2018年12月19日水曜日

神は愛です

 今年の3月に、私は故郷に帰り、私の子守をしてくれたHさんのご長男をお訪ねしました。定年後の悠々自適の生活を奥さんとともに送っておられるはずです。お会いすると、定年後の生活は退屈そうにお見受けしました。近況報告をして世間話をすると、もう話すことがなくなって結局1時間ほどでおいとましました。
 しばらくしてから、Hさんが望み得ないご病気にあるのだということを伝え聞きました。お会いした時にHさんはそのことを私に伏せておられました。いや、もしかすると、私にどう話そうかとタイミングを見ておられたのかも知れません。しかし、私はそのサインにまったく気付いていなかったのです。
 そこで私はHさんに、イエスさまの救いといやしの手紙を書こうとしました。ところが切羽詰まった状態ではないだろうと1日延ばしにしているうちに、突然Hさんが急変したという連絡を受けたのです。何と心の鈍い者でしょう。私は福音を伝えるタイミングを永遠に失ってしまいました。
 そればかりではなく、悲劇はさらに続きました。Hさんの四十九日の法要が終わると、残された奥さんもまた亡くなりました。これもまた青天のへきれきでした。どうして福音を語る最後の機会を認識できなかったのだろうと。鈍い心を神さまに悔い改めました。
 心を砕くなら、多くのサインが見えてきます。寄り添うべき孤独なたましいは、皆さんの周りにたくさんあります。また、貧しい者や病める者、小さき子たち、これら弱い者たちをさげすむ世の悪から彼らを守ってあげる人が必要です。
 これらのものは皆、キリスト・イエスの内に見られるものです。イエスさまは、全ての不幸を終わらせました。神は愛です。愛のある所にいのちがあります。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年12月23日号(第1021号)より転載—

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