2017年5月7日日曜日

天の故郷
 疾風怒濤(どとう)の時代とはよく言ったもので、思春期の頃、何度か自殺を考えました。あの頃は自分を愛することができないで、死ねば自分は無くなるものだと思っての事でした。サタンにだまされ、知りもしない愛なる神さまに反逆する心を持ち、死を愛し、あと一歩で永遠の滅びに行くところでした。
 しかし神さまはあわれんで下さり、惜しんでさえ下さり、救いにあずからせて下さいました。
 そして、この中で私は、たとえ自分が死んでも自分は「無」にはならないのだ、ということが分かってきました。自分の肉体は滅ぼせても、霊を滅ぼすことなど、神さま以外できることではありません。「死んだら無になる」とはとんでもない教えです。神さまがおられる限り、私たちは神に対して生き続けています。自殺なんかしても何の解決にもなりません。
 こういう訳で、クリスチャンになって死生観が変わりました。自殺の一件も、刃が欠け鈍刃になったようになり、意味がなくなりました。救われて私は、自分の死後の行き先は、「無」でも「滅び」でもなく、神が下さる永遠のいのちにあり、天の御国であると知ったからです。
 死は終わりではありません。むしろ永遠という時代のスタートに立つ新しい始まりです。誰であっても、何をしたとしても、イエスさまの救いを頂いた私たちは、神の子とされ、永遠のいのちが与えられています。そして、人生の終わりに、やがては天に迎え入れられるのです。そこは私たちの永遠の故郷、天の故郷です。神さまは私たちの目の涙を拭って下さり、その全ての労苦を慰めて下さいます。
 死は人類の最大にして最後の敵と言われています。しかし恐れるには及びません。信仰は既にそれに打ち勝っているのですから。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年5月7日号(第935号)より転載—

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