2016年10月30日日曜日


 数年前、脳波を検査した時、事前の説明がないまま、頭に電極を付け真っ暗な防音室に一人置

かれて、パニックになりました。大声で叫んでも、私の声は防音室なので届かない、そう思うと余計に

緊張してがむしゃらにガラスをたたき続けました。途中で気付いてもらえましたが、それ以降、何も見え

ない暗やみや密室は大の苦手になりました。
 当たり前のことですが、光がないところはやみと言い、そこでは本を読むこともできませんし、人の顔も

姿も見えません。慣れ親しんだ家具にさえつまずきます。しかし、一筋の光が差し込むともう全ての事

が白日のもとに明らかにされます。光って偉大だと、素朴に思います。
 ヨハネの福音書1章5節には「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」と書か

れています。
 やみは、暗いのです。やみは見えなくします。足元も先も見えず、右も左も分かりません。これがイエ

スさまを知らない私の、ありのままの心の状態です。他方、光とはイエスさまのことを言っています。まこ

との光であるイエスさまを心にお迎えするのは、暗やみの中に光が置かれたということで、たちまちにして

光はやみを退けます。光はやみを消しますが、やみは光を消すことができません。そこにあるのは光の

圧倒的な勝利です。
 イエス・キリストを心にお迎え致しましょう。キリストは光であって、その光は私たちの心の暗やみを照ら

します。光が差し込んで初めて私たちは自分のことが見えるようになり、心のお掃除もできるようにもな

るのです。あなたもまた、光を求め、光に照らされて歩みましょう。主はあなたをつまずくことなく守ってく

ださいます。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年10月30日号(第908号)より転載—

2016年10月23日日曜日

よみがえったラザロ
 ヨハネの福音書11章には、ラザロのよみがえりについて書かれています。その姉妹、マルタとマリヤはイエスに使いをやって言いました。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(3節)
 イエスは、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神がそれによって栄光を受けるためです」(4節)と語られました。しかし彼女たちには、まだこのことばの意味が理解できませんでした。
 ご自分のなすことを知っておられたイエスは、なお二日とどまり、ラザロが墓に入れられて腐敗するころ墓に着きました。墓に立てかけてある石を取りのけなさいと語ったところ、マルタは、「もう臭くなっておりましょう。四日になりますから」。と言いました。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(40節)とイエスは言いました。主のみこころはいやしばかりではなく、さらに優れたよみがえりにあったのです。ラザロはよみがえり、神は栄光を現されました。
 私には、55歳の若さで肝臓がんによって天に帰った父がいます。神さまは、父の病を通してもご栄光を現してくださいました。愚痴を言うことなく感謝し、最後まで決して諦めなかった父の姿は、多くの人の心を動かしました。父は、ラザロのように直ちによみがえることこそありませんでしたが、やがてラッパの音が響く復活の日に、御霊のからだを頂くことを私は信じています。父だけでなく、キリストの救いにあずかった全ての聖徒は復活し、永遠に生きる者となります。
 死は、復活の勝利にのまれました。忍耐を持ってその日を待ちましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年10月23日号(第907号)より転載—

2016年10月18日火曜日

 
 病人の心というものは、往々にして屈折してしまうものです。青年期に私は病気で半年ほど入院したことがあります。それはつらかったです。体の具合もさることながら、私の心は、病を許された神さまのお心が知りたいと求めるのですが、神は沈黙を守られるのです。
 とはいえ、私は恵まれている病人でした。見舞いに来てくれる人がいたり、教会によるとりなしの祈りがあり、ありがたいことでした。しかし、それにもかかわらず私は心の屈折をどうすることもできませんでした。その結果、何名かの方々の言葉は、上から目線で、あたかも私が罪を犯しているからこの災いが起こるのだと責められているかのように、感じてしまいました。
 聖書にヨブ記という巻があります。ヨブは義人でした。サタンは「ヨブが義人なのは、神さま、あなたが守っているからです。」と言い、ヨブを打つことの許可をもらいました。こうしてサタンはヨブの財や家族を打ちました。しかし、ヨブは愚痴を言わず「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(1章21節)と語り、罪を犯すようなことはありませんでした。
 するとサタンは、命に関わることならヨブはあなたをのろいましょう、と言い、サタンは足の裏から頭の頂きまで悪性の腫瘍でヨブを打ちました。その痛みは余りにも大きく、慰めに来た友人は7日7夜絶句しました。
 ヨブに許された病の試練は大変なものでした。しかし、やがて終わる時が来ます。ヨブは、試練を通してさらに神を知る者となり、また主は、2倍の祝福をもってヨブに報われました。
 私たちの人生にもいろいろな試練が許されます。神さまに信頼しましょう。神さまはすべてを祝福に変えられます。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年10月16日号(第906号)より転載—

