2016年12月28日水曜日

足を洗われたイエスさま
 過越の祭りを前にして、イエスさまはご自分が世を去って父なる神のみもとに行くことを知られ、世にいるご自分の者たちに、その愛を残るところなく示されました。
 イエスさまは、夕食の席から立ち上がると、上着を脱ぎ手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭き始められました。
 シモン・ペテロの順番になると、彼は「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか」と言いました。イエスさまは、「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」とおっしゃいました。
 するとペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください」と言いました。イエスさまが「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」と語ると、今度は「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と言いました。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです」とイエスさまはお答えになりました。(ヨハネの福音書13章参照)
 イエスさまは神です。しかし、神の在り方を捨て、仕える者の姿勢を取り、私たちに愛を示されました。足を洗ってくださったことは、人が日々犯してしまう日常のどのような罪をも赦してくださる、ということなのでしょう。
 イエスさまは、世ではご自分を喜ばせることなく、私たち罪人を愛し、最後には救いのためにご自分の命さえ捨ててくださいました。足を洗うイエスさまの謙遜は、私たちへの愛の現れです。イエスさまは私たちの罪を贖(あがな)うために低くなってくださいました。今度は私たちが低くなって、その愛を伝えるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年12月25日号(第916号)より転載—

2016年12月19日月曜日

恵みと律法
 クリスチャンであるAさんは、時に、同じクリスチャンである奥さんのことを、律法学者M子・パリサイ人M子と呼ぶと言います。どうやら妻という存在は、夫に近すぎて、自分ができないことを棚に上げて、無理に夫に理想を押し付けてしまうところがあるようです。また、良かれと思って夫に進言することにおいても、それが度を越すと、あれをやっていない、これもできていない、といつのまにか夫を責めるようになります。こうして、まんまとサタンのわなに掛かってしまいます。
 しかもそれがサタンの仕業だと気づくのは、大概全てをやり終わってしまった後です。夫はスーパーマンではなく痛みも弱さもある生身の人間であり、その中でも精いっぱい頑張っていてくれるのだということが、妻には見えなくなっているのです。サタンに惑わされ、しなくてもいい戦いを、幾度重ねたことでしょうか。
 イエスさまは、マタイの福音書で「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない、とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(9章13節)とおっしゃいました。あわれみは恵みであり、いけにえは律法です。恵みは律法に打ち勝ちます。イエスさまが私たちに図ってくださるのはあわれみです。
 さらに同12章にはイエスさまについてこう書かれています。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(20節)いたんだ葦、くすぶる燈心は、私たちの弱さのことを言っています。もう駄目だ、という状態であっても、イエスさまのあわれみは尽きません。イエスさまは最善をなしてくださいます。律法には救いがありません。神の恵みこそ、私たちが立つべき土台です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年12月18日号(第915号)より転載—

2016年12月11日日曜日

雪よりも白く

 今年の旭川は例年より雪の訪れが早くなりました。11月というのに、気温は氷点下10度を記録し、あっという間に根雪になりました。東京でも11月としては54年ぶりの降雪を記録したそうです。
 あれは、32年前のことです。その日の東京も珍しく大雪でした。私は、友人に連れられて初めてM教会に行きました。そして、祈りの部屋で救いを受けました。きよい水が頭のてっぺんから足のつま先に向かって流れてゆくような聖霊の注ぎかけを受け、うまく表現できませんが、その日私は、確かにそこで新しく生まれました。
 教会からの帰り道、大雪に足をとられて何度も転びました。それでもうれしくてうれしくてなりません。雪の白さが、私の罪を赦してくださった神さまの贖いを思わせ、非常な喜びが心に注がれていました。
 後にそのことを書いてある聖書の言葉を見いだしました。イザヤ書1章18節にはこのような一文があります。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、雪のように白くなる」というものです。
 雪が天から降り注ぎ、全てをすっぽり包み込むように、私の罪もまたイエスさまの流された血潮によって覆われました。そして、父なる神は、私たちを見るにあたってイエスさまの血潮を通してご覧になるのです。私たちは贖われたのです。イエスさまの十字架によって今や、父なる神は、あたかも一つも罪を犯していない人が受けるかのような最善最高の恵みを、私たち一人一人に与えてくださるのです。
 神さまは、私たちを愛してくださっています。神さまは助けてくださいます。主の名を呼んで今、み父のみもとへ帰りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年12月11日号(第914号)より転載—
富について
 私の伯母は印刷会社を経営しています。山の中腹に家を建て、手入れの行き届いた庭を造り、茶の湯の備えがあります。高価な人形作りを趣味とし、また切り子細工を集めました。なかなかの手腕の持ち主で、裕福です。
 しかし、聖書には何と書かれているでしょうか。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。(中略)すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものでなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます」(ヨハネの手紙第一2章1517節)とあります。
 また箴言に美しい祈りが掲載されています。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。(中略)貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために」(30章7~9節)というものです。
 実に清らかで美しい祈りです。私もまた繰り返しこの箇所を開いて祈ります。私たちは持たなくていい重荷をどれだけ負っていることでしょう。
 世の「欲」がキーワードでしょう。テモテの手紙第一6章では、「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(6節)と書かれています。
 イエス・キリストを信じ、救いを得ましょう。どのような富も必ず廃れ、永遠のものではないからです。
 しかし、イエスさまに従うなら、いつまでも続く、永遠のいのちと報いを与えてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年12月4日号(第913号)より転載—

2016年11月26日土曜日

ゲツセマネ
 イスラエルのオリーブ山の麓に、ゲツセマネという園があります。正面には黄金門を頂いて、いにしえから格好の祈りの場として用いられました。イエスさまもまたこの場所でお弟子たちとともに会合を重ねました。
 十字架につけられる前夜も、イエスさまはこのゲツセマネに来られました。誘惑に陥らないように祈っていなさい、と弟子たちに言い、ご自分は少し離れた所でひざまずいてこう祈られました。
 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイの福音書2639節)
 この杯とは、十字架の死を指します。いよいよイエスさまがこの世に来られた最大の理由であり目的である十字架の死、罪の贖いがクライマックスを迎えようとしています。イエスは苦しみ悶えていよいよ切に祈り、汗が血のしずくのように地に落ちました。
 イエスさまは、私たちと同じ肉のからだでこの十字架の苦しみを味わわれました。神の子としての特権を用いることができるにもかかわらず、イエスさまはそうはされませんでした。ほふられる子羊のように、肉なるご自分を差し出されたのです。
 父なる神さまのみこころが、十字架による贖いにあることをイエスさまはご存じでした。しかし、イエスさまであっても祈りがなければ乗り越えられませんでした。できるなら過ぎ去らせてください、そうイエスさまは祈られました。けれども、最後には私の願うようにではなく、みこころをなさってくださいと祈ったのです。
 ゲツセマネの祈りは、祈りの神髄です。神さまのみわざは、このような祈りと共にあるのです。(イスラエル北野)

み声新聞2016年11月27日号(第912号)より転載—

2016年11月21日月曜日

悔いる必要はありません

 悔いというものは人をネガティブにさせる厄介な感情です。
 先日私は、愛用のせっけんを取ろうとして、誤ってトイレの中に落としてしまいました。アハバの死海の泥が配合されているせっけんで、数年前現地で買いました。日本では手に入れにくいもので、しかも最後の1個です。あれ~っという感じでした。
 こんな時、心の隙間に失望、落胆が生じます。しかし、幸いなことに私たちは「すべての事を感謝しなさい」(テサロニケ人への第一5章18節)という聖書のことばを知っています。
 かれこれ20年、良い事があっても悪い事があっても全ての事を「感謝します」と語り続け、いよいよ頭で理解するより先にその一声が口をついてくるようになりました。その成長を神さまに感謝します。
 また、故事成語の一つに「覆水盆に返らず」というものがあります。器がひっくり返ってこぼれた水はもう元通りにはならない、といった意味です。元通りにならない、だから底なしに悔い続けるのです。
 しかし、ローマ人の手紙8章28節には次のように書かれています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 これは神さまの約束です。どんな問題があっても、全能なる父なる神はそれを益と変えてくださいます。神さまは私たちに許される問題の背後に、ご自身の素晴らしい祝福を用意しておられるのです。その事を信じられますか?
 ぜひ、信じてください。すべては益に変えられます。私たちの喜びは尽きることがありません。(イスラエル北野)
み声新聞2016年11月20日号(第911号)より転載—

2016年11月19日土曜日

天の国籍
 今、ちまたでは、蓮舫氏の二重国籍問題が取り沙汰されています。国籍の問題がここに来てにわかに脚光を浴びています。しかしこれは昨日や今日起こった問題ではなく、日本においても国籍を選ぶという問題は昔からありました。これからさらに、増えるでしょう。
 というのも、一つには時代の変化が来ているからです。私は北海道のA市に住んでいます。大都市ではなく中都市くらいの人口で都から離れています。にもかかわらず役所に行けばインドの格好をした方が数人いて流ちょうな日本語で話しているのを見、ホテルや介護の職に安い労働力として外国の方が用いられています。これは一世代前には考えられなかった光景であり、この延長線上にやがては、日本国籍を求めて永住する方も出てくるでしょう。しかし、移民受け入れの問題を含めて国籍の問題は一筋縄ではいかない問題です。それは民族の問題だからです。
 その中で、韓国籍と日本国籍の間でどちらを選ぶかという岐路に立たされたある韓国人クリスチャンの方の体験談を読みました。どちらに、よりアイデンティファイ(自己同一化)できるかという問題になりますが、どちらとも答えは出なかったと彼は語ります。これはもっともな事です。なぜなら彼はクリスチャンなのです。世から贖われた神さまの子です。彼の帰属は神さまにあります。世の国ではなく神さまの国が彼の国でありまた、国籍であるのです。
 さらに、聖書にもピリピ人の手紙3章20節に「私たちの国籍は天にあります」と書かれています。彼の目は開かれました。何人であろうが、キリストにあっては私たちは天国人です。民族の壁も打ち破る天の国籍こそ私たちが帰るべき故郷を示しています。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年11月13日号(第910号)より転載—

