2014年10月25日土曜日

非常な喜び
 先ごろ、出版されたマーリン・キャロザース氏の本の表紙に、マーリンさんの
お姿があります。あふれるばかりの喜びの姿に、人はここまで喜びに満 たされ
るのかと感動しました。
 マタイの福音書6章22節には「からだのあかりは目です。それで、もしあなた
の目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あ なたの全
身が暗いでしょう」と書かれています。その通り、マーリンさんの目は喜びをた
たえた力強く輝く目でした。そしてその明るさはお顔ばかりで はなく全身を照
らしていました。世界広しといってもあんなにも輝いている人を、私は見たこと
がありません。
 先日、今まで読み過ごしていた聖書の言葉にふと目がいきました。「非常な喜
び」という言葉です。ルカの福音書の24章では、復活の体になったイ エスさま
が弟子たちの中に立たれ、またベタニヤに連れていき、手を上げて祝福しながら
彼らから離れていかれたという記述があります。そしてそのこ とによって弟子
たちは「非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にいて神をほめたたえ
ていた」(52節)と書いてあるのです。
 「非常な喜び」とはどんなものでしょう。ちょっとやそっとの喜びではないで
しょう。しかしマーリンさんは、この喜びを持っていました。
 私たちもまた、この「非常な喜び」を受けることができます。
 そのためには、まずイエスさまを信じ、救いを受けましょう。そして神さまに
従いましょう。イエスさまの下さる「非常な喜び」は、世に打ち勝った 勝利で
す。サタンは喜びを奪いに来ますが、闇が光に打ち勝てないようにサタンも「非
常な喜び」の前には敗退するほかないのです。(イスラエル北 野)

み声新聞2014年10月26日号(第803号)より転載—

2014年10月17日金曜日

祈りは聞かれます
 夕刻を過ぎると「ただ今」と娘が帰ってきます。「お祈りありがとう。助かっ
た」というのがいつもの第2声です。仕事の内容がら、彼女は今「祈る しかな
い」という現状にいます。
 不思議なことに、そういうときには私にも祈りの促しがやってきて、同時刻に
助けを見たということがありました。
 祈りは現実の壁を打ち破る力があります。また神さまは、どんな祈りであって
も聞いてくださっています。そして、必ず答えを下さいます。確かに、 信仰を
持たなければなりませんが、祈りが失望に終わることはありません。
 さらに、祈りはどんな祈りでも聞かれます。
今は天にいる、私の父の楽しみの
一つに、競艇がありました。私と妹は、それを止めるよう熱心に祈って いまし
た。するとある日、父がいきなりやって来て「わしのことをもうイエスさんに祈
るな」と激怒したのです。
 何でも、このコーナーを曲がれば1着!というところで突然ボートが転覆した
り、あり得ないことが次々と起こるのです。それも、10度や20度で はありませ
ん。さては、あいつらか…、というわけで おしかりを受けました。 私たちはし
おらしくしていましたが、心の中では勝ち歌が流れていました。神さまによる祈
りの答えを見たからです。
 祈りは聞かれます。それゆえ、サタンは祈りを妨げます。まず、祈る意欲を奪
い、そして、祈っても祈らなくても同じだろう、という不信仰をまん延 させて
いきます。神さまは、不信仰を嘆かれます。私たちは、信仰の眠りから立ち上が
りましょう。「信じない者にならないで、信じる者になり」(ヨ ハネの福音書
20
27節)、祈りによる、大いなる主の奇跡をみていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年10月19日号(第802号)より転載—

2014年10月11日土曜日

身代わりの愛
 愛には多くの形がありますが、「代わってやりたい」という思いもその一つで
しょう。私ごとになりますが、以前大病をしたとき、父が見舞客に、 「代われ
るものなら、代わってやりたい」と語っているのを耳にしました。父とはよくぶ
つかりましたが、その言葉を聞いて親の愛はありがたいもの だ、と思いました。
 天の父なる神さまも同様で、罪人でやがては死に行く私たちを愛し憐れんでく
ださいました。代われるものなら、代わってやりたい、と思われたので しょう
か、救いの道を造られました。十字架による贖いを完成されたのです。ヨハネの
福音書には次のように書かれています。「神は、実に、そのひと り子をお与え
になったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる
ことなく、永遠のいのちを持つためである」(3章16 節)
 ひとり子とは、イエスさまのことであり、世とは私たちのことです。イエスさ
まを下さり、購いの代価とするほど、父なる神は、私たちを、世を愛さ れまし
た。イエスさまは、私たちの罪を負い贖うために、十字架で死んでくださったの
です。私たちが救われるために、神はいかに大きな犠牲を払って くださったこ
とでしょう。
 私たちは生まれながらの罪人であって、自分で自分を救うことができません。
しかし、イエス・キリストの十字架の贖いを信じるのなら、誰であれそ の人は
救われ、永遠のいのちを受けます。
 イエスさまの十字架の福音を信じなければ、私たちは罪の中で死ぬばかりで
す。宗教多しといえど救いは他にありません。天では既にあなたのために 席
が用意されています。イエス・キリストをあなたの主、救い主として心にお迎
えください。 (イスラエル北野)

み声新聞2014年10月12日号(第801号)より転載—

2014年10月4日土曜日

彼女の人生
 人生というものは、いかようにも生きられるものだと、感動を持ってそう思い
ます。ひとつの出来事を幸とするも不幸とするも私たち次第です。そし て、神
は祝福の道に行けるよう私たちを助けてくださいます。
 今はもう天に帰られましたが、田原米子さんという方がおられます。この方
は、高校生の頃、電車に飛び込み自殺を図りました。両足と左手を失い、 右手
に3本の指を残し一命を取り留めました。
 そういった場合、どうやってお慰めすればよいか言葉につまるのですが、神さ
まのご愛が既に働いていました。初めて読んだ聖書が彼女の心に触れた ので
す。そこには「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者
です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 と書かれて
いました。
 キリストを信じ、新しく造られた米子さんは、「私は指が3本しかないと思っ
て嘆きました。でも今の私は指が3本もあると思うとうれしいのです」 と語
り、「こういう体になったおかげで前には見えなかったもの、考えなかったこ
と、また私の中で良かったと思うことがあまりにもおおいのです」と 述懐され
ました。
 「3本しかない」から「3本もある」と変わったのは一種のパラダイム転換で
す。無い物にではなく、ある物に目が向き始めました。簡単なようです がこの
転換は、大きいのです。米子さんはイエスさまを信じて圧倒的な勝利者になりま
した。だれよりも強く米子さんは喜びに輝いています。あなたも また、彼女の
ように喜びの人となることができます。イエスさまを心にお迎えください。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2014年10月5日号(第800号)より転載—