2024年12月26日木曜日

リバイバルについて

 私は、1980年代の半ば、アメリカ主導のゴスペル全盛期に、主イエスを信じて救われました。ウオークマン(携帯音楽プレーヤー)をポケットに入れ、賛美を聞きながら、いろいろな道を歩いて回りました。深い慰めや力が注がれて、救われて間もないにもかかわらず、ご臨在さえ知るようになりました。霊歌もまた不思議で素晴らしく、イエスさまをより近くに感じました。

 いつの事かは忘れてしまいました。しかし、そう遠くはならないうちに、「リバイバル」という言葉を知るようになりました。それは、「復活」という言葉で、映画で過去に人気のあったものを「再流行」として、改めて用いられるそんな意味もあります。

 私たちにおいて、「リバイバル」は憧れです。イエスさまが来られた時と同じような力あるわざがなされるのではないか。死人はよみがえり、病人はいやされ、しるしや奇跡が現されます。こんなみわざ、私も見てみたいと、ずっと祈り求めてきました。多くの聖徒たちも祈り、その日を待ち望んでいます。

 「リバイバル」と呼ばれるような不思議なみわざは、最近では、アズベリー大学で起こった神の働きを挙げることができるでしょう。祈りが止まらず、みな夜も家に帰ることもなく、祈り続け、神の栄光を見ました。素晴らしい働きではあったのですが、「リバイバル」とは認定されず、その後、元の状態に落ち着いていると聞いています。

 また、少し前には、「トロントブレッシング」がトロントで起こりました。ホーリーラフィングに代表される解放やいやしがありました。これに関しては、神から来たものと、他の霊から来ているものとを見分けるように、というコメントが教会で語られました。テサロニケ人への手紙第一5章21節にも「すべての事を見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」と書かれています。霊的なものと実際的なものを見分けることは、正しく主に聞き従うためにはとても重要です。

 どんなリバイバルが来るのでしょうか。以前本で読みましたが、ある建物が焼けていると消防に連絡が入ったそうです。彼らが到着すると、火は消えないのです。建物もそのままで焼け落ちる被害がありません。何なんだこれは、と皆が集まって来て、不思議に思う中、「リバイバル」が起きたという実話があります。

 恐らく「リバイバル」は私たちの思いもしない形で来るのではないかと思います。というのも、使徒の働き2章をお読みください。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」

 これは、ペンテコステとして知られる神の「聖霊降臨」の日のことです。炎のような分かれた舌が現れて、一人一人の上にとどまる、というのは、ちょっと想像がつかない光景です。しかも、一人一人他国のことばで話しているのです。

 これから始まる後の雨「終末のリバイバル」はこれを受け継ぐものとなるでしょう。さらに大きな神のみわざを起こすとイエスさまは約束されました。教会ではリバイバルは既に始まっていると語られています。私たちは今、「終末のリバイバル」に最も近い所にいます。その信仰を用いてさらに「リバイバル」を期待しましょう。

 「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク書2章3節)

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年12月18日水曜日

 神の愛と守り

 祈りの戦士である某牧師は、一日に少なくとも8時間は祈る祈りの器です。素晴らしい主の働きであると思います。その牧師は、祈りに関しては、捉えることは三つだ、とよくおっしゃっていました。すなわち、祈りの中で「GO」「STOP」「WAIT」、このいずれかを捉えるのだといいます。「進みなさい」「やめなさい」「待ちなさい」これらを忠実に行うことによって、主のみこころの答えの捉えがより正確になったと語っておられました。

 私はというと、まだまだ研修中です。確信を持って進む時と、不安や恐れによってやめる時と、みこころかどうかがはっきりするまでさらに神のみこころを祈り求める時と、やはり三つをポイントとして、神のみこころを求めています。このことを始めてから、より神さまのみこころを知るようになりました。神の心を我が心とする、という土台があってこそ、神の声を正確に聞くことができるのです。

 また、神さまは、決して無口なお方ではありません。私に身の危険が迫っていた時、超自然的な方法を用いて助けてくださいました。私は聞く耳が育ってないのに「危ない。行ってはならない」という強い語りかけで、危険から守られたという激烈な体験を持っています。

 詩篇116篇の6節に、「主はわきまえのない者を守られる」という約束があります。ある時から、それを自分に対する神のことばとして受け取りました。私は、本当に「わきまえのない者」です。お調子者で恐れを知らず、心の赴くまま好き放題をしていました。隙だらけの人生であったと思います。しかし、主は守ってくださいました。

 数年前になりますが、催眠商法というのでしょうか、街を歩いているとティッシュを配っていたので、受け取りました。「道路の向こう側にもっといいものがあるよ」と言われたので、行ってみました。すると弁当袋やキャラクターグッズがありました。好きなのを取っていいよ、と言われたので弁当袋を取りました。すると、もっと良いものがもらえるから、賃貸の貸しスペースに来るよう勧められたのです。

 その言葉を聞いた瞬間、「危ない」という今までに聞いたことのないほど強い主のストップが来て、全身が恐れ、膠着(こうちゃく)しました。命を取られるような「危険」があることをはっきりと示されたのです。多分、人から見えない所で恐喝して、力ずくで、高価な贋作(がんさく)を買わせるつもりであったのでしょう。行く人と行かない人と主が人をかき分けてくださったので、そこから私も逃げていきました。恐ろしかったので、尾行されないようあちこちに寄りつつやっと自宅に帰ったのです。後にそれは催眠商法だと知り、わきまえのないものを守ってくださった主に改めて感謝致しました。

 これらのことから、本当に危機が訪れた時、主が唯一の頼みであることを学びました。主は、ご自分のいのちを捨ててまで、私たちを救いに導いてくださった愛なる方、力強いお方です。私たちの行く道をすべてご存じで、すべての者がご自身の元に立ち返るようにと、日夜働いておられます。

 まもなくクリスマスです。その主人公イエス・キリストは私たちを救いにあずからせるため、私たちのすべての罪を担い、十字架で死んでくださいました。そして、3日目に復活されました。このイエスの贖(あがな)いを信じる者は、永遠のいのちを受けます。この方を私たちに下さったことが何よりも深い神のご愛ではないでしょうか。

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年12月11日水曜日

 たった1人のクリスマス

 最近、主婦として疲れを覚えるのです。何かといえば、スーパーマーケットでの買い物です。今の季節では、クリスマスソングが大音量で流されており、キラキラしたツリーが飾られ、チキンの広告やケーキの申込書がそこかしこに置かれています。