2016年11月7日月曜日

ただ信ぜよ
 皆さんが世界の全員を等しく救いに導くとしたなら、いったいどんな手段を講じますか。また、神はどうされたでしょうか。
 コリント人への手紙第一1章で、パウロは次のように語っています。「事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです」(21節)
 宣教のことばの愚かしさを通して救う、というのが神さまの方法です。
 以前、Aさんというご婦人に伝道したところ、彼女は「うふふ」と笑いました。取り付く島がない様子で、処女が身ごもるなんてあり得ない、聖書は1ページ目から私は駄目よ、と門前払いでした。
 知恵によって信じようとしたAさんは、信じることができませんでした。愚かに思えたからです。しかし、これこそが神の知恵なのです。神はあえてつまずきを置き、また愚かさをまとい、肉の力によらないご自身への信仰を通して、人々が信じて救われるように福音を下さいました。
 多くの宗教が、勤行苦行など賢そうな事を行っています。しかし、それはその人を救うことができません。救いはイエスにあるからです。
 「ただ信ぜよ」。これが先人たちから聞いた言葉です。誰であれ、イエス・キリストを救い主として心に信じ、口で告白する者は皆救われます。お仏壇もお勤めも、その人を救うことはできません。しかし、信じてイエスさまを心にお迎えするなら、あなたは救われます。
 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(同18節)
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年11月6日号(第909号)より転載—

2016年10月30日日曜日


 数年前、脳波を検査した時、事前の説明がないまま、頭に電極を付け真っ暗な防音室に一人置

かれて、パニックになりました。大声で叫んでも、私の声は防音室なので届かない、そう思うと余計に

緊張してがむしゃらにガラスをたたき続けました。途中で気付いてもらえましたが、それ以降、何も見え

ない暗やみや密室は大の苦手になりました。
 当たり前のことですが、光がないところはやみと言い、そこでは本を読むこともできませんし、人の顔も

姿も見えません。慣れ親しんだ家具にさえつまずきます。しかし、一筋の光が差し込むともう全ての事

が白日のもとに明らかにされます。光って偉大だと、素朴に思います。
 ヨハネの福音書1章5節には「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と書か

れています。
 やみは、暗いのです。やみは見えなくします。足元も先も見えず、右も左も分かりません。これがイエ

スさまを知らない私の、ありのままの心の状態です。他方、光とはイエスさまのことを言っています。まこ

との光であるイエスさまを心にお迎えするのは、暗やみの中に光が置かれたということで、たちまちにして

光はやみを退けます。光はやみを消しますが、やみは光を消すことができません。そこにあるのは光の

圧倒的な勝利です。
 イエス・キリストを心にお迎え致しましょう。キリストは光であって、その光は私たちの心の暗やみを照ら

します。光が差し込んで初めて私たちは自分のことが見えるようになり、心のお掃除もできるようにもな

るのです。あなたもまた、光を求め、光に照らされて歩みましょう。主はあなたをつまずくことなく守ってく

ださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年10月30日号(第908号)より転載—

2016年10月23日日曜日

よみがえったラザロ
 ヨハネの福音書11章には、ラザロのよみがえりについて書かれています。その姉妹、マルタとマリヤはイエスに使いをやって言いました。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(3節)
 イエスは、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神がそれによって栄光を受けるためです」(4節)と語られました。しかし彼女たちには、まだこのことばの意味が理解できませんでした。
 ご自分のなすことを知っておられたイエスは、なお二日とどまり、ラザロが墓に入れられて腐敗するころ墓に着きました。墓に立てかけてある石を取りのけなさいと語ったところ、マルタは、「もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」。と言いました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(40節)とイエスは言いました。主のみこころはいやしばかりではなく、さらに優れたよみがえりにあったのです。ラザロはよみがえり、神は栄光を現されました。
 私には、55歳の若さで肝臓がんによって天に帰った父がいます。神さまは、父の病を通してもご栄光を現してくださいました。愚痴を言うことなく感謝し、最後まで決して諦めなかった父の姿は、多くの人の心を動かしました。父は、ラザロのように直ちによみがえることこそありませんでしたが、やがてラッパの音が響く復活の日に、御霊のからだを頂くことを私は信じています。父だけでなく、キリストの救いにあずかった全ての聖徒は復活し、永遠に生きる者となります。
 死は、復活の勝利にのまれました。忍耐を持ってその日を待ちましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年10月23日号(第907号)より転載—

2016年10月18日火曜日

 
 病人の心というものは、往々にして屈折してしまうものです。青年期に私は病気で半年ほど入院したことがあります。それはつらかったです。体の具合もさることながら、私の心は、病を許された神さまのお心が知りたいと求めるのですが、神は沈黙を守られるのです。
 とはいえ、私は恵まれている病人でした。見舞いに来てくれる人がいたり、教会によるとりなしの祈りがあり、ありがたいことでした。しかし、それにもかかわらず私は心の屈折をどうすることもできませんでした。その結果、何名かの方々の言葉は、上から目線で、あたかも私が罪を犯しているからこの災いが起こるのだと責められているかのように、感じてしまいました。
 聖書にヨブ記という巻があります。ヨブは義人でした。サタンは「ヨブが義人なのは、神さま、あなたが守っているからです。」と言い、ヨブを打つことの許可をもらいました。こうしてサタンはヨブの財や家族を打ちました。しかし、ヨブは愚痴を言わず「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1章21節)と語り、罪を犯すようなことはありませんでした。
 するとサタンは、命に関わることならヨブはあなたをのろいましょう、と言い、サタンは足の裏から頭の頂きまで悪性の腫瘍でヨブを打ちました。その痛みは余りにも大きく、慰めに来た友人は7日7夜絶句しました。
 ヨブに許された病の試練は大変なものでした。しかし、やがて終わる時が来ます。ヨブは、試練を通してさらに神を知る者となり、また主は、2倍の祝福をもってヨブに報われました。
 私たちの人生にもいろいろな試練が許されます。神さまに信頼しましょう。神さまはすべてを祝福に変えられます。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年10月16日号(第906号)より転載—

2016年10月11日火曜日

いやし
 今までに無かったことが、最近立て続けに起こっています。
 それは、いやしのみわざです。先日新しく聖会に来られたご婦人がイエスさまを救い主と信じたところ、救いばかりか長年の足の痛みまでがうそのように消えてしまいました。その後ご自宅を訪問したところ、ご主人もすんなりと福音を信じました。そして長年病んだ手の痛みがいやされるに至っては、皆びっくり。大きな喜びが私たちの内に湧き起こりました。
 さらに、犬の散歩で教会の横に来ていた近所のお姉さんは、足を痛めていました。お許しを得て足を祈ると、神さまが豊かに働いてくださいました。「本当だ。本当に治ったわ!」と驚きの声を上げながら帰って行かれました。マルコの福音書16章に、「病人に手を置けば病人はいやされます」(18節)と書かれています。それを信じその通り手を置いたにすぎません。しかし踏み出してみるといやしが起こりました。聖書のことばは真実です。
 さて、キリスト教のいやしの原点は、イエス・キリストにあります。イザヤ書53章5節に、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と書かれています。彼とは、イエスさまです。
  イエスさまは、死に定められた私たちを救い贖うため、時至って世に来られました。そして、病や死に苦しむ私たちの、身代わりとなって十字架で死なれました。そのみ苦しみこそがいやしの基盤だと書いてあるのです。神さまのお心は、私たちが救われ、またですこやかでいることにあります。ですから私たちは求めるに熱心でありましょう。出エジプト記1526節で神はこう語っておられます。「わたしは主、あなたをいやすものである」。(イスラエル北野)

み声新聞2016年10月9日号(第905号)より転載—
ダビデとゴリアテ
 サムエル記第一17章に、ダビデとゴリアテの戦いの話が記されています。
 ぺリシテ人ゴリアテは大男で職業戦士です。自分と1対1で戦う者を出せとイスラエルの戦陣をなぶり、恐れさせていました。
少年ダビデはこれを聞き、激高し、「この戦いは主の戦いだ、主はお前たちをわれわれの手に渡される」と語り、ゴリアテに立ち
向かいます。
 ダビデは羊飼いです。羊の番をしている時、獅子や熊が来て群れの羊を取っていくと、ダビデはその後を追ってそれを殺し、そ
の口から羊を救い出しました。だから「神はあのぺリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」とダビデは言いました。
 イスラエルの王サウルは、これを聞いてダビデに自分のよろいを着せます。しかし、ダビデは断り、川から選んだ、五つの滑らか
な石だけを用意して大男ゴリアテに立ち向かいました。
 ダビデが石を取り、石投げでそれを放った所、石はゴリアテの額に食い込み、たった一つの石でダビデはゴリアテに勝利しました

