2021年4月27日火曜日

なせ試練が許されるのでしょう

 この文章を読まれる皆さんの中には、今まさに試錬の只中にいるという人がおられると思います。試練は、誰にでも一度ならず訪れるもので、その時には本当に苦しくてなりません。皆一様に、どうして神はこんなことを許されるのか、と悩みます。しかも、そういう時には神は往々にして沈黙を守られるので、私たちは悩みの炉で溶かされまた試されます。私たちは神に愛されていないのでしょうか。

 このことに関しては、へブル人への手紙12章に次のような引用があります。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(56節)。

 「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、誰でも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生児であって、ほんとうの子ではないのです」(7、8節)。

 これが答えです。愛されていないのではなく、愛されているからこそ、神さまは私たちに試練を許されるのです。それゆえ、私たちに訪れる試練はそのまま、私たちが神の子であることの証明です。確かに神のお取り扱いは厳しいです。しかし、試練が許されるのは、申命記8章にあるように「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」のです(16節)。

 また、ヨハネの福音書152節でも、イエスさまは「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と言われました。私たちはいわば原石で、神は原石である私たちを磨き上げ、ご自身に役立つものとして建て上げてくださいます。同様に刈り込みも、実を豊かに結ばせるために主がなしてくださる祝福のみ手です。

 コリント人への手紙1013節には「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」と書かれています。

 イエス・キリストを救い主として信じる私たちには、既に一切が成し遂げられています。主は私たちの避け所また力です。こういう訳で私たちは許される試練を感謝し、たましいのやすらぎを得て行きましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月27日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年4月20日火曜日

信頼に応えられる神

 バビロンにネブカデネザルという王様がいました。その王朝はとても栄えていました。それで、ネブカデネザルは、自分のために大きな金の像を造らせて、これを拝むように言います。ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる、と罰則規定さえ盛り込まれていました。

 しかし、バビロン捕囚によって、この国に連れてこられたユダヤ人である、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3名は、金の像を拝まず、主への忠誠を堅く守っていました。彼らを憎むカルデヤ人は、王にこのことを訴え、怒った王は3名を呼び出し、「私が造った像を拝むなら良いが、もし拝まないなら、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう」と言いました。

 最後の言葉、これは失言です。もういけません。ネブカデネザルは、正面から主にぶつかってしまいました。生ける神は、その高ぶった言葉を聞いておられました。どの神が、と彼は言いましたが、イスラエルの神をもろもろの世の神々と同列に置いたことによって、既にネブカデネザルは敗退しています。イスラエルの神は、王の王、主の主であって、他の神々と同列に扱われてはならないのです。それゆえ神はこのことを用いて、ご自身の栄光を現されます。

 前述の3名は、ネブカデネザルに答えて言いました。

 「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません」(ダニエル書31718節)

 このひと言は王の逆鱗(げきりん)に触れました。王は怒りに満ち顔つきが変わって、炉を7倍熱くせよと命じ、3名を着の身着のまま縛って、炉に投げ込みました。

 しかし、次の瞬間、ネブカデネザルは驚くような光景を見たのです。3名投げ込んだはずが、そこには、縄を解かれ歩いている4名の者が見え、4番目の者は「神々の子」のようであり、しかも彼らは何の害も受けていませんでした。

 これに驚いたネブカデネザルは、炉の口に近づき彼らに出てくるようにいいました。4番目の者は、受肉される前のイエスさまだといわれています。神はご自身のしもべたちの信頼に応えてくださったのです。王は命さえ惜しまなかった彼らの信仰と、その彼らの信頼を裏切らなかった神をたたえました。このように救い出すことのできる神はほかにいない、とさえ言わしめたのです。

 主に信頼するその信仰は、決して裏切られることがありません。このお方は、あなたがご自身の元に立ち返り、ご自身を力とされることを願い、また待っておられます。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年4月13日火曜日

 リバイバル

 皆さんは、リバイバルという言葉を聞いたことがありますか。そう、名作映画を再び上映する時に、リバイバルと言います。復活や再流行というのが辞書的な意味であり訳語です。

 教会でもリバイバルという言葉は用いられています。信仰の刷新というのでしょうか。くすぶっていた信仰を再び燃え上がらせる聖霊の力強い注ぎかけを言います。そして、それは個人においてだけではなく教会全体においてもたらされるものであり、いにしえからの神の約束です。