 そうかと思えば、気の早い店はもう、お正月のお餅がタワーのように積み上げられており、お正月の歌が流れています。マーケットにはほとんど毎日行くので、もう耳にタコができるほど曲を聴かされました。こういったイベントが一年365日続くのです。バレンタインデー・ホワイトデー、卒・入学式、母の日・父の日、お彼岸、敬老の日、恵方巻、おせち料理など、ありとあらゆるイベントが考え尽くされ、少しでもユーザーの財布のひもを解かせるよう、鳴り物入りで宣伝しています。これを聴く度に、そろそろ私も疲れてきたかな、と思うのです。

 さて、クリスマスというのは、昔は教会が行うものでした。それが、友人間で持たれ家族で持たれ、何と当地では町内会でさえクリスマス会を行います。プレゼントの交換、キャンドルサービス、そしてクリスマスソング、とすべてが目新しかった教会のクリスマスはどこへ行ったのでしょうか。最近のクリスマスは、パーティーなのです。1年で1番大きな、そして特別なパーティーであるのです。それゆえ、この日をプロポーズの日にする人も大勢います。実際のところは、これは太陽の復活を祝う冬至の祭りなのです。

 一般的にクリスマスは「イエスさまのお誕生日」として祝われています(本当の誕生日は別な日です)。ルカの福音書2章ではこう書かれています。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節)。野宿する羊飼いたちに御使いがこのように告げると、たちまち、多くの天の軍勢が現れて、神を賛美して言いました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(13、14節)。静かで清らかなご臨在のうちに救い主の誕生を祝う、これがクリスマスではなかったでしょうか。

 ところが、今のクリスマスはサンタクロースこそ頻繁に出てきますが、教会にでも行かない限り「イエスさま」は出てきません。宗教色を無くしたほうが人は集まりやすいからかもしれません。でも、私にとっては、イエスさまの無いクリスマスは、餡(あん)の入っていないあんぱんのようです。1番大切なものが失われているように思います。クリスマスの主役は他でもないイエスさまなのです。

 何年か前、友人がうれしい便りをくれました。そこには、「今年のクリスマスは、久しぶりに、聖書を読もうかなと思っています」と書かれていました。そこで思ったのですが、聖書を開くだけの自分1人のクリスマスというのもまた良いものではないでしょうか。聖書のことばはいのちのことばであるので、必ずあなたに触れることばがあります。そしてそれこそ神があなたに下さろうとしている贈り物です。

 心を主に向け、主の声に耳を傾け、祈りの部屋で静まりましょう。がやがやしていると主の声がかき消されてしまいます。たった1人のクリスマス。聖書だけのクリスマス。ごちそうも食べないのに、深く満ち足ります。

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月11日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年12月5日木曜日

 永眠

 この季節になると、毎年喪中欠礼の葉書が届きます。何某が何歳で「永眠」しました、という一文を見ると、いいようのない思いが胸に去来します。ご遺族さまには誠に残念なことで衷心よりお悔やみ申し上げます。

 「永眠」という言葉はまことに美しい日本語だと私は思います。今まで何日も何年も、眠っては目を覚まし、また働く、その繰り返しがあって、やっともう覚めることのない永遠の眠りに、その安息についたのです。その人生に敬意を表し、ゆっくりお休みください、という思いになります。誰であっても人生の最期を迎える時が来ます。2度と覚めない眠りにつきます。だからそれを「永眠」と呼ぶのです。決してあからさまに「死」にました、とは言いません。文末には、そこにも触れてみたいと思います。

 天国にはその人がどういう生涯を送ったかを記録した本があると言います。また、天国にはそれとは別に「いのちの書」という本があり(ヨハネの黙示録20章12節参照)、これには、イエス・キリストを自分の救い主と信じた人々の名が記録されています。あなたが、世に生きていた間に主イエスさまをご自分の救い主として信じたなら、間違いなくあなたの名前もこの書に記されています。そして「この者は、イエスを主と告白し信じた。それゆえ、この者の一切の罪はキリストの十字架によってすべて無効である」「天国に入ってよし!」という宣言の声を聞くのです。

 長短ありますが、おのおのににこの世における人生があります。神が下さった地上での生涯です。この時間をどのように用いたかが、神さまが人に問われるところだと聞いています。神のみこころをわが心として行い、祝福のしるしに朽ちぬ冠を授けてくださることもあります。冠は、永遠の評価、神の評価です。天では天での報いがまたあるのです。人生を神のために用いる者は幸いです。その者は決して後の日の報いに漏れることはありません。

 さて、冒頭で私は、「永眠」について言及しました。覚めることのない眠りの意ですが、しかし、正確には「永眠」した死者は一度よみがえります。それはおのおのが神のさばきの前に立つ「最後の審判」の時にです。

 ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「海はその中にいる死者を出し、死もハデス(黄泉)も、その中にいる死者を出した。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。『いのちの書』に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(20章13、14節)

 この箇所で、海の中から、死の中から、ハデスの中からたくさんの「死者」が出されたことが分かります。彼らは「死者」でした。「永眠者」でありません。そして、死とハデスは火の池に投げ込まれ、先ほどの「いのちの書」に名が記されていない人物、すなわちイエスの救いを受けなかった「死者」もみな火の池に投げ込まれました。これは「第二の死」と呼ばれるものです。

 「第二の死」というものがあるなら、当然第一の死というものがあったはずです。あくまで私の推論であり、全員に当てはまるかどうかも未定ですが、第一の死とは「肉体の死」です。ちりから出た人はちりに還ります。私たちが失うのは肉体だけです。

 また「第二の死」は、イエスを信じなかった者たちへのさばきでもあります。海から死からハデスからすべての「死者」が出され、神による最後の審判を受ける時、神は人の霊魂(れいたましい)の価値を測られます。神に従ってきた者とそうでない者がいます。前者には永眠が、後者には火の池が用意されています。

 イエス・キリストにあって永眠した者たちは、今、休みを得ているのではないでしょうか。御使いの号令とラッパの音で目が覚め、天に引き上げられるまで休んでいるのです。そして、ヨハネの黙示録にあるこの「第二の死」こそ、本当の意味での最終点である「死」であるのではないでしょうか。

 聖書には、さばきと赦しという二つのものがその根幹にあります。その二つを一つにされたのがイエスさまなのです。十字架の主を信じ、永遠のいのちにあずかりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年11月28日木曜日