 ダビデは羊飼いです。戦士としての教育を受けていたわけではありません。しかし、神が置かれた場での一つ一つの小さな積
み上げが、知らない間に彼を戦士として立て上げていたのです。
 羊飼いという小さな事に忠実であったからこそ、神さまは、戦士、後には王という大きなものを彼に任せるに至りました。一見
、将来に関係のあるものと思えなくても、与えられた日々の訓練が、今ゴリアテを倒すための土台となっていたのです。
 一つ一つの事に意味があり、神さまのご計画があります。今置かれている小さな事にまずは忠実でありましょう。神さまはあな
たを育て上げてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年10月2日号(第904号)より転載—

2016年9月25日日曜日

 

 1世代前にはあまり見当たらなくて、今躍進している産業といえば、携帯ショップに、学習塾、それから、高齢者に向けたグループホームなどが挙げられます。不況にもかかわらず、新しいビルができたと思うと学習塾であったり、老健施設だったりするのです。
 以前は、老後は家で(嫁が)見ることが当たり前でした。しかし、時代は変わっていきます。今は、子に面倒を掛けるわけにはいかないと、こうした施設に入り、そこをついのすみかとする人は少なくありません。
 何でも戦後を支えてきた今のお年寄りが、経済的には一番裕福だと言います。それをビジネスチャンスと見た企業は、セレモニーホールを建て、お葬式費用の積み立てをしたり、葬式の生前契約をしたり人を集めています。老後に備えるのは本当に大変な事になりました。何をするにも全てにお金が掛かります。
 こういう訳で、お金が稼げなくなっても困らないように元気なうちに稼がなければとあくせくするのですが、本当に必要なことを見落としてはいないでしょうか。老後の備え以上に大切なのは、むしろ死後の備えなのです。
 皆さんは死んだ後、どこへ行くかその道をご存じですか。私たちはイエス・キリストを信じてパラダイス(天国)へ行くか、福音を拒みゲヘナ(地獄)へ行くか、二つに一つです。
 イエスさまは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(ヨハネの福音書112526節)と語られました。イエス・キリストを信じること、これが死に対して唯一必要な備えであるのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月25日号(第903号)より転載—

2016年9月19日月曜日

ザアカイ
 イエスさまは、世に捨てられた人々を選んでことさらに愛を示してくださいました。その中の一人にザアカイがいます(ルカの福音書19章)。
 聖書はザアカイのことを「取税人のかしらで、金持ちであった」と書き記しています。おそらく不正な取り立てもやっていたのでしょう。ザアカイは人々に嫌われていました。
 イエスさまが町に来られた時、ザアカイはイエスさまがどんな方か見ようとしました。しかし、背の低いザアカイは群衆のため見えません。それで、ザアカイは前方に走り出て、いちじく桑の木に登り、そこからイエスさまを見ました。ちょうどイエスさまがそこを通るところで、こう言いました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。ザアカイは、大喜びでイエスさまを迎えました。
 人生、結局はお金だと結論付ける人は少なくありません。お金がありさえすれば何の不自由もなく、何でも手に入れられる。そう信じていたからこそザアカイもお金に走ったのでしょう。
 しかし、お金があってもザアカイの心には隙間がありました。お金では買えないものが世にはあるのだと知り始めていたのです。それは、イエスさまが与えてくださるたましいの救いです。
 宴もたけなわになったころ、ザアカイは、イエスに言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」
 もはやザアカイは、以前の金を愛した男ではなくなりました。彼のたましいはイエスさまによって憩いに帰りました。あなたもまた、イエスさまに帰りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月18日号(第902号)より転載—

2016年9月13日火曜日

 
 幼いころ、『泣いた赤鬼』という絵本を読みました。幼心の私にも、非常に強く感じるものがあった記憶があり
ます。
 主人公の赤鬼は、人間と友達になりたくて、家の前に立て札を立て遊びに来てくれるよう誘いました。しかし
人間は、取って食うつもりだろうと警戒して誰も来ません。赤鬼には青鬼という親友がいて、彼は、自分がふも
との村で暴れるから、自分をやっつけろ、そうすれば、人間は安心して仲良くしてくれるだろう、と言いました。
 その読みは当たりました。赤鬼は毎日人間と楽しく過ごすようになりました。しかし、あれから青鬼に会ってい
ません。どうしたのだろうと家を訪ねたところ、青鬼の姿は既に無く、家の前には自分と付き合うと君も悪い鬼だ
と思われるから自分は旅に出るという手紙が残されていました。
 この話は幼心にも、やるせない話でした。親友を失ったということと、人間と仲良くすることをてんびんにかけて
みると、赤鬼にはどちらが大切だったのでしょうか。親友でしょう。しかし、彼は気付くには遅すぎました。
 聖書に箴言があります。その一つにこう書かれています。「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する
者は守られる」(2925節)
 赤鬼が落ちたわなは、いわば、人を恐れたことにあるといえます。人に好いてもらいたいという思いが高じると、
自然と人の顔色をうかがう者となり、ついには捕らわれ人となってしまいます。その結果、一番大切なものを失っ
た、これが赤鬼ではなかったかと思います。
 人を愛することと恐れることは違います。恐れることの結末はわなに終わります。そして、一番大切なものを失
います。神に信頼し、真に人を愛する道を行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月11日号(第901号)より転載—

2016年9月5日月曜日

しつこさ

 親愛なるA牧師は、よく説教でこのようなことを言います。「皆さん、人間関係においてしつこいことは嫌われます。しかし、神との関係ではしつこいことが神の手を動かしますよ」というのです。
 まさしく自分に語られていると思いました。常日ごろ、私は、自分の手に負えない事があると、教えてくれる人を探して粘ります。相手が根負けして、作業の手を止めて教えてくれるまで粘るところがあり、家族には不評です。他方、神さまとの関係においてはなぜかそんな粘りが出てきません。求める前にあっさりと引き下がってしまいます。これでは、神の御手を見ることができません。
 ルカの福音書11章でイエスさまは、興味深いたとえをお話になりました。
 友人が旅の道中、自分の家へ寄ったのですが、出してやるものがなくて、真夜中でしたが友だちにパン3個を貸してくれと頼みました。ところがその友だちは、家の中からこう答えます。「面倒をかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない」。
 イエスさまは、「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」(58節)と語られました。さらに、18章にも同様の記述があります。
 この事例から学ぶことは、信仰は、しつこく求め続ける事だということです。神さまの御心を無視することではありませんが、確かに、しつこく求めることを神さまは語っておられます。そして求める者は受けるのです。共にその信仰に立ち、神さまに求めていきましょう。  (イスラエル北野)

み声新聞2016年9月4日号(第900号)より転載—

2016年8月31日水曜日

ねたみ
 神はモーセを通して、イスラエルに「十戒」を与えられました。十番目の戒めは、「隣人の物を欲しがってはならない」というものです。隣の芝生は青く見えると言います。自分が持っているものより他人の持っているもの方が勝っているように見えるのです。そうなれば、そこにねたみが生じます。
 私は独身のころ、友人の結婚を聞くたびに落ち込みました。友人を祝福しながらも、心の深い所では、自分に持っていない祝福を頂いている友人をねたましく思いました。その思いからは、なかなか自由になれませんでした。
 創世記4章に、カインとアベルの兄弟のことが書かれています。彼らはエバの子で、カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。
 時期が来て、それぞれ主へのささげものを持って来たところ、神はアベルのささげものに目を留められました。彼は羊の初子の中から最良のものを、それも自分自身で持って来たのです。しかし、カインとそのささげものには、目を留められませんでした。カインはこれにひどく怒り、弟のアベルを野に誘い、彼を殺してしまいます。カインは、神に祝されている弟を強くねたんだのです。そして殺しました。
 ねたみの行き着く先は殺人です。イエスさまを十字架につけたのもまたねたみでした。祭司長、律法学者たちは、イエスさまが民衆に人気があるのをねたんだのです。そして、殺しました。ねたみは人をも殺す危険な罪です。
 隣人の芝生は青く見えやすいものです。そんな時は、自分の芝生の祝福を求め、神さまに祈るのです。神さまは喜んであなたにも最善の祝福を与えてくださいます。その時あなたは、既に多くの祝福を受けていたことにもまた気付くでしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年8月28日号(第899号)より転載—

2016年8月22日月曜日

慰め
 先日、病院へ行ったところ、隣が新生児科で、生まれたばかりの赤ちゃんがいました。お母さんの腕の中であくびをしたり手を動かしたり、そのしぐさのかわいいこと。赤ちゃんが欲しくて盗んだ人がいると聞きますが、その気持ち、分かるような思いでした。
 しかし、われに返り目の前の赤ちゃんを見ると、その子は難病なのです。誕生とともに病との闘いに直面している赤ちゃんと、お母さんの姿には胸を打たれました。
 こんな時、どうお慰めすればいいか言葉に困ります。しかし、少しはその心を分かり合えるかもしれません。というのは私の赤ちゃんは、誕生を目前に天に帰っていったからです。そのあまりの悲しみに、私は生きる意欲を失いました。
 子を亡くすことはつらいことでした。しかし、神はこれを益に変えてくださいました。難病と闘うお母さんを慰める慰めの言葉が湧き上がってくるのです。
 コリント人への手紙第二1章4節に「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」と書かれています。これは真実です。また同6節には「もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです」「その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです」と書かれています。
 私たちの受ける苦しみは、必ず他の人を慰め、立ち上がらせる力となるのです。私たちの人生に無駄なものはありません。神さまに信頼し、従っていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年8月21日号(第898号)より転載—

