2012年2月22日水曜日

子育てとその成功

私には、21歳になる娘がいます。社会人としてアパレル(衣服)関係で働いています。いろいろな所を通ってきて、娘は、イエスさまが自分の力と なってくださっていることを知っています。
彼女は私たちの初めての子です。私の期待もまた大きく、人並みのことをさせてやりたいという思いから、受験の折には、ない袖を振って進学スクー ルへ行かせました。
順調に、娘は志望校に入学しました。これでこの子は大丈夫と一息ついたのですが、束の間。娘は友人関係のもつれから高校に通えなくなりました。 何とか、通信制の高校に転校することができましたが、今まで私がなした苦労と投資は何だったのか、と私は考えてしまいました。
そもそも、親の苦労といっても、それは私が自分勝手に抱えたものでした。私は子に聞くことも神に聞くこともなく、世が提供する出来合いの成功を 娘に押し付けようとしていたにすぎなかったようです。ようやく私は、自分が神さまと違う方向を向いていたことに気付きました。
世の人と同じように歩むことは、ある面、楽な道です。同じようにやっていけば、それで済むからです。しかし、最善の人生は一人一人違います。神さまは一人一人に計画を持っておられ、そしてそれが最善なのです。もし人生の成功を求めるなら、それは神の計画を聞くことから始めるのが最善なのです。
娘は今、喜びをもってキリストの勝利の内を歩んでいます。職場でのさまざまな出来事の中、真に神さまと出会い、何度も神さまの助けを体験し、喜んでいます。本当の成功、それは人の目には隠されています。神さまについていきたいという人だけが、それを知っています。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年3月4日号(第665号)より転載—

信仰の冒険

私は1987年の12月にイエス・キリストを信じ、新しくされました。クリスチャンとして生きることがあまりにも素晴らしいので、献身しまし た。両親は怒り、私は勘当されました。
若かったということでしょうか、反対されても、何があっても生ける神を知りたい、その思いが強く、心中わびつつ親不孝をさせていただきました。
取りあえず、神さまのことを優先させようと全ての神学校の科目を取りました。すると空いている時間は、月曜日だけになりました。経済はどのように満たされるのでしょうか。当時、家賃の半分をささげてくださる人はいましたが、あとの必要は、まさに神頼みでした。私は、自分が、水の上に立って歩きだしたペテロのよう に思えました。歩き始めたのはよいが、波に目をそらせたペテロは沈みかけました。私の献身も溺れたらどうしようと、不安になりました。しかし、聖書をよく読んでみると「イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかん」だと書いてあります。溺れたとしてもイエスさまの助けが入る。心は定まりました。
さらなる必要もまた神さまだけにより頼みました。こちらから探すことはせず、向こうから話が来るように祈りました。そして、正直に、「肉体労働をする力はありません。持てるものといったら教員免状だけです。しかも働ける日は月曜だけです。時給は2000円以上必要です」、そう申し上げま した。
それから数日たって、ついに一本の電話が鳴りました。予備校教師の依頼でした。しかも募集していた方はクリスチャンで、こちらの証しを聞くと、面接なしで即採用となり、2300円の時給を付けてくださいました。
ハレルヤ。神は私たちの信頼の的です。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月26日号(第664号)より転載—

2012年2月12日日曜日

死を目前にして

先日、父の友人が他界しました。亡くなる前に、牧師である母がその方の所へ祈りに行きました。冷静な人ですが、母の顔を見て、泣いて、顔中涙で いっぱいになったと聞きました。もはや、しゃべることができず、何を見たか、何がつらいか、言えないまま死を迎えました。
同じように、死ぬ間際に、泣いて死んでいった人の話を知っています。元F1レーサーで冒険家の片山右京さんの友人です。彼は右京さんとともに冬 山登山に出掛けて遭難し、いざ死が臨んだ時に、ただただ泣いて、そして死を迎えたと片山さんは証言していました。
彼らは相共にどうして泣くのか、それは死に直面したからです。
私の牧師であるA牧師は、病気で心停止寸前のところまで行った人です。今まさに死ぬのか、と思った時、A牧師が向かい合ったのは「妥協なき絶 望」であったといいます。自分は神の前に果たすべきことを何も行っていない、なのに死のうとしている、それはまさに「妥協なき絶望」だったという のです。
私たち人間には等しく死が訪れます。誰もがその事を知っています。しかし、皆、死を忘れようとして世の楽しみを求めます。そしていざ、死の前に 独りで立つ時、初めて分かるのです。死に対する備えのないことを。備えとはイエス・キリストを信じることです。イザヤ書55章6節には、このように書かれています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」。これは確かなことばです。今は、福音の語られている時代です。イエス・キリストを信じる者は天国へ行き、信じなかった者は地獄へ行きます。
あなたもイエスさまを信じ、救いを受け取りましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月19日号(第663号)より転載—

2012年2月5日日曜日

聖なるということ

聖なるという称号は、神こそ受けるにふさわしい言葉です。
イザヤ書6章で、イザヤは御父の栄光を見ました。その裾は神殿に満ち、セラフィムが高き所に立って、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その 栄光は全地に満つ」と互いに呼び交わしていました。
それを見てイザヤは、「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、 この目で見たのだから」と語りました。イザヤは、天の光景を見たのです。それは聖なるものでした。
歴代誌第一13章にウザという人物が登場します。ウザは主の聖なる神の箱を運ぶ車の御者でしたが、キドンの打ち場に来た時、牛がそれをひっくり 返しそうになったので、手を伸ばして、箱を押さえました。すると、たちまち主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打ちました。ウザはその場で 神の前に死んだ。そう書かれています。
神の箱は、最も聖なるもので、レビ人、特にケハテ族以外は、運ぶことを許されていませんでした。たとい善から出た行為であっても、領域を越えて 神の神聖を侵すことはしてはならないのです。
神が聖であることは、神は絶対だということでもあります。神聖を侵すものは誰であっても、神の御前で断たれてしまいます。
それ故、神は御子イエス・キリストを送り、その十字架による贖いを成し遂げてくださいました。私たちが神さまに近づく道はこの十字架以外にありません。十字架を通して近づく者を、神さまはご自分の子として受け入れ、多くの恵みで満たしてくださいます。聖なることは力です。神を恐れましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2012年2月12日号(第662号)より転載—