300人の戦争

 戦争といえば、千人・万人の人々の戦いを思い浮かべるのが通常でしょう。ところが、神は驚くような勝利をわずか300人でもたらせたという実話があります。

 イスラエルが主に聞き従わなかったゆえ、主は7年の間ミデヤン人やアマレクがイスラエルを荒らして戦陣を敷いたので、イスラエルは国力が落ち、イスラエルの民は、主に叫び求めました。

 そこで、士師(さばきつかさ)として起こされたのは、ヨアシュの子ギデオンです。彼は、ミデヤン人から逃れて、酒(さか)ぶねの中で小麦を打っていました。私たちと同様、ミデヤン人を恐れていたからです。そこに主の使いが現れて「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」と言いました。ギデオンは、「ああ。主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか」(士師記6章、7章参照)

 主は次のように言ってくださいました。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか」。ギデオンの分団はマナセのうちでもっとも弱く、しかも私ギデオンはその中でも一番若いのです。それでも主はギデオンにねんごろに語ってくださいました。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう」

 ギデオンは、神が彼を用いてなされようとしていることに一つ一つ祈りの確認を取り、いよいよ戦いが始まろうとしてきました。彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷きました。しかし、そこで、主は驚くようなことを語られました。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」

 そこで、民に聞こえるよう「恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい」と言うと2万2千人が帰っていき、1万人が残りました。敵であるミデヤン人の軍隊は13万5千人です。1万人で勝つ戦いではありません。

 ところが、主は「民は、まだ多すぎる」と語られたのです。「彼らを連れて水のところに下って行け。そこで試そう。私が『この者はあなたといっしょに行かなければならない』というなら、その者は行かなければならない。『いっしょに行ってはならない』と言う者はだれも、行ってはならない。そこで、犬がなめるように舌で水をなめる者、ひざをついて飲む者も別にせよ、と主は語り「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す」と約束されました。

 300人対13万5千人の戦いです。1人につき450倍の戦いです。これを勝利に導くなんて、全能なる生ける神以外にはありません。ギデオンは300人を三つに分け、全員に角笛とからつぼを持たせ、つぼの中にたいまつを入れさせました。そして、夜番の交替時、彼らは角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫び持ち場に着いたので、ミデヤン人はみな大声をあげて逃げました。その間、主は陣営の全面にわたって同士討ちが起こるようにされ、圧倒的な主の勝利を見たのです。そしてそれは、すべて神に聞き従うことから来たのです。

 能力? 要りません。体力? 普通で大丈夫。お金? 戦闘中では役に立ちません。優れた頭脳、それは神のために用いましょう。神がともにおられるなら、300人が13万5千人を打ち破るので、あなたの問題も同様に、神による希望と解決があります。

MIKOE NEWSから転載」 2024年11月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年11月22日金曜日

 祈りの人

 これは有名な話なので、皆さんも既にご存じかと思います。ある所に、2人の仲の良い男児がいました。1人は裕福な家の子で、もう1人は貧しい家の子でした。2人は仲良しで、幼い頃から教会に通い、イエスさまを深く愛し、成人する頃には主に献身したいという思いが、この2人の内に育っていました。

 裕福な家庭に育った青年は、神学校に行くことになりました。しかし、貧しい青年にはその経済がありません。そこで、彼は、裕福な青年のそばにいて、いつも君のために祈ると約束し、それを自分の献身としたのです。事実、青年が説教などの奉仕に立つ時、目立たない所でいつも祈りをささげている彼がいました。

 やがて青年は、押しも押されもせぬ名説教者になります。神さまの素晴らしいみわざが現され、その働きは豊かに祝福されました。多くの人々が青年を通して救われていきました。

 こうして長年にわたって多くの神のわざが青年を通してなされました。ところが、そうこうする中で、祈りをもって青年に仕えた彼がまさかの急逝。彼は召天しました。そしてそこから次第に青年のご奉仕の様子が変わってきました。なぜか以前のような力が失せてしまい、特別な聖霊のお働きも、ご臨在も、薄くなってきたかのようでした。

 悩んだ末、ようやく青年は、幼なじみの彼の祈りが自分の奉仕の働きを支えていたことに気づいたのです。自分を通して主のわざが起こると、人は、無意識の内に自分を称賛する者です。俺はやっぱり優れているのだ、大説教者なのだ、と。誰かが祈ってくださっているからこの祝福があるのだ、という視点を持つ人はまれです。それゆえ、主は青年の親友である彼を取り、これによって青年に真実を教えたのです。自分には誇れるようなものは何一つないと知った青年は、高ぶりから離れました。そして再び講壇に立つことができたのです。

 さて、キリスト・イエスの忠実な祈り手という献身者は今日でもこの社会にいます。自分の報いを求めず、ひたすら神のご栄光が現されるよう日々祈っています。祈りは隠れた所での奉仕なので目立ちません。表に出ることはほとんどありませんが、それでも彼らは十分満足なのです。祈り手の報いは主であり主を知ることであるので、彼らは喜んで祈りの手を上げ、日夜主に仕えています。

 マタイの福音書6章には、次のような一節があります。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6節)

 あなたの父とは、神ご自身のことです。神もまた、隠れた所におられるのであって、奥まった部屋で祈るあなたとの1対1の祈りを通して、あなたの声を聞き、応えてくださいます。何というご愛でしょうか。主は私たちを信頼し、寄り添ってくださっているのです。「祈りの人」の報いは主だというのも納得されるでしょう。

 献身にはいろいろな形があります。「説教者」「預言者」「祈り手」…など、それぞれ一人一人がなす働きは異なります。そして、一つ一つのパート(部分)がイエス・キリストを頭(かしら)として、互いに組み合わされるようにして、教会は一つのみからだとなるのです。神は一人一人に召しを与え、隠れた所でその召しの全うをご覧になっておられるのです。

 人の目に見えようが、見えまいが、主はあなたの奉仕を知っておられます。そして、必ずその奉仕に報いてくださいます。この真実なる主に期待して、それぞれの働きにまい進しましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年11月22日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年11月13日水曜日

風が変わり始めている

 1990年、1歳の娘とともに家族3人で、個人的にイスラエルを訪ねる機会がありました。この旅は、私たちにとって非常に重要なものでした。黙示録4章から「ここに上れ。この後、必ず起こることをあなたに示そう」(1節)ということばが与えられていて、この後必ず起こることって何であるのか、私は思い巡らしていました。