2016年10月11日火曜日

いやし
 今までに無かったことが、最近立て続けに起こっています。
 それは、いやしのみわざです。先日新しく聖会に来られたご婦人がイエスさまを救い主と信じたところ、救いばかりか長年の足の痛みまでがうそのように消えてしまいました。その後ご自宅を訪問したところ、ご主人もすんなりと福音を信じました。そして長年病んだ手の痛みがいやされるに至っては、皆びっくり。大きな喜びが私たちの内に湧き起こりました。
 さらに、犬の散歩で教会の横に来ていた近所のお姉さんは、足を痛めていました。お許しを得て足を祈ると、神さまが豊かに働いてくださいました。「本当だ。本当に治ったわ!」と驚きの声を上げながら帰って行かれました。マルコの福音書16章に、「病人に手を置けば病人はいやされます」(18節)と書かれています。それを信じその通り手を置いたにすぎません。しかし踏み出してみるといやしが起こりました。聖書のことばは真実です。
 さて、キリスト教のいやしの原点は、イエス・キリストにあります。イザヤ書53章5節に、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」と書かれています。彼とは、イエスさまです。
  イエスさまは、死に定められた私たちを救い贖うため、時至って世に来られました。そして、病や死に苦しむ私たちの、身代わりとなって十字架で死なれました。そのみ苦しみこそがいやしの基盤だと書いてあるのです。神さまのお心は、私たちが救われ、またですこやかでいることにあります。ですから私たちは求めるに熱心でありましょう。出エジプト記1526節で神はこう語っておられます。「わたしは主、あなたをいやすものである」。(イスラエル北野)

み声新聞2016年10月9日号(第905号)より転載—
ダビデとゴリアテ
 サムエル記第一17章に、ダビデとゴリアテの戦いの話が記されています。
 ぺリシテ人ゴリアテは大男で職業戦士です。自分と1対1で戦う者を出せとイスラエルの戦陣をなぶり、恐れさせていました。
少年ダビデはこれを聞き、激高し、「この戦いは主の戦いだ、主はお前たちをわれわれの手に渡される」と語り、ゴリアテに立ち
向かいます。
 ダビデは羊飼いです。羊の番をしている時、獅子や熊が来て群れの羊を取っていくと、ダビデはその後を追ってそれを殺し、そ
の口から羊を救い出しました。だから「神はあのぺリシテ人の手からも私を救い出してくださいます」とダビデは言いました。
 イスラエルの王サウルは、これを聞いてダビデに自分のよろいを着せます。しかし、ダビデは断り、川から選んだ、五つの滑らか
な石だけを用意して大男ゴリアテに立ち向かいました。
 ダビデが石を取り、石投げでそれを放った所、石はゴリアテの額に食い込み、たった一つの石でダビデはゴリアテに勝利しました

 ダビデは羊飼いです。戦士としての教育を受けていたわけではありません。しかし、神が置かれた場での一つ一つの小さな積
み上げが、知らない間に彼を戦士として立て上げていたのです。
 羊飼いという小さな事に忠実であったからこそ、神さまは、戦士、後には王という大きなものを彼に任せるに至りました。一見
、将来に関係のあるものと思えなくても、与えられた日々の訓練が、今ゴリアテを倒すための土台となっていたのです。
 一つ一つの事に意味があり、神さまのご計画があります。今置かれている小さな事にまずは忠実でありましょう。神さまはあな
たを育て上げてくださいます。 (イスラエル北野)

み声新聞2016年10月2日号(第904号)より転載—