2016年8月18日木曜日


救い
 このところそれほど聞かれなくなりましたが、教会には悪霊追い出しというミニストリーがあります。福音書を読むと、イエスさまは病のいやしと同じくらい悪霊を追い出されたことが書かれています。
 悪霊追い出しにはたちどころに解放されるものもあれば、頑固に居座る悪霊もいます。悪霊は必ずしも当人に災いをもたらすだけでなく、病をいやしたり、人の益になると思えることさえ行ったりします。しかし、どれだけ益をもたらしていても、悪霊は、人を「救う」ことだけは決してできません。ご利益をもたらすことができても、救いはキリスト・イエス以外にはありません。
 使徒の働き412節にはっきりと次のように書かれています。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」
 それでは救いとは何でしょう。イエスキリストは、私の罪を贖い、十字架で死なれたこと、そして3日目に復活を遂げられたこと、これらを心に信じ、口で告白するなら私たちは救われます。私たちを告発するどんなさばきも無効とされ、私たちは神の子としての身分を受け、永遠のいのちを頂くのです。この権威をお持ちなのは、父なる神さまおひとりです
 命ある限りなさなければならないのは、この福音に応答することです。私たちのこの地上のひとときは、永遠という時代に備える意味を持っています。罪があるなら、天国には行けません。それ故、私たちを天に迎え入れるために、イエスさまは十字架で死んでくださったのです。
 イエスさまこそ唯一の救いです。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年8月14日号(第897号)より転載—

2016年8月9日火曜日

虹の話
 私たちの教会のロゴは、赤い十字架と虹でできています。赤い十字架は、イエスさまが流された血潮とその贖いを想起させ、虹はその約束を確かにさせるものです。
 虹の由来は、創世記のノアの時代にさかのぼります。ご存じのようにノアは、箱舟を作ったことで有名です。悪い時代をこれ以上見過ごすことができなくて、神はさばきをなさいました。大水によって地上の肉なるもの全てが死に絶え、ただ、箱舟の中にいるノアとその家族、動物たちだけがこの難(さばき)を逃れました。
 ここに至って神は、ノアと契約を立てました。「…すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。(中略)わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる」(創世記9章11節~13節)虹は契約のしるしなのです。
 ところで、私の夫はよく虹を見つけます。今の家に来てから少なくとも30回は彩雲や虹を見ていると思います。友人は、ここ10年虹を見ていないと言いますから、特別な神さまの御手があるのでしょう。
 ペテロの手紙第二3章に「当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ」ている(6、7節)と書かれています。私たちが住むこの天地は、水では滅びませんが、今度は火をもってさばきが下されることが予告されています。
 そういうわけで、今の時代を見分けましょう。今は終わりの時代であり、私たちは滅びの手前にいます。悔い改めて神に立ち返り、主イエスキリストが下さる救いをあなたのものとしてください。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年8月7日号(第896号)より転載—

2016年8月1日月曜日

出エジプト
 映画「十戒」の一大スペクタクルといえば、何といっても紅海が左右に分かれ両側に滝のようにそそり立つシーンでしょう。民は海底の道を通っていきました。
 ここに至るまでのいきさつをご存じでしょうか。神はモーセを立て、エジプトの奴隷であったイスラエルを出エジプトさせます。主は民とともにおり、昼は雲の柱が夜は火の柱が、民の歩む道を示しました。
 民は荒野を行きました。それから、海辺へと導かれて宿営したところ、イスラエルを去らせた王パロは後悔してかたくなに追い掛けてきました。そして追い迫ったのです。絶体絶命でした。
 先には海、後ろにはエジプト軍という危機にあって、モーセが叫ぶと神は前進せよと語られました。モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海は二つに割れました。イスラエルは海の真中の道を行きました。イスラエルが渡り終えると海は元のようになり、後に続いたエジプト軍は海にのまれて死に絶えてしまいました。神は栄光を現されました。
 この一連の出来事から学ぶところは多いです。主に従ったにもかかわらず、かえって悪くなることがあります。多くの人々はそこでつぶやきます。中には従うことをやめてしまう人もいます。けれども、この患難は後に大きな奇跡が現れるためのものであり、その解決に至るまで神は計画をお持ちなのです。
 神は奇跡を行われました。脱出の道がない海辺にあえて民を集結させ「前進」と語られました。そして、その結果は、紅海が割れて道を備えるという奇跡であったのです。
 もう駄目だという時から奇跡は始まります。主に信頼しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年7月31日号(第895号)より転載—

2016年7月27日水曜日

マルタな私
 聖書を読んでいると、自分と似たようなキャラクターがいるものです。私にとってその一人は、マリヤの姉のマルタです。イエスさまが来られた時、妹のマリヤはイエスさまの語ることばに耳を傾けじっとしていました。マルタは、といえばおもてなしのためあれこれ忙しく立ち働いていました。二人は好対照です。
 ところが、忙しさのためにマルタはついに切れてしまい、イエスさまに妹が自分を手伝うよう言ってください、と願い出ました。イエスさまは「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」(ルカの福音書104142節)とおっしゃったのです。イエスさまが望まれたのは、主のことばを聞くことでした。
 マルタは、イエスさまに、自分の持っている全てを注いでこうしてあげたい、ああしてあげたい、その一心で動き、これがマルタの愛の表現でした。イエスさまは、マルタにどうしても必要なことは一つだと教える必要がありました。
 その一つとは、神のことばを聞くということです。サムエル記第一1522節に次のように書かれています。「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」
 求められていることは、神の御声を聞き、そして従うことです。私たちは今、自分を中心として歩む人生から、神に聞き従う人生へと向きを変えましょう。それは、二つと無い祝福の道です。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月24日号(第894号)より転載—

2016年7月19日火曜日

父の愛
 ルカの福音書15章に「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる箇所があります。
 放蕩息子は、父が存命中にもかかわらず、身代を分けるよう求め、それらをまとめて、遠い国に旅立って行きます。そこで放蕩の限りを尽くし、ついには食うにも困るようになり、父の所へ向かいました。雇い人の1人にしてもらおうと思ったのです。しかし、父は立ち上がって駆け寄り、彼に愛を示し、再び子として彼を受け取りました。
 神さまというお方は、人が罪を犯しても、悔い改め、立ち直ろうとするなら、喜んで赦し、父の愛
祝福をもって迎えてくださるお方なのです。
 ところで、先ほどの放蕩息子には兄がいました。兄は出来が良く、忠実に父に仕えていました。しかし、父が放蕩の限りを尽くした弟のために祝宴を設けたと知って彼は「自分には友人と楽しめと子ヤギ1匹下さったこともない」と憤りをあらわにします。
 父は「私のものは全部おまえのものだ」と言ってくださいました。兄は子ヤギだろうが、何だろうが、自分の物だからほしいままにできたのです。
 なぜ兄はそのことに気付かなかったのでしょうか。それは、父(ここででは神さまのたとえ)の愛やあわれみをよく知らなかったからです。従順な者には従順な者としての報いが備えられているのです。
 この聖書の箇所は、罪人にあわれみ深い神さまと、従順な者に恵み深い神さまの両面が描かれています。そして、どちらも神が愛のお方であることを表しています。
 罪を犯さない人など1人もいません。罪を犯したなら悔い改めれば赦してくださいます。どの道にいようが私たちは神さまの愛に取り囲まれているのです。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月17日号(第893号)より転載—

2016年7月12日火曜日

主の守り
 先日、とても恐ろしい思いをしました。揚げ物をするため、鍋に油を注いで火にかけ温度が上がるのを待っていたところ、古新聞の記事が面白くて、すっかりそんなことを忘れてしまいました。
 何をしている、という夫の声にわれに返ったところ、油が何とぼこぼこと沸騰しています。白い煙を出し、しかも部屋中にそれが充満しています。
 すぐさま夫はふたを取り、てんぷら鍋を押さえて発火するのを防ぎました。火災報知器が作動し、火事です、というアナウンスが繰り返されました。あと1分遅かったら、引火して大事故に遭うところだったと、夫は言いました。それを聞いて私は青ざめました。あわや、というところで神さまが災害から守ってくださったのです。私は危機から救われました。
 詩篇127篇にはこんなことばがあります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい」(1節)これは、結局は神さまの恵みが事を成すのであって、われわれの力などではない、ということを言っていると私は読んでいます。
 全ての事柄の下には神の手があります。神の手が事を成すのです。人の頑張りではなく、全能者のみこころが、事を成し遂げるのです。全能者は私たちを愛し最善をなされます。
 人は努力しますが、それでもなお足りないということは、まま直面する人生の問題です。人間のできることには限界があります。しかし、神にあっては不可能なことは一つもないのです。神さまは配慮に富んだお方です。どうかこの神をあなたの救い主として心にお迎えください。主はあなたに関わる全てのことを益としてくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年7月10日号(第892号)より転載—

2016年7月4日月曜日

帰って行った取り立て屋
 かれこれ20年になります。牧師である夫がある方に招かれ、お宅に伺いました。その方は事業に失敗し、自己破産されました。法の定める手続きに沿って行われたものであって、返済の義務はもうありません。しかし、それでも諦めないでやって来る取り立て屋がいました。
 やっと与えられた再就職先をかぎつけて、取り立て屋は、会社に借金をばらして解雇させてやると脅しをかけてきました。弁護士さんからは、決してお金を支払ってはなりません、と強く言い渡されていました。
 そして、その日取り立て屋が来るというので牧師を呼んだのです。しかし、何ができるわけではありません。ただ、私たちがしたことは感謝です。テサロニケ人への手紙第二5章18節に、「すべての事について、感謝しなさい」と書かれています。それに従って賛美し、一つ一つ感謝して主に委ね、帰路に就きました。
 夫が帰宅するより早く、私は一本の電話を受けました。その方からでした。牧師が帰った後、すぐに取り立て屋が来たそうです。そして不思議なことを言うのです。「もう諦めた。もう2度とここには来ない」。そう言って取り立て屋は帰って行きました。八方ふさがりで解決がないと思われたにもかかわらず奇跡が起こりました。私たちは大喜びで神をたたえました。
 神さまはよく、「この戦いは神の戦いだ」と語られます。それが神の戦いであるなら私たちは決して負けることがありません。恐れるお方はただ一人、父なる神さまです。このことを知っているならあなたは人生の成功者です。神さまの御手は動きます。感謝を堅くし、神の栄光の現れを求めてまいりましょう。主はいつも、弱い人、貧しい人の味方です。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年7月3日号(第891号)より転載—