 その中で、示しと導きによって、イスラエルのホロコースト記念館に行きました。ちょうど、なだらかな山の頂きにそれは建ち、そこでは幾つかブースが設置されており、ユダヤ人がたどって来た迫害の歴史の歩みが写真などとともに時代ごとに展示されています。

 さっそく一番目のブースに足を踏み入れたところ、何とそこで私を迎えたのは、大きく引き伸ばされたヒトラーの肖像写真であったのです。衝撃が走り、一瞬のうちにこれを見、悟りました。「あなたの時代に再びヒトラーのような人物・反キリストが出る」こと。そしてこれは「この後必ず起こることなのだ」と。反キリストが出るのはまだまだ先だと思っていた私は、この示しに驚き、恐れました。

 ユダヤ人に対するホロコーストはどこから始まったのかというと、ヒトラーの台頭からであると、既に学術的に分析されています。黙示録において神が語られた「この後必ず起こること」とは、ヒトラーをひな形とする反キリストの台頭であり、彼の指示による迫害です。その時代は遠くなく、あなたが生きているこの時代にそれは起こる、神はそう語られました。ですから、その日を境に私の霊の焦点は、患難時代に向きました。反キリストは誰であるのか、心密かに探していますし、迫害に耐え、信仰を全うできるよう祈っています。

 また、世には世の終わりを計る世界終末時計というものがあります。2023年1月24日に発表されたところでは、現在は世の終わりまで残り90秒であるそうです。2022年から比べると10秒短くなっています。戦争やコロナの問題が重く見られた結果だと言います。いずれにせよ世の終わりが近いことは、今や周知の事実です。

 また、ロシアが一方的にウクライナに宣戦布告して以降、戦争が始まり既にイスラエルとハマスは血みどろの戦いを繰り広げ、ひいてはアラブ諸国とイスラエルとの戦いに発展するのではないかと、世界を巻き込むほどの勢いで、戦争が拡大しようとしています。

 しかし、終わりはすぐには来ません。聖書によると、やがて中東の包括かつ恒久的な和平を結ぶ政治家が出ることが書かれています。この人物こそ反キリストです。彼はヒトラーのように、最初は民衆から絶大な支持を受けます。しかし、やがて本性を現し聖徒たちを迫害し、ついにはエルサレムの神殿に神の座を設けて、そこに座し自分こそ神であると宣言します。そして、彼の政治を助けるのが偽キリストです。

 聖書の預言書によると、中東包括和平が結ばれてから、最初の3年半の患難時代と、その後の3年半の大患難時代を経て合計7年の、最後の時代(1週)があります。その7年が満ちる日にイエス・キリストはオリーブ山に再臨されます。主は来臨の輝きと御口の息をもって、反キリストや偽キリスト、サタン・悪霊を滅ぼされます。また、今のこの天地は火によって焼き尽くされ、無くなってしまいます。しかし、天から新しいエルサレムが下り、いわゆる千年王国の時代と新天新地を迎えます。御座に着いておられる方は「見よ。わたしは、すべてを新しくする」(黙示録21章5節)とも「事は成就した」(6節)とも語られています。すべて黙示録に書かれている通りに事は実現するでしょう。

 先日、アメリカの次期大統領として、トランプ氏が選出されました。外交、特に中東包括和平への取り組みが期待されています。今、彼は圧倒的な支持を集めています。後のことは分かりません。それゆえ、目を覚まして世の終わりに備えましょう。ここに来て、風は大きく変わり始めています。主の来られるのが近いことを知り、あなたも主イエスの救いを信じましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年11月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/



2024年11月6日水曜日

しつこさ

 私の妹は、誰に似たのかとてもしつこいところがあります。世には「一念岩をも通す」という語がありますが、妹は一念を抱くと、岩を通すまでしつこく粘るタイプです。決して簡単には諦めません。

 目下のところ、彼女の一念は母の心臓病のいやしにあります。母の体調が優れないとすぐに電話がかかってきて、母のために祈ってちょうだいと催促します。ところがこれがまた、こちらが辟易(へきえき)とするほどしつこいのです。私も私なりに祈っていますから、あたかも祈ってないかのように催促されると、さすがに良い気は致しません。

 ところが、妹はそんなことお構いなしに、なおもしつこく食い下がってくるのです。「頼むよ。絶対祈ってね。完全にいやされるようにだよ。お願いよ」等々。気持ちは分かりますが、押しつけがましいところが正直ウザく感じることもあります。しかも、身内である私に求めるならともかく、既に私の知らない所で、いろいろな方々に連絡しては「母がいやされるようお祈りください」とお願いしているようなのです。それを知って、驚き呆れました。

 妹にしてみれば、なりふり構わず、ともかくいやされてほしいという一念で助けを求めたのでしょう。彼女の素は粘り強く、しつこいのです。でも、そのしつこい願いを嫌がることなく聞き届け、善意をもって実際祈ってくださった兄弟姉妹には心から感謝致します。祈りによって、母は多くの病をいやしていただきました。

 しつこさということにおいては、ルカの福音書11章に興味深い記述があります(5~9節参照)。ある人が、真夜中に友だちのところに行きパンを三つ貸してくれと頼みます。旅の途中、友人が来たのに出してやるものがないのだというのがその理由です。友だちは、「めんどうをかけないでくれ。戸締りをして寝ているので、起きて何かをやることはできない」と断ります。それに対してイエスさまはこう言いました。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」。しつこく求めることは友情に頼るよりも勝るのです。しつこく求めて粘るなら、忍耐の末に必ず約束のものを手にします。

 他にも、スロ・フェニキヤの女と呼ばれる人物が、イエスさまの称賛を買いました(マルコの福音書7章25~30節参照)。ギリシャ人である彼女には、汚れた霊につかれた小さい娘がいました。女は自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスさまに願い続けました。しかし、イエスさまはつれなく「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と言いました。ユダヤ人を後に回して、異邦人にわざを行うことはしないよ、ということです。

 しかし、お母さんはそのことばにひるむことなくこう言いました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」イエスさまは、「そうまで言うのですか」と驚嘆され「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」と言われ、その通りになりました。

 しつこいことは大概、人には嫌われます。しかし、神においてはそうではありません。神はしつこく求めることに信仰を見てくださり、その信仰に報われるのです。それゆえ忍耐を働かせ、しつこくまた粘り強く神に祈り、神の解決を求めていきましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年11月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年10月30日水曜日

