2017年8月11日金曜日


 モーセが山で神から十戒を授かっていた間、ふもとでは、イスラエルは早くも堕落し、鋳物の子牛を造って、これを拝むようにして、神の怒りを買いました。
 それを見たモーセは、このイスラエルの罪に対する主の怒りをわが怒りとし、「だれでも、主につく者は、私のところに」(出エジプト記3226節)と言いました。するとレビ族が直ちに集まってきました。
 モーセが、「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」(27節)と語ったところ、レビ族はその言葉通りに行い、その日約3000人が倒れました。
 レビ族はこの事件においてモーセ同様、神の怒りをわが心としたのです。そこで神は怒りを静め、その心を神と一つにしたレビ族を特別に扱われました。
 イスラエルの12部族のうち、レビ人だけに祭司の働きが与えられましたし、また、カナンの地におのおの相続地を分かち合った時、レビ族にはあえて相続地が割り当てられませんでした。彼らの相続地は主であるというのです。地上の相続地を受けないのは、神さまご自身が彼らの領地、彼らの取り分となられたからです。
 歴代誌第二16章9節には、「主はその御目(おんめ)をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力(みちから)をあらわしてくださるのです」という一節があります。
 モーセもレビ人も、その心は神とまったく一つになっていました。このように、神の心をおのが心とする者を、神は用いてくださるのです。
 栄光ある、この務めにふさわしい者は誰でしょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年8月13日号(第949号)より転載—


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