2016年6月26日日曜日

 
へブル人への手紙11章に次のような一文があります。「彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです」(26節)というものです。
 エジプトの宝にまさる富という表現からすると、彼とはモーセでしょう。モーセはパロの娘の子として育ち、エリート教育を受けていました。帝王学です。エジプトはモーセの前に大きく開かれていました。
 にもかかわらず、モーセは成人した時、「パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました」(2425節)と言います。モーセは一体何を見たのでしょうか。それは、天の報いです。この世での収支を償ってなお余りある天の報いから彼は決して目を離しませんでした。
 日本での最初の殉教者となった日本二十六聖人も同様です。子どもを含めて26名が長崎の西坂において磔刑に処せられました。子どもたちはことに愛らしく、何とか助け出そうとされましたが、幼いながらも彼らの心は決まっていました。彼らもまた、天の報いから目を離しませんでした。
 たとえ世の命を失うことがあっても、イエスを信じる私たちには永遠のいのちがあります。命すら惜しまずに主に仕えることの報いを彼らは知っていました。次の世にあってもこの報いは付いていきます。
 私たちがどう生きるかは、一人一人に委ねられています。しかし、忘れてならないのは天の報いです。永遠に至るまことのいのちこそ真に価値あるものです。神さまはこれを下さるのです。天国にはあなたの席があります。神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月26日号(第890号)より転載—

2016年6月19日日曜日

 
 黙示録3章に、ラオデキヤにある教会に宛てた神の神さまの私信があります。そこには「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」(15節)と書かれています。
 クリスチャンになりたてのころ、私の内側は熱く燃えていました。問題の解決を求め熱心に祈り、求める手を下ろしませんでした。ところが、これといった問題も無くなると、その燃えるような神さまへの求めがなくなってしまうのです。これでいいや、と知らぬ間に安逸をむさぼっています。
 神さまが、約束の地カナンにイスラエルを導いてくださった時、最後まで聞き従ったのはヨシュアとカレブ2人だけでした。戦いの時にはイスラエルは日々神さまにすがりしっかりとつながっていましたが、カナンに入ると生活が一変したのです。
 カナンに入ると今までイスラエルを荒野で養った神のパン(マナ)が降らなくなり、民はカナンの地でとれたものを食べるようになりました。つまり、生活の安定を得たのです。民は、戦うことより、そこそこの生活で落ち着く方を選びました。
 神のみこころを行うという使命を生涯全うするというよりも、もうこれ以上苦労したくない、このままでいい、そっとしてくれ、これが本音でしょうか。信仰生活に妥協が入ってきました。
 歴代誌第二16章9節には「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」と書かれています。神さまの心をわが心とし、熱心に主の召しを全うする人生を求めていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年6月19日号(第889号)より転載—

2016年6月15日水曜日

富める若人
 マルコによる福音書1017節以降に、一人の青年が登場します。彼はイエスさまに走り寄って、御前にひざまずいて尋ねました。「先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか」
 イエスさまは「戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え』」とお答えになりました。
 青年は、「先生。私はそのようなことはみな、小さい時から守っております」と言いました。
 イエスさまは彼を見つめ、慈しんで言われました。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」
 すると青年は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去って行きました。聖書は「この人は多くの財産を持っていたからである」と記しています。
 財産が彼の献身の道、天に宝を積む道を阻みました。自分にとって良きものであるはずの財産がここでは害になっています。ソロモンは、伝道者の書で「金銭を愛するものは金銭に満足しない。富を愛するものは収益に満足しない。これもまた、むなしい」(5章10節)と語っています。
 生活してなお余りあるお金を持つことは確かに祝福です。決して悪いことではありません。しかし、それを正しく用いるかどうか試されます。富は主から与えられたものです。ですから、神の国とその義のために、そして神の栄光が現されるように用い、共に天に宝を積んで行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月12日号(第888号)より転載—

2016年6月7日火曜日

罪の赦し
 イエスさまは私たちの罪を赦してくださるお方です。イエスさまは、罪を赦す権威を持っています。私たち人間は罪過の中に死んでおり、自分であろうと他人であろうと、罪を赦すことなどとてもできるものではありません。こういう訳で、人の罪を贖うには、罪のないお方が死なれないとならないのです。
 イエスさまは神のひとり子です。何一つ罪のないお方です。私たちを救い贖うために、世に来られ、十字架で死んでくださり、三日目に復活を遂げられました。ここに神は、私たちの贖いを完成されたのです。
 ルカの福音書にはイエスさまが十字架にかけられた時に起こった様相を伝えています。イエスさまは、二人の強盗の真ん中で十字架にかけられました。群衆もその強盗もイエスさまを口汚くののしり、神の子なら自分を救ってみろと激しく糾弾しました。
 ところが、しばらくたつと強盗の一人が回心するのです。「お前は神をも恐れないのか。(中略)われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」(234041節)、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」(42節)
 これに対してイエスさまはこう言います。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイス(天国)にいます」(43節)
 これがイエスさまなのです。私たちを愛しご自分に身を避けてくるものを知っておられます。罪が支配する時代は終わり、今はキリストにより恵みと祝福が私たちのために用意されています。あなたもまたその全ての罪を赦していただけます。神に立ち返りましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年6月5日号(第887号)より転載—

2016年5月30日月曜日

明日の心配
 熊本の大地震からはやひと月がたちました。今なお、活発な地震活動が続いており、復旧のめどが立っていません。夫と私は四年半熊本に住み、牧会のご奉仕をさせていただきました。懇意になった友人知人も多く、この災害は人ごとではありません。
 熊本は河川の氾濫が年に何回かあります。これからは梅雨に入り、二次災害も懸念されます。誰がこの災害を予期することができたでしょう。
 東日本大震災および福島の原発事故が起こった時、実は災害を逃れ熊本や沖縄に移住を決めた方々がいました。熊本なら大丈夫だろうと考えての移住でした。しかし、ここにきて、まさかの震度7の大地震に遭遇したのです。紙面をお借りして被災者の皆さんにお見舞い申し上げます。
 それにしても人の知恵は限界があるものです。災害を避けたはずが想定外の災害に見舞われるなんて、人生は何と測りがたいものでしょう。確かな守りは神から与えられるもので、自分の知恵に聞くより神に聞くことが確かな道だとあらためて思わされました。
 マタイの福音書634節には次のように書かれています。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」
 私たちは、事を案じるということをしがちですが、イエスさまは常にご自身に委ねるよう私たちを導いてくださいます。何が起ころうが、それは神さまが知らないものではありません。主は全てをご存じで最善を与えてくださいます。心配は切りがありません。それ故、決心して心配を手放し、むしろ神に信頼する時としましょう。労苦はその日その日に十分です。あすの心配は無用です。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年5月28日号(第886号)より転載—

2016年5月23日月曜日

弱さは恵み
私の父は、1月1日生まれで本当に稀有な人でした。家は貧しかったのですが、一代で財を築き、成功しました。
 父と気性の似ている私は父の成功を受け継ぐ者として育てられました。幼いころは父の期待に添えられたようです。しかし、自我に目覚め、クリスチャンになってから全ては一変しました。
 イエスさまを信じ、神の子となった私は神の愛にほだされ、ごく自然に献身の道に進みました。すると次の段階がやってきました。予期せぬ病という試練でした。洗礼を前にしながら半年も入院する病気に見舞われたのです。生まれて初めての挫折でした。父はそんなに弱くてどうする、と私を嘆きました。
 以来、弱さは私のコンプレックスになりました。しかし、神の目にはこれこそが祝福であったのです。
 聖書を読むと、パウロが弱さに関して興味深いことを語っています(コリント人への手紙第二12章参照)。パウロは素晴らしい啓示を受けました。それ故、高ぶることのないよう肉体に一つのトゲを与えられました。彼は、これを去らせてくださるよう三度も主に願いました。しかし、それに対して主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(12章9節)と語られたのです。
 弱さは悪いものと考えがちです。しかし、神にあってはそうではありません。主の力は、弱さの内に完全に現れます。それ故パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(同節)と語ったのです。
 弱さは私を変えました。徹底して弱くされることによって、私たちは神の大いなる恵みを知るのです。弱さは祝福です。弱さを感謝しましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2016年5月22日号(第885号)より転載—

