2017年11月9日木曜日

奴 隷

 ローマ人への手紙の中でパウロは、奴隷という語を用いてキリスト教の奥義を語ろうとしています。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(61618節)。
 また注解を読むと、「人間は何にも支配されず、完全に自由になることはできない。必ず何かの奴隷になっている。それを大別すれば、罪の奴隷となるか、信仰によって神に服従する従順の奴隷になるかの、どちらかである」と書かれていて、さらに驚きました。
 奴隷になるということは、自分を無にして、自分が服従する相手に自分の一切をささげるということです。キリストを知らない以前、私たちは罪の奴隷であり、死を恐れながら待つよりほかにない者でした。
 しかし、全ては一変しました。罪の奴隷であった私たちですが、イエス・キリストを信じて義の奴隷となることによって、神は私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。
 私は最初、奴隷ということばにはあまり好感を持てませんでした。でも今は違います。義の奴隷となることは私たちを束縛するのではありません。むしろ解放します。人は皆必ず死を迎える死の奴隷です。しかし、キリストを信じることによって、この死から解放され、永遠のいのちを受けることができるのです。これが義の奴隷の報いです。罪の奴隷となるか、キリストを信じ義の奴隷になるかは、一人一人に任されています。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年11月12日号(第962号)より転載—

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