2018年6月27日水曜日

信仰の運用

 私の次女は、義母の性質を引き継いでか、宝石にも興味があるようです。
 新婚旅行の時、義母に勧められて記念にエイラート・ストーンの原石を買い求めました。それが気に入ったらしく、何度も私のところにやってきては「これは私のもの。もらうね。ありがとう」と告白し、もらう気満々です。
 記念品なので、最初はあげる気もなかったのですが、あまりにも熱心に言ってくるので、だんだんあげてもいいか、と言う思いになり、今はもう半ばあげた気になっています。
 本人は理解しているかどうかは分かりませんが、彼女は受けたと信じる信仰の原則を用いたので、現実がそのようになってきたのです。
 マルコの福音書11章にはこのように書かれています。「神を信じなさい」「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(2224節)
 すでに受けたと信じるその信仰を頂くということが信仰には必要です。信仰には行いが伴うのです。
 ヤコブの手紙2章26節には「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」と書かれています。信仰は必ず行いと共に働くものであるというのが聖書の主張です。
 娘は、既に受けたと信じたので、状況はその通りに向かいました。確かに、信仰は行いと共に働くのです。祈ってすでに受けたと信じるならば、そこに純粋な信仰が宿り、その信仰は現実世界において、強力な受ける力となって、あなたの前に道を開きます。
(イスラエル北野)

み声新聞2018年7月1日号(第996号)より転載—

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