2019年9月4日水曜日

一粒の麦

 ヨハネの福音書1224節に「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」という聖句があります。哲学的で、含蓄の深いことばです。けれども、一粒の麦として死ぬということがどういうことなのか今一つ、よく分かりませんでした。
 23
節でイエスさまは「人の子が栄光を受けるその時が来ました」と語っておられます。栄光とは、イエスさまが十字架にかかられ死なれる時がやってきた、ということで、ここでいう一粒の麦とは、直接的にはイエスさまのことを指しています。イエスさまがわたしたちの罪の身代わりとなって、死ぬことが無ければ、ただ一人の死で終わります。しかし、もし神のご計画の内に十字架で死ねば、そのみ苦しみの末に豊かな救いの実を見ることができる、というのです。
 また、25節にはこう書かれています。「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」これも24節と同様に逆説的な表現です。いのちを憎むことが、いのちを得ることに繫がるというのです。
 自分のいのちを愛するのは私たちの肉です。時にその肉のいのちを憎むほどまでして神に従ってゆくことが求められます。自分のいのちを自分のものとせずに福音のためにいのちを捨てるなら、かえってそれを得るようになります。この聖句は、殉教への招きのみことばでもあるのです。
 この世のいのち以上に大切なものがあります。それは永遠のいのちであり、天の報いです。あなたもキリストに従い通して、一粒の麦として地に蒔かれるなら、そこから確かに大収穫がもたらされ、報いとして天の宝を受けるでしょう。共にキリストに従いましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年9月8日号(第1058号)より転載—

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