2019年8月14日水曜日

できるものなら

 人の親となることは何て難しいことでしょう。たとえ世間が子を見捨ても、親はやすやすと子を見捨てることができません。それが親というものなら、その愛には本当に頭が下がります。
 マルコの福音書9章に、おしの霊に憑かれた息子を持つ父親が登場します。霊が子に憑りつくと、ところかまわずその子を押し倒し、泡を吹き歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。父親はイエスさまの弟子たちに、霊を追い出しくれるよう願いましたが、お弟子たちにはできませんでした。
 そこで、イエスさまのもとにその子を連れていくと、イエスさまは父親に「この子がこんなになってから、どれくらいになりますか」と尋ねられました。父親は言いました。「幼い時からです。この霊はこの子を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください」。
 するとイエスさまは「できるものなら、というのか。信じる者には、どんなことでもできるのです」と直ちに父親を一喝されました。これを聞くと父親は、叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。
 お父さんを責めることはできません。長年、できることはみな行ったでしょう。それでも好転しなかったのです。あきらめが先に立つ父親の心の屈折をイエスさまはよくご存じでした。またご自身が働かれるには信仰が必要であることもです。それゆえ父親の心から不信仰を払拭(ふっしょく)するため、イエスさまは声を上げられたのです。「できるものなら、というのか」と。
 できるのです。イエスさまはどんなことでもできますし、また、なしてくださいます。これを確信としてイエスさまに期待するなら、奇跡の御手(みて)が現されます。
(イスラエル北野)

み声新聞2019年8月18日号(第1055号)より転載—

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