 認知症

 一昔前には「痴呆」と呼ばれていた老年期の衰えを、最近は「認知症」と呼び、国を挙げてその取り組みがなされるようになってきました。以前は還暦を迎えると、第一線から退き余生を楽しむご隠居さんになるのが常でした。けれども、今は60歳が仕事に新規採用されるという時代です。70歳を超えてなお第一線で仕事をしている人も珍しくありません。瀬戸内寂聴さんは99歳まで、日野原重明医師は105歳まで生き、最後まで現役で活躍されました。還暦を越えてさらに約40年の年月を壮健に生き、なおかつ仕事を続けられたのです。これは特筆すべき快挙であると思います。

 医学の進歩とともに、老年期は相当長いものになりました。そして、人生の幕引きをどうするかという、今までにはなかった課題が出てきています。昔と違い簡単には死ねない時代になったのです。

 私には、86歳になる母がいます。神に守られ長寿の恵みにあずかっており、衰えたとはいえ、まだかくしゃくとしています。けれども最近、何かの拍子に「あれっ?」と小さな物忘れをすることがあるようです。さすがに「認知症」ではないようですが、これから老いと向かい合うことが増えてくるだろうと思います。

 「認知症」は、回復が難しい進行してゆく病気です。Aさんは「認知症」の奥さんとともに生活されています。奥さんはご飯を食べ終わったばかりなのに、「そろそろ食事にしようか」と言うのだそうです。今したことを、もう忘れています。「まいっちゃうよ」とAさんは苦笑しておられました。今は、「認知症」を予防する薬はありますが、発症した「認知症」を治療する薬はありません。当人が何をするか分からないので片時も目が離せません。しかも、今の長寿社会では往々にして老老介護になるので、看る人の負担も決して小さくありません。

 「認知症」は人間の尊厳にかかわる病気だと思います。程度にもよりますが「認知症」になったら、脳の老化で、持っていた記憶をどんどん失っていきます。その人にとってどれほど大切な情報であっても、だんだんそれを理解することが困難になってきます。症状がひどくなると、自分自身に関しても、自分が何者なのかということさえも忘れてしまいます。それでも、天に召されるその時まで、忍耐を持って生き続けてゆかなければならないのです。誰に自分を任せばよいのか。また、自分のこともいつまで自分で覚えていられるのか。こんな不安とも戦っているのです。そしてついにはそのことも忘れてしまい、「恍惚(こうこつ)の人」になります。こういった病気です。ただ、どんな状態になってもイエスさまは私を守ってくださる、こう信じることがそれらの人の慰めとなり、心のよりどころとなり、ひいては治療ともなります。

 この中で求められるものは、神への信頼です。全能なるお方は、昨日も今日もいつまでも同じです。私たちのことを常に変わらず愛してくださっています。イザヤ書46章にはこんな記述があります。「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(3、4節)

 神の愛は実に深いのです。神は決して私たちを捨てたりはしません。胎内にいる時からしらがになった今に至るまで、神はずっと私たちを背負ってきてくださいました。そして、これから先も救い出してくださると約束してくださっているのです。たとえ「認知症」を患う事態になったとしても、変わらぬ神は変わらぬ愛を注いでくださいます。恐れに変えて平安を下さり、お約束通りすべてを益にしてくださいます。時には苦しみがあるでしょうが、その中で私たちは神さまとその助けを今まで以上に見ていくでしょう。神さまから頂いた私たちの人生です。死に至るまで主を信頼し、地上での一時(いっとき)の生涯を全うしていきましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年10月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年10月23日水曜日

 試練を受けるコツ

 聖書の使徒の働き21章を読むたびに、手に汗を握る思いを致します。パウロのことですが、ユダヤ人に受け入れられるために、あなたが律法を守って正しく歩んでいることが分かるよう、ここにいる四人の誓願を立てている者たちと共に身を清め、彼らが頭をそる費用を出してやりなさい、という提案がなされました。

 パウロはこれを受け入れ、清めの期間を終え、その7日間がほとんど終わろうとしていた時のことです。アジヤから来たユダヤ人たちがパウロが宮にいるのを見て、全群衆をあおりたて、パウロに手をかけ叫びました。「この男は、この民と、律法と、この場所に逆らうことを、至る所ですべての人に教えている者です。そのうえ、ギリシヤ人を宮の中に連れ込んで、この神聖な場所をけがしています」。これを聞くと町中が大騒ぎになり、人々は殺到してパウロを捕え、宮の外へ引きずり出し、ただちに宮の門が閉じられました。

 アジヤから来たユダヤ人は、エペソ人トロピモが町でパウロと一緒にいるのを見かけたので、てっきりパウロがこの異邦人を神聖な宮に入れたと誤解したのです。もうあとわずかで、すべてうまくいくというところで、よりによってこんな事件が起こったのです。皆さんにもこんな経験ありませんか。

 教会のある海外宣教チームで起きたことです。飛行機がトルコでトランジットのために着陸すると、そのタイミングで、クーデターが起こりました。大統領が「同志よ。空港に集まれ」と呼びかけたものですから、まさに飛行場はクーデターの舞台となってしまいました。あと少し時間がずれてさえいれば、何も問題なくトランジットを終え成田に飛び立ったか、あるいはトルコに着陸することなく安全な空港へと行先を変えたことでしょう。なのになぜこんな状況に置かれたのか? 私には分かりません。でも、神さまは、こういうことをあえてなされるのです。

 ある時A牧師は、K国の宣教のために空港に向かっていました。ところが途中で、パスポートや現金、チケットの入った鞄を電車に置き忘れてしまいました。つまり渡航できなくなったのです。すぐさま感謝をささげておられましたが、当人にとってはショックだったと思います。けれども、感謝をささげたあたりから、神の手が動き始めます。常識では見つからないはずの鞄が見つかり、しかもパスポートも現金も無事でした。飛行機のチケットも無料で翌日に変更してもらえ、結局1日遅れでK国に着きました。そして、試しがありました。神が「今リコンファームに行きなさい」と語られたのです。それでそう言うと、「まずホテルに行きましょう」と返され、ついにはけんかも辞さない勢いで「リコンファームに行ってください」と言い、押しました。そして、手続き先のホテルで、長い協力関係となるB牧師に出会うのです。それは、まさに神のタイミングでした。