2016年5月16日月曜日

天国に行けますか
 先日、ブログを見ていたところ、ある牧師が「老後より死後が重要です」と語ったことが出ていました。本当にその通りだと思いました。
 多くの人が自分の人生の終わりを、老後、また、自分の死まで、と考えています。死後の世界となると知りようがないので、死後を語る宗教はうさんくさいと一蹴されがちです。しかし、人は死んでも損なわれるのは肉にすぎず、霊、たましいは死後も滅びることはありません。
 現にイエスさまは、ルカの福音書12章でこう語っています。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい」(4、5節)からだの死はからだに限る死で、私たちのからだが死んでも、私たちは失せるものではなく、神に対しては生きています。
 世の人生は地上の死で終わります。今ある命はかりそめの命です。この限りある地上の命の時間の中で、何が最も大切かと言えば、神が与えてくださる永遠のいのちを受けること、そして、神にある人生を歩むことです。
 イエス・キリストは約2000年前に世に来られました。病をいやし悪霊を追い出し、最後は十字架で死なれ、三日目に復活されました。それは、私たちを贖い救うためであった、と知るなら、そしてその信仰を告白するなら、あなたは救われます。
 死は等しくわれわれを縛っています。あなたは、死後天国に行く確信がありますか。備えがありますか。イエスさまはあなたの代わりに死んでくださったのです。天国に行けるようあなたもまたイエスの福音を信じ備えましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年5月15日号(第884号)より転載—

2016年5月10日火曜日

ブーメラン
 それは、荻窪にある小さな家から始まりました。女子大生4名の者が主の御手によって集められ、同じ釜の飯を食べ、祈りや聖書研究にいそし
んでいました。
 その当時の私たちの課題は、もっとも自分が大切にしているものを主におささげする、というものでした。格闘の末、私は文学をささげました。フォ
ークソングが大好きで、シンガー・ソングライターに憧れていたMさんはこれをささげました。哲学を専攻していたHさんは、哲学では死んだはずの生
ける神を知り、楽しみであった「カーペンターズ」をささげました。Aさんもまた、あらためて人生を主にささげました。
 マルコの福音書8章34節に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とい
う一文があります。このことばに試され励まされ、四つに組んで格闘しました。
 それから、30年がたちました。
 文学を捨て牧師夫人になった私は、もう物を書くことなどないと思っていましたが、こうして拙文を寄稿させていただいています。ささげたものが戻
ってきたのです。私たちはこれを、ブーメランと呼んでいます。青春時代に精いっぱい遠くに投げたブーメランが30年の年月の中で力強く戻ってきまし
た。
 Mさんは、ささげた音楽の道が祝福され、ゴスペルシンガーになりました。CD3枚がリリースされ多くの名曲を生みました。Hさんは宣教師になり、
地球の反対側のB国に根を張って働いています。そして、Aさんは牧師夫人としてご主人を支えています。みな、あのころささげたものの幾倍の祝
福にあずかっています。
 神に聞き従う時、全ての事は益になり、幾倍もの祝福を受けるのです。主に期待いたしましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2016年5月8日号(第883号)より転載—

2016年5月3日火曜日

神の守り
 かれこれ十数年も昔の話です。小学生の娘と幼稚園児の娘とともに保養施設で休日を楽しんでいたところ、とんでもない事が起きました。
 プール遊びを切り上げて、部屋に戻って来たにもかかわらず、私が妹の面倒を見るから、もう一度プールに行かせて、と長女がせがむのです。子どもたちだけでは不安です。夫もプールに行きました。
 夫が何げなくプールサイドに腰を下ろしていた所、「ポチャン」という小さな音を拾いました。見ると下の子が見当たりません。急いでプールに駆け寄ると、両手を上げたままゆっくりと底へ落ちていくところでした。すぐさま手を取り、引き上げると大声で泣き、生還を果たしました。
 面倒を見る、といったお姉ちゃんは、プールの真ん中に置いてあるボートに乗ろうと夢中でした。もし、子どもたちだけでプールに行かせたら、また夫がプールサイドにいなかったら、「ポチャン」という小さい音が聞こえなかったら、この子は多分亡くなっていたことでしょう。私を憐れんで、神はそのような事のないように特別に守ってくださったのです。感謝し切れないくらい感謝しています。
 詩篇121篇にこう書かれています。「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(1,2節)「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」(4節)「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる」(7節)
 この体験のおかげで、私は、命を守られるのは主だと知りました。当たり前だと受け取っている一つ一つも、神の手によるのです。恵みという他ありません。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年5月1日号(第882号)より転載—

2016年4月25日月曜日

待たされる
 最近娘とともによく祈ります。年ごろですから結婚について祈ることも多いです。娘の祈りを聞いて、ふと私の心は30年前の自分にタイムスリップしました。夢や憧れを抱いていた自分を思い起こし、娘と一緒に、それはもう熱心に祈っています。
 私たちの同労者のNさんも、心血を注いで結婚のために祈っていた人でした。彼の部屋に入ると、壁から「結婚、結婚」という声が聞こえる、と言った人がいました。壁に染み入るまで祈りがささげられていたのです。
 Nさんは、結婚の祈りを祈り切りました。しかし、何も起こりませんでした。待たされ、試されて、人々が忘れてもなお祈りを続け、ついに約束の奥さんがやってきました。成就には時間がかかりました。
 詩篇105篇19節に「彼のことばがその通りになる時まで、主のことばは彼をためした」ということばがあります。彼とはヨセフです。ヨセフは自分が親兄弟より偉大な者となるという夢を見、固くそれを握っていました。しかし、起こってくることは真逆でした。兄たちによって奴隷に売られ、ぬれぎぬを着せられ囚人となり、頼みの綱には忘れられ、状況は悪くなる一方でした。
 しかし、約束の成就の時が来ます。彼は一日にして囚人からエジプトの大臣となり、飢饉の中、全親族を呼び寄せ養いました。ヨセフもまた、待たされた人、と言えるでしょう。
 約束が与えられると、成就の時まで、試され、試され、これでもか、と言わんばかりに待たされることがあります。しかし、忍耐を持って最後まで信仰を持ち続けるなら、必ずその日はやってきます。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバクク書2章4節) (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月24日号(第881号)より転載—

2016年4月15日金曜日

 
世の中には、理不尽なことが山とある、人生の諸先輩の方々が、口をそろえてそう言われます。聖書にもいろいろなケースがあります

が、理不尽ということになれば、ヨブ記のヨブの右に出るものはいないでしょう。
 ヨブは非の打ちどころのない義人でした。にもかかわらず、試練が許されました。一日のうちにヨブは財産の全てと全ての子どもを失

いました。でも、ヨブは愚痴をこぼさず神をあがめました。
 おもしろくないサタンは、いくらヨブでも命を的にしたらきっと神を呪うに違いありませんと、狡猾に神に語り、ヨブの足の裏から頭の頂き

まで、悪性の腫物で打ちました。その苦しみは非常なもので、友人がヨブと見分けがつかないほどのものでした。それでもヨブは罪を犯

すようなことを口にしませんでした。
 3章以降になると、ヨブを見舞いに来た3名の友人とヨブとのやりとりが長く記されています。
 友人たちは、ヨブは罪を犯したのだからこんな病が許されるのだ、と決めてかかっています。無理もないでしょう。目で見えるところでは

、確かにヨブは、神にさばかれ、罪を罰せられたかのような状態にあったからです。
 しかし、38章になると神は沈黙を破ってご自身を明らかにされます。そして神は、ヨブが失ったものの2倍を与えられ、以前にましてヨ

ブを祝福されました。理不尽と思える事が許されたとしても、神の正義は変わりませんでした。神はヨブの正しさを覚えておられ、その

正しさに報われました。
 私たちの地上の歩みにはさまざまな事が許されます。一見、理不尽だと思えたとしても、神は義なるお方です。必ず、正しく報いてく

ださいます。それ故つぶやかず、感謝をもって主に従っていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月17日号(第880号)より転載—

2016年4月12日火曜日

「不幸」に思う
 ソロモンの箴言に「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる」(1517節)と書かれています。
 小学生のころ、牧師さんの息子がいました。彼はハンバーグが嫌いだと言っていました。肉を節約し、つなぎのパン粉を大量に入れるので、パンを食べている味しかしなかったからです。彼は「パンバーグ」と呼んでいました。
 私はといえば、幼少のころからあれこれ珍しい物を食べさせてもらい、本当に父には感謝しています。でも、当時は牧師一家が囲むパンバーグに憧れました。そこには何か、特別な祝福があるように感じました。
 皆さんは、今不幸ですか。それとも幸いですか。不幸にはそれなりの理由があります。金銭もまた、その一つです。お金さえあればできたのに、お金が無いばかりにできなかった、と悔しさをにじませる場面は人生に少なくありません。
 また、病気が不幸だと考える人も多いです。世の中には不治の病があります。これもまたつらいものです。そして、孤独です。楽しさやつらさを分かち合える人を持たないこともまた不幸でしょう。
 でも、お金の無いことや、不治の病であること、孤独であることは、必ずしも不幸とは言えません。神さまは愛なるお方だから、どんなつらいことがあっても耐え切れないような試練は置かれません。必ず解決を用意し、脱出の道を備えてくださっています。
 では、本当の不幸とは何でしょう。それは、「神を知らないこと」です。神を知っているなら、共に歩んでくださる方をご存じなら、どのような状況にあろうと、そこに愛があり、いやしがあり、安らぎがあり、解決があります。イエスさまを信じて、勝利を受けましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月10日号(第879号)より転載—

