2019年6月12日水曜日

 

 中学生の頃、母の代理で、ある新興宗教の総本山へ行きました。強烈な体験でした。自分と同じ年代の者たちが熱心に信心している姿を見て、私も思い切って信じることにしました。
 大きな偶像を前にいろんな作法を教えられました。寝る時、偶像に足を向けてはならないとか、偶像の置かれている部屋は素足で入ってはいけないとか。また、お経が伝記のように読めるので意味を尋ねると、お経はありがたいものなので、理解するものではないと言われました。
 先祖親族の供養が勧められ、1人につき幾らという供養料を払い、お勤めを欠かさぬよう指導されます。とにかくお金がかかりました。今から思えばこれら全ては宗教ビジネスであったと思います。地獄の沙汰も金次第。希望をちらつかせてはいるものの、宗教は何をもって救いを確約できるのか、その点が曖昧です。
 それに対して神は、栄光を輝かせられました。神は、生まれながらの罪人でやがて死んでゆくはかない私たちを愛しあわれみ、ご自身のひとり子なる神イエス・キリストを下さいました。イエス・キリストは、私たちを救うために私たちの罪を贖(あがな)うため、2000年ほど前にこの世に来られ、十字架の死を遂げられ3日目に復活されました。ここに私たちの贖いは完了し、以来この福音を信じる者は誰でも皆、無条件で救われます。
 使徒の働き4章12節には、「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と書かれています。
 偶像は人から出、人が作ったものです。しかし本当の救いは、真の神から出ました。むなしい偶像を捨て、真の神、イエス・キリストに立ち返りましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2019年6月16日号(第1046号)より転載—

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