた者は、良いとき悪い時があっても、心地よく眠れる人生を持っている。しかし富む者は、何一つ不自由がないにもかかわらず、夜もおちおち眠っていられない問題を抱える始末だ、というのです。どちらが幸せか分かりません。
よく、人生を決めるのは、お金だといいます。聖書にも、「金銭はすべての必要に応じる」(伝道者の書10章19節)と書かれています。お金さえあれば何でも手に入れられる、そう思っている人は実際少なくありません。気が付けば、ほとんどの人が、生まれながらのお金信仰の信徒です。競うように富の追及を始めます。世がそうなっているからです。
その中で、先日感動した話があります。ある老齢の女性が孤児院に多額の献金を申し出ました。そのお金は、彼女が生涯をかけて蓄えてきたものです。彼女は決して裕福な方ではありませんでした。なので、孤児院の責任者の人はこれを持ち帰り、もう一度よく考えるようにと彼女に再考を促しました。すると彼女は「私は、自分の信頼の的をお金から神へと変えたことを決して後悔などしていません」と述べたのです。これには驚きました。なんと素晴らしい信仰でしょうか。
お金は彼女にとって大切なものでした。おそらく彼女はやもめであったでしょう。年をとって働くこともできなくなって、これからの生活に心配がないわけではありません。下手をすれば今まで以上に困難になるのは目に見えています。しかしその老婦人は、信頼をすべて神に置くと決めたのです。お金ではなく、神に、というこの決断と信仰は金より尊いものだと私は思います。
「MIKOE NEWSから転載」 2022年6月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/