 考えてみれば、起こった事すべてはこのB牧師と出会うことへのサタンの妨害と読むことができるでしょう。であればこれは圧倒的な勝利です。確かに、到着は1日遅れました。しかし、このチームにおける神のみこころはすべて果たし終えたのです。問題が起こった時には取り返しのつかない失敗のように見えました。けれども、脱出の道が用意されすべては益となったのです。

 このように、神さまはあえてあと少しというタイミングで、私たちを困難や試練に落とされることがあります。必ずしもその理由が理解できるとは限りません。それゆえ、試練を上手に受けるコツをお分かちしましょう。それは悪いと思われる出来事を徹底して感謝することです。試練や失敗は祝福の前触れだと信仰に立つことが一番の対処法です。気落ちしてはなりません。すべての道に「神の計画」があるのです。試練を正しく乗り越えれば次の段階が来ます。問題の中にこそ奇跡的な神の介入があるのです。神はそれらを用い、ご栄光を現してくださいます。

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」(ヤコブの手紙1章2節)

MIKOE NEWSから転載」 2024年10月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年10月17日木曜日

『時』について思うこと

 幼い頃、浦島太郎のお話をよく聞かせてもらいました。ご存じの方も多いと思います。浦島太郎が砂浜で子どもたちに乱暴されていた亀を助けたところ、恩返しに亀に連れられ竜宮城に行きました。そこでは、乙姫さまがいて、盛大な祝宴が設けられました。それはもう楽しくてあっという間に3年の月日が過ぎました。ある日、両親のことを夢で見た太郎は家へ帰ることを決意します。別れ際、乙姫様は太郎に玉手箱を渡し言います。「決してこの箱を開けてはなりません。人間の一番大事な宝が入っていますから」

 浦島太郎が、帰ってみると何と300年の年月がたっていました。さみしさのあまり、太郎は開けてはならないその玉手箱を開けてしまいます。一番大事な宝、それは寿命だったのです。玉手箱から立ち昇る煙の中で太郎は瞬く間に白髪の老人となってしまいました。

 幼い頃は、その結末がとにかく恐ろしかったです。竜宮城での3年が、人間社会では300年もたっていたというタイムラグの話に、それまで経験しなかったような怖さを覚えました。浦島太郎の話はあくまでも物語です。しかし、これは実際あり得ることだそうです。アインシュタインの特殊相対性理論は、これを証明しているとも言われています。同じ「時間」であっても速度というのはどこで観測するかによって変わります。しかし、光は例外でどの立場で観測しても光の速度は「光速度不変の原理」で同じだそうです。それゆえ、私たちの移動速度が光速に近づけば近づくほど私たちに流れる時間は遅くなるというのです。これを「時間の相対性」と呼ぶそうです。

 「時」とは、何と壮大なものでしょう。「時」は神さまのもの、神さまと切り離せないものです。過去、現在、未来と「時」は一方通行で流れていきます。戻ることも、立ち止まることもできません。神さまが「時」を終わらせない限り、「時」はどこまでも進行し続けます。そして、時を知ることは神を知ることにつながります。ソロモンの伝道者の書3章1節には「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」と書かれています。また、同11節では「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」とも記されています。

 私は「時」は強力な「力」であると思っています。というのも「時」が来れば、どんなに変わるまいと思っていたことさえも変わるからです。かつてドイツは二つに分かれ「ベルリンの壁」がそれを仕切っていました。東ドイツはソ連をバックにした社会主義国に、西ドイツは米英仏などとともに資本主義国にと、一国が壁を隔てて二つに分断されていました。この壁がなくなることは絶望的だと多くの人が思っていました。けれども1989年11月9日、この壁は崩れました。神の「時」が来たのです。

 また、ソ連も社会主義国でしたが、ゴルバチョフ政権のもと、1991年12月24日に、ソ連は崩壊し、その名もロシアに戻りました。人の目には遅いと見えても、神の時は必ずやってくるのです。また、大きな事ばかりではなく、個人においても、立ち直れないほどつらいことがあっても、「時」がその人をいやすことを数多く見てきました。

 神さまは問題を通して、私たちに永遠への思いを与えてくださるのです。問題があったというのは、何かが悪いというのではなく、神を見出すために神が置いておられるものなのです。確かに神の「時」を待つには非常な忍耐が必要です。けれども必ず「時」は来ます。そして、やがてはすべて過ぎ去っていきます。ペテロの手紙第二3章8節には「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と書かれています。全能なる神は、時を支配されるお方です。私たちは、私たちの目をこのお方に向けましょう。

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2024年10月9日水曜日

 サタンに勝利するには

 サタン(悪魔)とは、「神の敵」を意味する言葉です。サタンは神の働きを妨害してきます。ローマ人への手紙1章13節で、パウロは神のみこころと確認して、ローマに行こうと何度もトライしたにもかかわらず、サタンがそれを妨げたということが書かれています。神のみこころが大きければ大きいほどサタンもまたそうさせまいと強く働きます。21世紀の今でもこれは同様です。サタンは無害な空想上の存在ではなく、現実の存在です。神の計画をつぶそうと今も昔も働く残虐な人殺しです。そして、自分を隠して動くので、サタンなんていないと多くの人がだまされています。

 クリスチャンになったばかりの頃、私はサタンにどう対応していけばよいのか分からず、またサタンを恐れていました。おかげで私は好き放題サタンに翻弄されていました。しかし、ある時、韓国から来られた崔子実牧師の一言で認識が変わりました。崔先生は「サタンは気のふれた野良犬と思いなさい」。まずこうおっしゃいました。

 気のふれた野良犬の前に玄関を開くなんて馬鹿なことはおよしなさい。開けてしまうと勝手に上がり込んで、家中を荒らしたいだけ荒らすから、犬には命じなさい。去れ!と𠮟りつけ、家から去るよう命じなさい。

 その話を聞いてから私は変わりました。私なりにふに落ちたのです。サタンは狂犬で、そんなものをまともに受け入れたら馬鹿を見ます。狂犬なら狂犬に対する扱いをするのが正しいのです。そして思い出しました。イエス・キリストを信じ救われた私は、イエスさまの御名を頂いています。主の御名には権威があります。私たちが御名によって命じるなら、サタンはそれに従わなければなりません。私たちの後ろにはイエスさまがいるのです。