 リバイバルは2度訪れます。中近東の天候に例えてそれぞれ初めの雨と後の雨と呼ばれており、イエスさまの昇天以降既に先の雨は訪れました。そして、これから起ころうとしているのが後の雨で、世の終わりを前にしたたましいの大収穫です。イエスさまの再臨を迎える準備がなされています。

 この、後の雨に、終末の時代の大リバイバルに、私たちは召し出されました。この恵みの深さ高さ広さは、他に類を見ないものです。そしてリバイバルが起こった際、教会は3通りの反応をすると言われています。1つは、リバイバルが起こっても何も変わらないまま過ぎゆく教会。もう1つは、リバイバルによって豊かな恵みを頂く教会。そして3つ目はリバイバルを取り次ぐ教会です。私たちの教会は、リバイバルが起こった時にリバイバルを担っていく使命に応答しています。それ故許される訓練もまた、他にはない厳しいものがあります。しかし、その厳しさは人知を超えた神のわざが起こる土台となります。

 リバイバルの器として私たちに求められるものは「信仰」です。神さまは私たちを通してなそうとしている計画をお持ちです。ローマ人への手紙418節には「彼は望み得ないときに望みを抱いて信じました」と書かれています。リバイバルにおいて重要なのは信仰です。望み得る状況で信じるのは信仰でありません。誰でもそうしています。しかし、「望み得ないときに望みを抱いて信じ」るには生きた信仰が求められます。そして、この信仰こそ、神が下さるものであり、リバイバルの土台となるものです。

 リバイバルは既に始まっています。死人がよみがえり、悪霊からの解放がなされ、病のいやしが起こりはじめています。いよいよ後の雨の到来です。雨足は今後ますます強くなるでしょう。信仰を堅くし、リバイバルの本戦を迎えましょう。

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2021年4月6日火曜日

光と闇

 教会で私たちは、「イエスは勝利を取られた」と歌い、また説教でもそのことを聞きます。イエスさまの勝利とは一体どういうものであるのでしょうか。聖書によれば、勝利は光と闇に例えられています。ヨハネの福音書には「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(15節)と書かれています。

 光と闇は、対立したものです。互いに相容れるところがありません。たとえどんな暗闇の中にあっても、光が来るなら、たちどころに闇は消え去ります。これが両者の習性で、光は闇を消すほどの強力な力があるのです。

 ヨハネのこのみことば自体もまた強力な力でした。30年ほど前になりますが、父が病に倒れ死線をさまよっていた時、私は真夜中に呼び出しを受けました。死神がいるので祈ってくれというのです。なるほど、その通りです。病室は闇が重く支配しており、父が信仰していた偶像の悪しきものが、あわよくばいのちを取ろうとうごめいていました。

 確かに父は、熱心な偶像礼拝者でした。しかしその時は既にイエスさまを救い主と信じ、回心していました。偶像とは関わりを断っています。そこで、私は前述のヨハネの福音書のことばを、父の横に立って繰り返し宣言し、また朗読したのです。すると、不思議なことが起こりました。霊の名を言い、「光はやみの中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と宣言し立ち去るように命じると、11つ霊が消えて行くのです。そして遂に1つも居なくなりました。

 圧倒的な勝利でした。光が来た時、闇はたちどころに消えたのです。キリスト・イエスの勝利とはこのようなものなのです。戦ってかろうじて勝つようなものではなく、既に勝っていることを確認するなら、直ちにその通りになります。この、闇に対する光の圧倒的な勝利こそ、私たちに与えられている恵みであり特権なのです。

 話は変わりますが、私は暗所・閉所が苦手です。何が苦手かって、それは方向の感覚がつかめないところです。右も左も上も下も闇の中では分からなくなります。一歩先は障害物があるかもしれません。そう思うと足を踏み出せず、立ちどころさえ見失ってしまいます。

 しかし、光が来るなら一変します。闇で見えなかったものが見えるのです。もはやつまずくことも、ぶつかることもありません。問題があってもよけることができます。こういう訳で、光を、イエス・キリストを、あなたのうちにお迎えしましょう。光が照らされてはじめて、すべてのものは白日にさらされます。すべてが見えるようになり、私たちの人生は一変します。光は闇の中に輝いています。これこそ、神が下さった圧倒的な勝利です。 

 「MIKOE NEWSから転載」 2021年4月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/