2017年1月2日月曜日

神への恐れ
 箴言9章10節に、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」と書かれています。
 聖書には「主を恐れる」ということが繰り返して書かれています。主を恐れるとは一体どういうことでしょう。
 私が主を恐れることを学んだのは救われてすぐの頃でした。ある牧師が、神さまに祈り求めるということを教えてくださったので、私は、教会に通うための自転車を求めることにしました。あなたが生ける神であることを知りたいのです、自転車をください、そう祈りました。
 さらに、神が答えてくださったということが分かるように、具体的に条件を挙げて祈りました。ブランド物、鍵は二つ、黒いメッシュの籠、変速ギアがあることなどです。
 ところが、私はこの事で不信の罪を犯したのです。一方で神に求めていながら、私は人間的な手段に訴えました。友人から自転車をもらうよう約束を取り付けたのです。その自転車はリクエストを満たしていなかったですが、自転車には変わりありません。自転車が与えられた、と教会で語るつもりでした。
 しかし数日後、1本の電話が鳴りました。もらうはずの自転車が盗難に遭ったというのです。友人のごめんね、の声を遠くで聞きながら、これは、主の御手だと思いました。そして、強い恐れがやってきて、私は自分の二心を悔い改めました。
 その後、引っ越しすることを伝えに保証人さんと連絡を取ると、まさかの一言、向こうから自転車は要らないか、と語られたのです。見る前からそれがリクエスト通りの自転車であると確信しました。そしてその通りでした。神さまはご栄光を現されました。
 神を恐れることは奇跡の土台です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年1月1日号(第917号)より転載—

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