 また、神さまとサタンの関係は同列ではなく、神さまは創造主でありサタンは被造物です。両者には、絶対的な開きがあります。いくらサタンといえども神の許しなくしては、何もすることができないのです。ましてや神は「試練とともに脱出の道も備えてくださ」る愛なるお方です。私たちを「耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません」(コリント人への手紙第一10章13節)。たとえ苦しみを受けることがあっても、クリスチャンは神さまによって、守られているのです。

 ヤコブの手紙4章7節にはこのように書かれています。「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」

 サタンとありのままの私たちでは、サタンのほうが能力があるでしょう。知恵比べでは、私たちよりサタンが上をいっていると思います。それゆえ私たちの知恵で、サタンに勝とうとしても負けます。ですから、「神に聞き従う」ことを聖書は言っているのです。御声に聞き従うなら、その戦いはあなた自身の戦いから神の戦いに変わるのです。私たちが神が言った通りを行うからです。起こってくる問題や試練を恐れることは分かります。しかし、敵(サタン)に背を見せることだけは、決してあってはなりません。

 立ち向かうのです。これが答えです。逃げると犬はいよいよ大胆になって追いかけてきます。しかし、きびすを返して立ち向かうなら犬は逃げ去って行きます。イエス・キリストによって私たちは今既に勝利者です。神に従いサタンに勝利しましょう。

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2024年10月2日水曜日

マルタとマリヤ

 イエスさまが愛された二人の姉妹がいます。姉の名はマルタ、妹はマリヤといいます。姉妹といっても、性格は全然違います。正反対な性質を持っていました。

 ルカの福音書にその一部始終が書かれています(10章38~42節)。イエスさまご一行がある村に入ると、マルタは喜んで家にお迎えしました。そして、あれこれともてなし始めたのです。料理はもちろんのこと、飲み物を用意したり、足を洗うための水も備える必要があったでしょう。それはもう、猫の手も借りたいほどの忙しさであったのです。

 一方、妹のマリヤは何をしていたかというと、主イエスの足元にすわって、じっとみことばに聞き入っていたのです。こんなに忙しいのに、手伝いもしないで何やってるの!マルタは、頭に来ました。いろいろとおもてなしのために気が落ち着かなかった、と聖書には書かれています。憤ったマルタは、ついにイエスさまに苦情を申し上げました。

 「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」

 それに対してイエスさまはこう語るのです。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」

 人をもし、マルタタイプとマリアタイプと二つに分けるとしたら、私は間違いなくマルタタイプです。だから、マルタの気持ち、よく分かります。彼女は善意でやっているのです。あれもして差し上げたい、これもしたい、と次々とやりたいことが噴出してくるのです。そしてそのすべてを行おうと、全力で奮闘しているのです。

 イエスさまは、その彼女の気持ちを十分ご存じです。喜んでくださっているでしょう。でも、ここでイエスさまは、大切なことを語らなければなりませんでした。それは「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ということです。その一つとは、マリヤがしていた「主の足元にすわってみことばに聞き入る」ことなのです。神のことばに聞くことこそ、どうしても必要なただ一つのことなのです。

 第一サムエル記15章22節にこのように書かれています。「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、御羊の脂肪にまさる」

 主の御声に聞き従うこと、これに勝るものはないのです。それゆえ、マリヤがみことばに聞き入っていることを取り上げてはならないと主イエスは語られたのです。

 人は自身で多くの計画を持つ者です。そして、それを成し遂げたい、と本能のように強く持っています。忙しくしていてもそれは必ずしも神の計画を行っているとは言えないのです。実は、自分の心を行っているのです。厳しい見方をすれば、マルタはおもてなしにあたって、善意からとはいえ自分の計画を成し遂げようとしていたのです。それに対してイエスのことばに耳を傾けたのがマリヤであったのです。

 祈りのうちに神の御前に神のことばを待つ、これはとても大切です。祈りの中でさえ私たちは一方的に自分が良かれと思った自分の願望を訴えていることがよくあります。これは否定されるものではありませんが、さらに優れた道として、今日、主の御前に静まりましょう。あなたのしたいことを置いて、主が何とおっしゃっておられるのか、神の声を聞きましょう。

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2024年9月25日水曜日

 世が向かおうとしているところ

 昨年後半、お米の不足ということで、米が高騰しました。売り場に行っても売っていません。それでも、新米が出たら元に戻るだろうと思っていました。ところが、意に反して米の高騰は続いているのです。以前に比べ、ほぼ倍に近い値上げです。食べるために米は買わなければなりません。となると高くても売れるのです。だから、値を下げようとせず、高く売って利をむさぼろうとしている思惑があるのではないかと考えたりします。お米だけではありません。卵も、鳥インフルエンザで殺処分したので鳥が少なくなり、手に入りにくくなったということで、値上がりしました。特売で1ケース98円だった卵は、今は240円ほどします。特売でも変わりません。他にも燃料費も上がり、いよいよ生活しづらくなってきました。

 問題があるのならそれも仕方がありません。けれども、これは捏造(ねつぞう)された生活の厳しさではないかと私は感じています。本当は豊かに神が祝福しておられるのに、不作と偽り、不正の利を得ている者がいるのではないかと感じているのは私だけでしょうか。隠れた所で世を動かしている人物が実は既にいるのではないでしょうか。いわゆる反キリストと呼ばれる者とその一派が、既に世を動かし始めているのではないかと思います。

 世の終わりが近づいているのです。21世紀になって、世界(地球)は一つというふうに意識されてきています。そして、社会のシステム自体が大きく変わろうとしています。資本主義社会から移行して、これからの社会は一握りの支配者層と、圧倒的多数の奴隷(被支配者)という構図になってゆくのではないかと言われています。そもそも彼らは、世界の人口が多すぎると考えています。ですから、多くの人が死ぬようなことを起こします。戦争もその一つでしょう。次世代における富と権力の集中、これを考え動いている連中は既にいると私は思っています。

 終わりの時代に起こってくることを、イエスさまはルカの福音書21章でこのようにおっしゃいました。自然界においては「…日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです」(25、26節)と書かれています。

 また、マタイの福音書では、「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりがきたのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです」(24章6~8節)と書かれています。

 これらのことばから、まさに今、この聖書のことばが成就しようとしていることを知ることができます。既に戦争は起こっていますし、また未曽有の自然災害や飢饉(ききん)が起きています。そして、これらはさらに激しくなるでしょう。これらが過ぎ去り、新天新地が訪れるまで、私たちは、その産みの苦しみの初めの中に入っているのです。先ほどのルカの福音書にもこう書いてあります。「そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」(31~33節)

