2019年12月4日水曜日

 

 苦難のしもべヨブをご存じでしょうか。聖書に「ヨブ記」があり、その主題は「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」という所にあります。
 ある時、神の許しの中でヨブは、理不尽としかいえない取り扱いの中に置かれました。1日にして家族と全財産を失ってしまったのです。もちろんヨブは、起こったすべての事につぶやくことなく、感謝をささげ、信仰を用い、非の打ちどころのない対応をしました。それは称賛に値するものでした。ところが、試練はそれで終わらず、さらに厳しい試練が許されます。サタンは、ヨブを悪性の皮膚病で打ちました。
 ヨブは生まれて初めて自分の生まれた日をのろいました。生きていることをいとうまでこの試練は厳しいものでした。さらに、ヨブの友人たちは、むなしい慰め手で、ヨブに非があるからこんな事が起こるのだという論調でヨブに向かい、ヨブの苦しみをさらに増し加えました。
 ヨブが苦しんだのは、神が沈黙を守られたからです。問うても尋ねても何をしても、神はご自身を隠されました。どんなに苦しくても厳しくても、神、主を認めることさえできれば、ヨブは満足したでしょう。でも神は現れてくださいませんでした。これがヨブの最も大きな苦しみでした。なぜ答えてくださらないのですか。切々とヨブは祈ります。信仰ももう破綻という所までヨブは試されました。
 やがて時が来て、嵐の中から神はヨブを呼ばれました。ヨブは神にあずかり、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました」と語りました。新しい段階の、神との出会いを頂き、神はヨブに失ったものの2倍を与え、ヨブを祝福されました。
 信仰が試されると忍耐を生じます。忍耐の末にこそ受けるべき祝福があります。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年12月8日号(第1071号)より転載—

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