2022年6月19日日曜日

信頼の的

 以前ある人に、君はお金を使うことには長けていると思うがお金を蓄えることは苦手なようだね、と言われたことがあります。その通り、コツコツ貯めるようなことは性に合わないようです。

 皆そうだと思って友人たちに聞いたところ、意外や意外、隠れたところで株を始めていたり、投資をしたりと幅広く資産運用をしていました。これには驚きました。お金は使うものでなく増やすものだというのが彼らの認識でした。そして、次第にハイリスクハイリターンの商品に手を染め始め、その結果結構な金額の損失を出していました。素人が手を出すものではなかったのでしょう。     

 さて、お金持ちと言えば、イスラエルで栄華を極めたソロモン王は間違いなくその中の一人です。その王朝は繁栄し、富に満ち、ソロモンは空前絶後の権力を掌握していました。しかしながら、その彼がしたためた「伝道者の書」には意外な一文が寄せられていました。

 「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。財産がふえると、寄食者もふえる。持ち主にとって何の益になろう。彼はそれを目で見るだけだ。働く者は、少し食べても多く食べても、ここちよく眠る。富む者は、満腹しても、安眠をとどめられる」(51012節)       

 明らかに、金銭や富を嘆いている様子です。金銭や富の追及は終わりがないものなので、それがむなしいのです。身丈に応じた仕事を持ち、誠実に働いた者は、良いとき悪い時があっても、心地よく眠れる人生を持っている。しかし富む者は、何一つ不自由がないにもかかわらず、夜もおちおち眠っていられない問題を抱える始末だ、というのです。どちらが幸せか分かりません。

 よく、人生を決めるのは、お金だといいます。聖書にも、「金銭はすべての必要に応じる」(伝道者の書1019節)と書かれています。お金さえあれば何でも手に入れられる、そう思っている人は実際少なくありません。気が付けば、ほとんどの人が、生まれながらのお金信仰の信徒です。競うように富の追及を始めます。世がそうなっているからです。    

 その中で、先日感動した話があります。ある老齢の女性が孤児院に多額の献金を申し出ました。そのお金は、彼女が生涯をかけて蓄えてきたものです。彼女は決して裕福な方ではありませんでした。なので、孤児院の責任者の人はこれを持ち帰り、もう一度よく考えるようにと彼女に再考を促しました。すると彼女は「私は、自分の信頼の的をお金から神へと変えたことを決して後悔などしていません」と述べたのです。これには驚きました。なんと素晴らしい信仰でしょうか。    

 お金は彼女にとって大切なものでした。おそらく彼女はやもめであったでしょう。年をとって働くこともできなくなって、これからの生活に心配がないわけではありません。下手をすれば今まで以上に困難になるのは目に見えています。しかしその老婦人は、信頼をすべて神に置くと決めたのです。お金ではなく、神に、というこの決断と信仰は金より尊いものだと私は思います。

 顧みて、私たちは何を信頼の的としているでしょうか。人ですか。預貯金ですか。それともあなたの肩書でしょうか。本当に確かな土台は、神ご自身以外にありません。あなたがもし、神を信頼の的とする人生を送るなら、神はあなたの信仰に応え、あらゆるところであなたを支え、助けてくださいます。お金は確かに万能で便利なものです。けれども、私たちに必要なものはお金ではなく、むしろ、神なのです。あなたが主イエスを信じ、神を信頼の的とするなら、生ける神ご自身があらゆる道であなたを守り、祝福してくださいます。こういう訳で、私たちもまた、神に期待し神を信頼の的とする人生を生きて参りましょう。  

MIKOE NEWSから転載」 2022年6月19日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/  

2022年6月11日土曜日

奇跡が動くとき

 神さまのなされることは、人の思いを遥かに超えています。聖書にはいくつもの奇跡が記録されています。それらを1つずつ見ていくと、奇跡を生む土台が往々にして患難、困難にあること、望みえない状況の中から信仰を用いて奇跡を得たことなどがうかがい知れます。

 聖書全編を通して、最も大きな奇跡に挙げられるのは、出エジプトでしょう。神はモーセとアロン立て、イスラエルの民をエジプトからカナンの地へと導き出そうとされました。実に10回にわたって、モーセはパロの前に立ち、イスラエルの民を行かせるように告げました。しかし、かたくなにされたパロは、これを受け入れる訳はなく、その度にわざわいがエジプトに下りました。   

 ついに10度目、主がエジプトの地のすべての初子、パロの子をはじめ捕虜の子や家畜に至るまですべての初子を打たれると、いよいよイスラエルは、急き立てられて追い出されるようにしてエジプトを出ました。

 こうして、民は出て行き、神は、雲の柱火の柱にあって民を導き、昼も夜も進んで行きました。ところがある時、主はモーセに、引き返して海辺に宿営するよう告げられました。そこは後ろが海なので退路がなく、戦いには不利な場所でした。案の定、それを見たパロは、荒野は彼らを閉じ込めたと言い、心を変えて全軍勢を率いて彼らを追跡したのです。    