2016年4月4日月曜日

ギデオン
 士師記に、ギデオンという神の器が登場します。イスラエルを虐げていたミデアン人からイスラエルを解放するために立てられました。
 しかし、その戦いに関して神は興味深いことを語られました。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが私に向って誇るといけないから。(中略)恐れ、おののく者はみな帰りなさい」
 すると、民のうちから2万2000人が帰って行き、1万人が残りました。対するミデアン人の軍勢は、13万50
00人です。圧倒的に少数です。ところがなおも神は「民はまだ多すぎる」と語り、今度は「水のところに下って行け。そこで試そう」とおっしゃいました。
 水のところに来ると、口に手を当てて水をなめた者が300人で、残りの民は皆、膝をついて水を飲みました。彼らは家へ帰され、神は残るこの300
人でミデアン人を渡すと語られました。
 ギデオンは、300人を三つに分け、角笛とからつぼを持たせ、つぼの中にたいまつを入れさせました。そして角笛を吹き鳴らし、つぼを打ち壊し叫びました。「主の剣。ギデオンの剣だ」。その間に主は同士討ちが起こるようにされたので、戦いはイスラエルが勝利しました。
 300人が13万5000人に打ち勝ったのです。これが神の戦いです。神はご自身の栄光を現されました。
 神さまは、どんな事でもおできになります。あなたが祈る時、あなたの祈りを聞き届け、不可能な状況には奇跡さえも起こります。13万5000人を300人で倒された神の勝利は、あなたの内にも起こるのです。
 自分の手の内にあるものを見るのではなく、神の語られることばに目を留めていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年4月3日号(第878号)より転載—

2016年3月28日月曜日

エステル
 ペルシャの王アハシュエロス王が大きな宴会を催した時、王は王妃の美しさを見せようとワシュティを召しました。しかし、彼女が拒んだので、王は怒り、彼女を王妃の位から退けました。
 王はワシュティに代わる王妃を国中に求め、ユダヤ人モルデカイの養女エステルも召し入れられました。王はエステルを愛し、ついにワシュティに代わる王妃としました。
 王にはハマンという寵臣がいました。ハマンはモルデカイを憎み、ユダヤ人を根絶しようとたくらんで、王の許可を得ました。絶体絶命の危機に陥り、モルデカイはエステルに王へのとりなしを求めます。
 状況を聞いたエステルは「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル記4章16節)と言いました。
 法令にそむいても、というのは、誰でも王に召されないで内庭に入り、王のところに行くものは死刑に処せられるという法令があったのです。
 断食の後エステルは王妃の衣装を着て内庭に立ちました。王はエステルを受け入れてくれました。エステルは、自分の出自を明らかにし、民族が滅びることのないよう嘆願しました。王はこれを聞き入れ、ハマンが設けたユダヤ人をかすめ奪う日は、一転し、ユダヤ人がその敵に復讐する日となりました。これを、プリムの日と呼びます。
 美しさもさることながら、「私は死ななければならないのでしたら、死にます」と、語った婦人、これがエステルです。彼女の信仰には「覚悟」がありました。命をも主に委ねて従った時、主もまた彼女に応えてくださいました。私たちもまたエステルの信仰にならいましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月27日号(第877号)より転載—

2016年3月21日月曜日

ペテロ
 ペテロは、キリストの12弟子の筆頭です。イエスさまが祭司長、律法学者に引き渡されることを語った時に、「あなたのためには命も捨てます」と語った人物です。しかし、現実は厳しく、彼は命を捨てるどころか三度イエスを知らないと否んでしまいます。彼は号泣しました。
 しかし、イエスさまはペテロを見捨てず立ち直らせます。そして、イエスはペテロに言いました。「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます」(ヨハネの福音書2118節)
 聖書はこれを「これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった」(19節)と書いています。
 伝承によると、ぺテロは周りの人々の強い要請を受け、迫害を避け、ローマから離れました。そして、道中アッピア街道でイエスさまと出会うのです。
 主よ、どこに行かれるのですかとひれ伏してペテロが問うたところ、イエスさまは、「あなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう」と語られたのです。ペテロは直ちに元来た道を引き返し、ローマで捕らえられ逆さ十字架で殉教しました。
 若いうちはやりたい放題に生きていけます。しかし、主に出会い献身する中で、やがては負うべき自分の十字架があると知るようになります。この十字架を担う者は多くの実を結びます。かりそめのこの世の命ではなく、永遠のいのちこそ目を向けるべきものではないでしょうか。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月20日号(第876号)より転載—

2016年3月9日水曜日

悔い改め
 神さまが何となく遠くなったと感じる時、有効な解決方法があります。それは「悔い改める」ことです。私たちはイエスさまの救いを受けた時に、過去の罪、現在の罪、そして将来犯すであろう一切の罪を赦していただきました。神さまは私たちを罪のない者として見てくださり、子として愛を注いでくださっています。
 しかし、神さまは愛なる方ですが、同時に義なるお方です。罪があると神さまとの関係は断絶してしまいます。それで日々の悔い改めの祈りは重要なのです。
 以前所属していた教会で、ある青年が興味深いことを語りました。確かに自分は祈っているが、いまひとつ力に欠ける。そこである日、朝から腰を据えて、自分の罪を一つずつ告白した。長くても1時間くらいで終わると思っていたが、次々と悔い改めのことばが紡がれて、あっという間に正午を越えた。祈りを終えると神さまとの距離が取り除かれ恵まれたというのです。
 悔い改めるなら赦される、これは神さまの約束であると同時に原則です。どんな罪であっても、主の前に告白して立ち返るなら全て赦されます。
 韓国の祈祷院にチョー・ヨンギ牧師専用の祈りの穴があったそうです。壁には落書きがありますが、その中で、韓国語で、悔い改め、悔い改めと、ひとしお大きく書かれた文字があるそうです。悔い改めがいかに大きな力であるかチョー牧師は知っておられるのです。
 私もまた、これを聞いて日を定め、腰を据えて悔い改めの祈りをしました。声に出してはっきりした言葉で告白しました。すると次々と悔い改めの言葉が出てくるのです。全てを告白し終わったら喜びでいっぱいになりました。皆さんもぜひ、この悔い改めの祝福をお受けください。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年3月13日号(第875号)より転載—

2016年3月8日火曜日

 
 先日、白馬スネルゴイキャンプに参加しました。
 開会聖会の賛美が始まると、いきなり特別なご臨在が下りました。賛美は一つの声になりました。賛美のうちに、私たちも引き上げられ、人手によらない聖霊のご臨在に打たれました。会衆の声というよりむしろ御使いたちの天の賛美がそこに現されたかのような賛美で、思わず熱いものがこみ上げてきました。
 このところ、私たちの賛美はいやしの働きをなす、ということが医学的にも認められてきています。確かに賛美にはその力があります。その秘訣は何でしょう。
 詩篇22篇3節にはこのように書かれています。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」あなたとは主です。賛美の中には、主がいてくださるのです。私たちは賛美を通して神さまと交わることができるのです。
 長崎の二十六聖人が処刑される時、少年アントニオが賛美を始めるとその場の空気が一変したと言われています。賛美によって天の臨在が下ってきて、刑場を満たしました。残酷な処刑にもかかわらず、多くのクリスチャンが私も十字架に付けてくださいと願い出ました。賛美は、私たちのたましいに、霊に触れるのです。
 ヘブル人の手紙12章には、「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです」(22節)と書かれています。私たちの賛美は発展し、やがては天の軍勢とともに神さまを賛美するようになります。賛美を通して、その前味を神さまは見せてくださいました。賛美をささげ、主を礼拝いたしましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年3月6日号(第874号)より転載—

2016年2月22日月曜日

左の頬も向けなさい
 タゴールは、その詩の中で、「人々は残酷だ。人は優しい」という一文を残しました。一人一人は良い人であったとしても、世や会社組織などになると人は違う顔を見せます。人よりも上へ行こうとする戦いが生じるからです。たとえ本人がこの戦いから一歩置きたいと思っていても、その組織にいる以上、この戦いとは無関係ではいられません。
 私もまた、この戦いに勝利するよう育てられました。世間の目を意識し、笑いものになるな、もっと強くあれ、なめられたらあかん、等々で人生の勝ち組になることを強く求められました。しかし、私は途中、挫折を体験しました。期待に応えられなかったという思いには、長く苦しみました。
 しかし、そんな中で「勝つ」ことがそんなに大事か、反対に疑問を抱くようになりました。私は世間に何を見て、一体何に勝とうとしているのでしょう。また、世の競争に勝利したとしても、それは本当に人生の勝利者なのでしょうか。
 有名な、イエスさまの教えに「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイの福音書5章39節)というものがあります。皆さんは頬を打たれたらどうしますか。やり返そうとはしませんか。しかし、イエスさまは逆で、もう片方の頬も差し出しなさいとおっしゃったのです。戦うことなく、抵抗することなく、むしろそうさせてやりなさい、それがイエスさまの教えです。
 人生の勝利は神にあります。そして、それはへりくだった心に宿ります。人間、何が怖いかといえば高慢です。上へ行こうとする戦いで勝っても、紙一重で高ぶってしまうと、人は神さまを見失います。イエスさまの謙遜に学びましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年2月21日号(第872号)より転載—

2016年2月14日日曜日

殉教の招き
 長崎を初めて訪れたのは20歳ごろです。知人に勧められて、妹と2人で、長崎で殉教した二十六聖人の足跡をたどる巡礼に行くことにしました。
 二十六聖人とは、日本で最初の殉教者となった、子ども3名と外国人宣教師を含む総勢26名の信仰者のことを言います。聖人という名称はカトリックの呼び名ですが、彼らは私たちと何ら変わりない信仰者たちです。ただ一方的な主のお計らいによって召し出された、日本で最初の殉教者です。
 彼らの殉教地として選ばれた、長崎の西坂の丘は、長崎湾を眺める所にあり、長崎に着いた時と、帰る日と2度、私は西坂に足を運びました。そして帰り道、バスの中から外を見ていると主が静かに語ってこられました。「彼ら同様あなたもまた、私に命をささげますか」
 結論から言うと、私はこの声に応じることができませんでした。はいともいいえとも言えませんでした。そうさせてくださいというのが精いっぱいで、そこから私の戦いは始まりました。「死に至るまで忠実でありなさい」(ヨハネの黙示録2章10節)というみことばを求め続けて、もう30年になります。
 マルコの福音書8章34節に「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と書かれています。主というお方は、基本的には無理強いをなさいません。私たちが主の十字架を選ぶ時に、主もまた応答してくださり、私たちを用いてくださるのです。
 主は、二十六聖人をはじめとした日本で流された殉教者たちの血を覚えておられます。リバイバルは始まっています。穂はもう刈り入れるばかりです。これからの導きに期待しましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年2月14日号(第871号)より転載—

