2019年3月12日火曜日

希望は天にあり

 今年もまた春がやって来ました。桜の花をめでながら、天に帰って行った父を思い出します。1999年4月19日に父は肝臓がんで地上での生涯を終えました。55歳でした。父のがんは進行が速く、闘病生活は2年に満ちませんでした。
 父の病気に関して、神さまは「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(ヨハネの福音書114節)ということばを下さっていました。 
 現状が現状なので、「死」ということばにはドキリとしました。また、栄光とは一体何が起こるのか、その意味するところを理解できませんでした。 
 幸いなことに、父は入院前に妹を通して救われていました。病は父の信仰を立て上げました。病状が進む中、父は一切愚痴を口にせず、激烈な痛みにじっと耐え、助けてくださる方々に感謝の言葉を語り、最期までイエスさまのいやしに期待して闘病生活を全うしました。父は勝利の凱旋(がいせん)を遂げ、私たちは確かに神の栄光を見ました。
 目には見えませんが、教会にはイエス・キリストがおられます。イエスさまは病をいやしてくださいます。私たちが健康であることは神のみこころにかなうことです。ですから、大胆にいやしを求めて良いのです。そしてその通り、多くの人が祈り、がんが縮小したり消滅したり、神の奇跡と栄光の現れを見ました。
 しかし、いやしを受けながらも、結局は亡くなってしまうこともありました。それは、病のいやしは、究極的には天において復活のからだを頂くこと、すなわち「救い」にあるからです。
 私たちの希望は天にあります。天の報いこそ、私たちの永遠の取り分です。病のいやしもさることながら、天への希望こそが、神が私たちに約束されたご自身の栄光です。(イスラエル北野)

み声新聞2019年3月17日号(第1033号)より転載—

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