2015年10月11日日曜日


 このところ、旭川ではゲリラ豪雨が続いていて、雨上がりに、虹を見せてくださいと祈りました。すると、うっすらと空に虹を認めることができました。もっとくっきりした虹を見たい、と、これまた願ったところ、見事な虹が眼前に現れました。光を放つ二重の虹で、きれいなアーチを描き、虹の根っこが大地の上に立っているところまで見えて、主をあがめました。
 しかし、ある方々は、こうして私たちが虹に反応することをけげんな顔をして見ておられます。もちろん私たちは虹を信仰しているのではありません。虹を拝んでいるわけでもありません。
 虹の由来は創世記9章にさかのぼります。神は、ノアの箱舟に乗って地上に訪れた大洪水から助かった、ノアとその家族、地上のすべての肉なるものと契約をお立てになりました。
 13節に、「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」と書かれていて、これが虹の由来です。虹は、神さまと地上のすべての肉なるものとの間に立てられた契約のしるしなのです。
 私には忘れ得ない虹がいくつもあります。イスラエルのオリーブ山での虹、虹のアーチをくぐり抜けた北海道の虹、見えない角度にもかかわらず出現した病院での虹、飛行機で見た、雲の間にあった数十個の虹、などです。
 元気のない時、虹の出現で持ち直したことは数知れず、虹は言葉以上に私を強めてくれました。虹を見る度に「私がともにいる、これでいい、大丈夫だ」。神さまが、そんなメッセージを与えてくださっているように思います。こういう訳で私たちは虹の出現に喜ぶのです。神もまた、応えてくださり、絶妙のタイミングで虹を下さいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2015年10月11日号(第853号)より転載—

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