 イスラエルが見てみると、なんとパロと軍勢が迫っていました。逃げようにも先は海です。絶体絶命の状況に陥りました。民もモーセも神に叫びました。神に従ってきたのに何だ、この状況は。エジプトにいた方が良かった。こんな泣き言まで出てきました。しかし、神は前進するよう告げられたのです。モーセの杖を上げ、手を差し伸ばし、海を分けてイスラエルが海の真中の乾いた地を進み行くようにせよと語られたのです。   

 その通り、モーセが手を伸ばすと、一晩中強い東風が吹き、海を退かせ水はイスラエルのために右と左で壁となりました。イスラエルはこの海の真中のかわいた地を進んでいきました。奇跡が起こったのです。エジプト人は追いかけて来てあとに続きましたが、主は陣営をかき乱され、戦車の車輪をはずして進むのを困難にされました。戦っておられるのは主だと気付いたエジプト人は逃れようとしました。けれども、主はモーセに、手を差し伸べ水が戻るようにせよ、と命じられました。水は元に戻り、パロの全軍勢の戦車と騎兵たちを覆い、残された者はひとりもいなくなりました。こうして神は約束を成就され、ご栄光を現わされました。試練の背後に、壮大な神さまの計画があったのです。    

 神に従っているにもかかわらず、なお絶体絶命の困難に陥るということはしばしば許されます。人間的には最後の望みも絶たれたような状況に置かれ、待たされることがあります。けれども奇跡はそこから始まります。ラザロは死んで4日もたったあと、望みえないところから復活を遂げました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、炉に投げ入れられた後に、助けを得ました。両者とももっと早くに救い出してもらえたら、と思いますがそれは人の考えで、神はご栄光を現わす時とタイミングをご存じです。可能性が尽きたその先から、あえて始まる神の大いなる業があるのです。

 私たちの時間では遅いと思われる時であっても、それが神さまの時であることは多いです。よく、ゼロからのスタートと言います。けれども、神さまのご栄光の現れは、ゼロどころかマイナスからスタートすることも珍しくありません。人間的に望みが全くなくなる時、その時こそ、神の奇跡の手が動きます。

 あなたも真の神イエス・キリストを信じ、あなたの人生の上で現わされる神の奇跡を体験してください。あの紅海すら割れたのです。神さまは、どのようなことでもおできになります。神を恐れ、奇跡のみわざに与かりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年6月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/   

2022年6月2日木曜日

ご臨在

 ご臨在。聞きなれない言葉かも知れません。神が今まさにここにおられるというように臨まれている状態をいいます。残念なことに今は火災で焼失してしまいましたが、ロサンゼルスのオン・ザ・ウエイ教会のプレイヤーチャペルには特別なご臨在がありました。

 私たちは、日本から来て何度もこのチャペルに行き、何日も祈りこみました。ここは天使が四隅に降り立ったというチャペルで、ある日部屋一面に霧のようなものが立ち込めていたといわれています。それはご臨在でした。そしてその日を機に教会は大きく成長していきました。

 このような特別な場所なので、私たちは、その四隅に立って実際に祈ってみたり、時にはあまりにも心地よいので、うとうとしながら祈り(居寝り)、何度も何時間もただ祈ることに専念しました。ここでの祈りこみは、教会のスタート時に導かれたものであり、これからの働きを前にして、得難い恵みとなりました。それはそれは優しくて、慰めに満ち、たましいを潤し、その場から立ち去りがたいものがありました。これがご臨在というものなのです。    

 私がイエスさまのもとに帰ったのも、ご臨在に触れられたことによります。友人に連れられ教会に行き、教会の屋根裏部屋で牧師さんが個人的に祈ってくださいました。その時です。体が左に左に強い力で押されるのです。遂にこらえきれず、畳に身を投げ出してしまいました。なに私は愚かなことをしているのだろう、と急いで立ち上がろうとすると、突然昔よく聞いた「いつくしみ深き」のメロディーがよみがえり、その言葉に打たれました。「などかは降ろさぬ負える重荷を」(お前はどうして背負っている重荷をおろそうとしないのか)と、重荷を負ってくださるという主のことばに応答して、その日私は主のもとに帰りました。そこに働いていたのは、ご臨在であり、聖霊さまの働きでした。ご臨在のうちに、私は救いにあずかりました。   

 さらに、印象に残ったのは、父のいやしです。食道静脈瘤破裂で生死をさまよっていた時、病室には重い空気があり、暗い印象がありました。しかし、母が「もう一度チャンスをください。やり直させてください」と心から祈ると、突然大勢の天使の軍団がやってきたかのようなざわめきに、病室が満ちあふれました。すると、病室の空気は一変し、ご臨在が覆いました。そこから、止血に成功し、父は危機を脱しました。

 霊的な戦いの勝利として、ご臨在が注がれるということがあります。神はご臨在という形でご自身を現わされ、大能のみ力によって御心のすべてを成し遂げられます。それゆえ臨在のある所に神はおられ、そこに神のみわざが現されます。

 私たちは神のご臨在を求めましょう。旧約の時代には、契約の箱が神のご臨在を現わしていましたが、今の時代、主は直接ご臨在をもって御自身を現わしてくださいます。この恵みにあなたもまた与かって参りましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2022年6月2日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/