2017年10月12日木曜日



 かつて牧師が興味深いことを話されました。それは読書のことで、牧師は試験の前日になると、決まって本を、名作を読みたくなるのだそうです。そして、読みます。すると感動し、非常に充実した時を持つといいます。しかし、その喜びはテスト用紙が配られると吹っ飛びます。勉強すべき時を違うものに使ってしまった、という後悔と苦味が押し寄せてきます。
 ソロモンの伝道者の書に次のような文があります。
 「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある、生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」「くずすのに時があり、建てるのに時がある」「捜すのに時があり、失うのに時がある」「引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある」「愛するのに時があり、憎むのに時がある」「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(3章1~11節から抜粋)
 本当に全ての営みは時があります。扉を開くのも閉じるのも、神の手がそれをします。時を捉えるということは非常に重要なのです。
 私たちの教会では、毎年イスラエルに行きます。かれこれ20年以上でしょうか、そのなかで最初の頃は、エジプトから入国し、シナイ山に登り礼拝し、そしてイスラエルへというコースが導かれました。しかし、危険度が増してきたこともあるのでしょうか、今ではこのルートは取らなくなりました。
 同じように、宣教にも時があります。宣教の扉は開かれたり、閉じたりします。それ故、開かれている間になさなければなりません。
 今は大リバイバルの前夜だと言われています。それ故、その働きに向けて忠実に備えましょう。魂の大収穫の時に用いられるのは皆さんです。神の心をおのが心として、大収穫の刈り取りへ出ていきましょう。 (イスラエル北野)

み声新聞2017年10月15日号(第958号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