2018年8月15日水曜日

ねたみ

 聖書に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ローマ人への手紙1215節)という一節があります。これは、広く世に知られている教えです。けれども、これが聖書からきている教えであることを知っている人はそう多くはありません。
 喜ぶ者といっしょに喜ぶことも、泣く者といっしょに泣くことも心の問題です。相手と一つ心になろうとする低い心が私たちの側になければ、喜びも涙も分かち合うことはできません。
 さて、人の心にはねたみという罪があります。イエスさまを十字架につけたのもまた、このねたみでした。祭司長や律法学者たちは、群衆が自分たちを離れてイエスさまに行くのを見て、ねたみと憎しみに駆られました。そして、群衆を扇動し、イエスさまを十字架にかけて殺してしまいました。
 殺人の背後にはねたみの罪があると私は思います。人類最初の殺人は創世記のカインとアベル兄弟によってもたらされました(4章参照)。
 カインは弟のアベルが自分より優れたささげものを神にささげ、神に受け入れられたこと、しかし、神は自分のささげ物には一向に見向きもされなったことに、激しい憤りを覚えました。そして彼は、弟を野に誘い、弟を殺しました。弟が自分より正しかったので、正しいが故に弟を憎み、また殺しました。これがねたみの正体です。
 では聖書で言う、心を低くして、喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい、とはどうすればできるのでしょうか。
 イエスさまを信じ、イエスさまを心にお迎えすることです。そして、私たちは神に愛されている、この真理を受け入れる時、私たちはねたみのわなから離れることができます。イエスさまをお迎えし、神の愛の中に住まいましょう。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年8月19日号(第1003号)より転載—

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