2017年6月12日月曜日

 
 孟子は性善説を説き、人の本性は善であると語りました。荀子は性悪説を説き、人の本性は悪であると語りました。どちらであるかという議論は昔からさかんになされています。
 神さまが人をお造りになったので、人はもともと良きものであったはずです。しかし、人類の祖であるアダムとエバは、禁断の実を食べ、神に背き、罪を犯しました。そこから人類に死が入ったのです。罪は死をもたらし、死が人を支配するようになりました。ですから、性善説にも性悪説にもそれぞれ一理があります。
 また、人はよく赤子、幼子を前にして、罪も穢(けが)れもない子たち、と言います。しかし、本当にそうなのでしょうか。
 私には、年子の妹がいます。彼女が誕生して、自宅へ帰ってきた時、私は窓辺でずっと外の景色を眺めていたそうです。「こっちに来て、赤ちゃんにあいさつして」と呼ばれたところ、一直線に走って来て、あっという間に、布団に寝かされている赤ちゃんの上を踏んで次の間に走り去って行ったそうです。
 げに恐るべきは幼子の嫉妬です。産まれてまだ1年そこそこの幼子でさえ、母の乳房(ちぶさ)をめぐると、大人と同じように嫉妬の情を抱いたのです。人の罪は何と根深いものでしょう。
 罪は行いに限らず、何もしなくても、アダム以降、私たちの存在自体に組み込まれている罪があります。それを原罪といいます。この原罪故に、人類は神を知ることができず、神の祝福を受けることができません。それ故、イエスさまは、私たちを贖(あがな)い出すため世に来られ、十字架で死なれ、3日目に復活し、救いを成し遂げてくださいました。主イエスを信じるなら、主は永遠のいのちと祝福を与えてくださいます。心にイエスさまをお迎えしましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2017年6月11日号(第940号)より転載—

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