2016年2月6日土曜日

ふたごころ
 以前、このコーナーでお話したことがありますが、私は、救われて後、自分が教会に行くための自転車を、神さまに求めたことがあります。
 具体的に祈れば良いとアドバイスされて、10項目ほど課題を挙げて祈りました。ブランド物がいい、鍵は2個、マウンテンバイクのような小型の自転車、変速ギア付きのもの、などです。
 ところが、私は二心であって、神さまに祈ったにもかかわらず、人間的な手段を取りました。自転車をくれそうな友人を捜し、もらおうとしたのです。友人のその自転車はママチャリで、祈った物とは違いますが、自転車であることに変わりありません。教会には、祈った通りではないけど自転車が来ました、と報告するつもりでした。
 ところが数日後、その友人から電話が来ました。約束した自転車が盗難にあった、というのです。それを聞いた瞬間、私は、神の御手だ、と思いました。神に寄り頼むと言いながら人の手を用いたことへの神の懲らしめでした。恐れつつ、熱心に二心を悔い改め、もう一度信仰に立ちました。すると、何と「自転車はいらないか」と言ってくださる方が現れました。しかも、その自転車は、祈りのリクエスト全てを満たす奇跡の自転車でした。神をあがめ、また恐れました。
 ヘブル人への手紙11章6節には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」と書かれています。
 今日生まれた者も長年のクリスチャンも神さまの前では同じです。神さまは、真実をもって御自身により頼み祈る者の信仰に答えてくださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年2月7日号(第870号)より転載—

2016年2月1日月曜日

求め続ける
 マタイの福音書7、8節で、イエスさまはこう語られました。
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」
 これは、約束を伴った素晴らしいみことばです。原語では「…し続けなさい」という継続を表す意味が盛り込まれています。そしてこれは私たちへの信仰のチャレンジでもあります。
 年末年始にかけて、今年は特別なお取り扱いがありました。1月2日に郷里で10年に1度の同窓会があり、どうしても出席したく思いました。ところが、1日は、特別礼拝があり、3日からは通常の主日礼拝が始まります。行くなら、2日当日日帰りするしかありません。しかし、たった1日のために高い航空券を買う財など持ち合わせていません。これだけでも、同窓会出席は主のみこころではないかもしれない、と判断できます。けれども今回に限っては、主のみこころが明確に分かるよう、もう少し粘ってみようと思いました。
 祈っては聖書を開き、みことばに聞き、忌憚なく願いを差し出し、朝昼晩に一心に主を求め続け、たたき続けました。そして、ついに主ははっきりと「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」(ヨハネの手紙第一2章15節)と語ってこられました。
 結局、同窓会出席はみこころではないことが分かりましたが、「求め続ける」ということがどんなものなのか、今回も良い学びを体験しました。
 大胆に祈り求めましょう。主は必ず祈りに応え、願いをかなえ、またそうでなくても、御自身のみこころをはっきりと教えてくださるからです。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年1月31日号(第869号)より転載—

2016年1月25日月曜日

救い
 私は、真理や救いを求めて求道し続けた2人の方を知っています。
 1人は、それは仏教にあるのではないかと考え、仏教を土台としたあらゆる精神世界を放浪しました。しかし、彼はついに、真理はイエスにある、と信じ救いに至ったのです。まさかキリスト教に、真のいのちがあったとは思ってもみなかった、と述懐されました。
 もう1人の方もまた、長年の求道者でした。彼女は救いを求め続けていました。そしてそれが、イエスにあると知ると大いに感動し、あまりにも素晴らしいので、イエスさまを独り占めにしたい、と思ったそうです。
 さて、仏教は、自力本願と他力本願とおおむね二つに分けられます。自らの努力や修行によって救いの道を切り開いていこうとするのを自力本願といい、自分にはできないので阿弥陀仏などに頼って救われようというのを他力本願といいます。
 そのような観点から見れば、キリスト教は究極の他力本願といえます。神は、私たちが生まれながらの罪人であることを憐れんで、救いのために御子イエスを下さったのです。
 イエスさまは、私たちの罪を担い、十字架で死なれ、3日目によみがえられました。この御子による贖いを信じる者は、さばきで罰せられることなく、永遠のいのちが与えられるのです。
 もし、人がおのが人生の意味を尋ね続けるなら、必ずイエス・キリストに出会うでしょう。イエスの十字架の贖いを信じることが、唯一の救いの道だからです。
 「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」(ペテロの手紙第一2章25節) (イスラエル北野)

み声新聞2016年1月24日号(第868号)より転載—

2016年1月16日土曜日

光と闇
 1986年7月、父が食道静脈瘤破裂で死線をさまよいました。夜中、病院から連絡があって、父の元に駆け付けました。あくまでも、私個人の感覚的なものですが、枕元に立って祈ると、今まで父が拝み仕えていた、あらゆる種類の悪霊どもが、父はいよいよ自分たちのものになるのだと言ってざわめいているのが見えるのです。
 感謝すべきことは、その時私はすでにクリスチャンになっており、霊の戦い、対応を知っていたことにあります。これまで、父が信心していた何十もの偶像や悪霊、宗教を、一つ一つ主イエス・キリストの御名によって縛り、父との関係を断ち切りました。
 不思議なことに、その時、私は父と同じものが見えました。そして主の御名がどれほど威力があるのかを体験しました。イエスの名を用いると悪霊は退く以外にないのです。その勝利は圧倒的なものでした。
 ヨハネの福音書1章5節にはこう書かれています。「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」。私はこれを紙に書いてベッドに貼り付け、繰り返しこのみことばを語り、キリストの勝利を告白しました。
 主の戦いは、敵と四つに組むようなものではありません。神とサタンは五分の戦いではありません。やみはどんなに深くとも、そこに光が置かれるなら直ちに消失します。やみは光に打ち勝てません。このような勝利が神の下さる救いなのです。この事を通して、父は救いを受け入れ、救われました。
 光は、イエス・キリストその方です。もはや暗やみにとどまる必要はありません。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネの福音書1236節)
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年1月17日号(第867号)より転載—

2016年1月10日日曜日

脱出の道
 福音派の教会から、主の十字架クリスチャンセンターに転会し、オンライン会員となったある女性が「転会するまでは生き生きと動く神さまの手だけを見てきましたが、こちらに来てからは、今度は生き生きと動くサタンの動きも見るようになりました」と興味深いことを語っておられました。
 主の十字架クリスチャンセンターは、カリスマの教会で、霊の戦いや見分けなどが開かれている教会です。当然、神さまだけでなくサタンの動きもまた顕著に見、学ぶようになります。
 特に「リバイバルが始まりました」という神さまのことばが下ってからは、戦いは以前にもまして厳しくなりました。ある方は「今の私を殺すなら武器は要りません。不安一つあれば十分です」と言いました。確かに、小さな恐れを心に許してしまったら天井知らずにそれが増え広がり、いともたやすく窮地に追い込まれてしまいます。大げさではなく、昨今の戦いは本当に死をも覚悟するほどのものがあります。
 しかし、コリント人への手紙第一1013節にはこのように書かれています。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」
 神さまは私たちを、愛してくださっています。死を覚悟するような厳しい試練があっても、神さまは脱出の道を備えておられます。そればかりか、試練を通して、神の栄光のみわざを見せてくださるのです。神さまの愛は人知を越えて偉大です。イエス・キリストをあなたの主として心にお迎えください。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年1月10日号(第866号)より転載—

2016年1月3日日曜日

赦しの特権
 最近、夫が「赦しの特権」ということをよく語ります。赦しはキリスト教の根幹を成す教えです。「主の祈り」の中でも毎回「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ります。赦しにおいては、まずこちらから赦すというのが主のあり方です。
 ヨハネの福音書20章にも「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(23節)と書かれており、赦すことも赦されることも、私たちの一存に任されています。
 赦すことを実行するのは、難しいです。人は、罪を赦す権威や力は持っていません。赦しは神のものです。しかしながら神はそれを私たちに委ねてくださいました。神は、互いに赦し合うことによって、全ての人にこの恵みが届くようにしてくださいました。
 とはいえ、赦しの前にあったものは痛みです。赦したくてもできない心の理由があります。この縛りから救ってくださるのがイエスさまです。
 オランダの伝道者であるコーリー・テン・ブームは、第2次世界大戦中に収容所に入れられ、多くの苦しみを受けました。戦後、和解を説いていた聖会に、かつての鬼軍曹が和解を求め手を差し出してきました。その時、彼女はいてつきました。どうしても手を取れなかったと言います。コーリーは、イエスさまを仰ぎました。
 その時、まるでダムが決壊したかのような豊かな愛が一気に彼女に注がれました。空気が一変し、キリストの愛があふれました。コーリーは赦すばかりかキリストの愛に打たれました。こういう訳で、私たちもまた赦しの道を行きましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年1月3日号(第865号)より転載—