 私たちの希望は神のことばにあります。滅びることのないのは神のことばです。再臨の主をお迎えする用意をしましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年9月25日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年9月18日水曜日

サタン

 サタンの一番の惑わしは、多くの人に、サタンなどいないと思わせていることです。創世記から黙示録に至るまで、聖書にも何度も登場しているにもかかわらず、サタンは悪の象徴だと言い、人格を持った霊的存在であることを否定する人は多いです。またサタンは、絶妙のタイミングで思索に働くので、サタンに入れられた思いを、それと気づけず自分の考えだと思っていることも珍しくありません。

 実にサタンは絶妙なタイミングで私たちに近づき、偽りを語り誘惑し、私たちに罪を犯させようと働きます。イエスさまに対してもそうでした。公生涯の初めに、40日40夜断食をされた後に、サタンは空腹を覚えられたイエスさまに忍び寄り、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」と誘惑しました。イエスさまは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによると書いてある」と聖書のことばをもって返され、サタンの誘惑に乗ることはありませんでした。他にも「身を投げてみなさい」や、「わたしを拝むなら、世の栄華を差し上げましょう」とサタンは欲にも訴え、イエスさまを誘惑しました。しかし、イエスさまは「引き下がれ、サタン。」と命じ、罪に譲歩されることはありませんでした。

 創世記の昔からサタンは働いていました。エデンの園でエバを惑わし、罪を犯させました。エバは夫アダムから「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(2章17節)という神の仰せを聞いていました。しかし、狡猾な蛇(サタン)は、「どんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか」(3章1節)と語ったのです。神はどんな木からもではなく、善悪の知識の木から、と語られていましたが都合よくここを隠し、さらに「ほんとうに」言われたのですか、の一言を加え、エバを揺るがせました。この言葉に惑わされてエバは、禁断の実がことさらおいしそうに見え始め、それを取り、夫にも与え食べたのです。こうして神のことばに背き、その罪の結果、人はエデンの園から追放されるようになりました。

 サタンは罪に働きます。私たちの罪はサタンの餌であり、サタンは巧みに思いや言葉に偽りを入れてきます。それを信じてはなりません。とはいえ、敵(サタン)は狡猾ですから、私たち人間は自分の力でサタンに打ち勝つことは難しいです。ただ神に聞き従うことだけが、サタンに打ち勝つ唯一の道です。神のことばには力があり、神のことばはサタンを打ち負かすのです。光が闇を打ち消すように、神は圧倒的な勝利でサタンを滅ぼされます。サタンは、被造物であって、神は創造主なのです。戦う前から勝敗は決まっています。いくらサタンだとはいえ、神の許しがなければ何も行うことはできないのです。このことは、ヨブ記をお読みくださると良く分かると思います。

 そして、愛です。神は私たち人をこの上なく愛してくださっています。けれども、サタンはそれだけは人に知らせたくないのです。それゆえ、神の愛に疑いを入れてくるなどは序の口で、私たちの原罪に潜む神への反抗心をあおり立て、人が神の愛を知り、神に立ち返り救われることがないよう日々努めているのです。

 しかし、神は私たちをあわれみ、世に救い主である御子イエスさまを送ってくださいました。イエスさまを信じることによって私たちは救われます。そして、神の愛を知るのです。耳にささやくサタンの言葉を聞いてはなりません。そこから出るのは偽りと欺きです。むしろ神を知ることを求めましょう。神は、求める者にはご自身を現してくださいます。そして、信じた私たちは神のことばを直接聞くことができるのです。

 神のことばこそ真実であり、また真のいのちです。今、サタンは暗躍していますが、やがて終わりの日に、神によって火と硫黄との池に投げ込まれます(黙示録20章10節)。自分の時が短いことを知ったサタンは激しく怒り、地に下りました。食い尽くすものを探し徘徊(はいかい)しています。サタンは現実です。そして、神も現実です。それゆえ、あなたも神を信じ、救いに入ろうではありませんか。

MIKOE NEWSから転載」 2024年9月18日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年9月11日水曜日

新しい出発

 詳しいことは忘れました。多分漁師のおじちゃんだったと思います。リストの「ラ・カンパネラ」が好きで、これを弾きたいという一心で、動画を見ながら手の置き方からタッチの仕方まで少しずつ入念にコピーして、何とかものにしました。それを、ピアニストのフジコ・ヘミングさんに見てもらう機会があり、ついには、フジコ・ヘミングさんのコンサートの中で前座として登場、見事「ラ・カンパネラ」を披露しました。

 感想を聞かれたところ、うれしいけれどこれでもう夢をすべて達成したので、何だかさみしい思いもあります、とはにかんだ様子で答えていました。正直な人だなと思いました。夢は私たちを育てます。目標を持つことは素晴らしいことです。でも、達成してしまうと、もう追いかける幻もなくなり、それはその人にとって一抹のさみしさを引き起こします。

 近頃、私も老いをどう生きるか、ということを考えるようになりました。老人は若い頃とは違い持ち時間が読めません。それゆえ、新たなことをしてみようという気にはなりにくいです。皆は老後をどういう風に生きているのでしょう。私の乳母とそのご主人は仏間にちゃぶ台を置いてお茶を飲みつつ、「こうしてな、私ら、お迎えを待っとるんよ」と言いました。何かをしようという思いは既に無いようで、ただ命を終える備えを日々淡々となされているばかりでした。体力気力も衰え、老人はもうお呼びじゃないと、自ら引き際を悟って過ごしているようにお見受けしました。

 いわゆる隠居生活で、日本人には多い生き方です。でもこれは、とても残念なことです。感謝の人、マーリン・キャロザース師は、70歳を超えてから新しく絵を学び始められました。とてもきれいな絵を書いておられ、ご自分の本の表紙にも使われています。いくつになっても新しいことに挑戦するスピリットには脱帽します。同じ年をとるなら、私は常に主をたたえ新しいことに挑戦するマーリンさんのような老年を迎えたいと思います。

 コリント人への手紙第二5章17節に、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と書かれています。

 イエス・キリストにある人生は、最後の最後まで生きて生き続ける人生です。なぜならイエスさまはいのちであられるからです。イエスさまを、心にお迎えするなら、人は永遠のいのちを受けます。このいのちこそ、イエスさまなのです。いくつであろうが、どんな状況であろうが、今、主イエスを信じるなら、あなたは「新しく造られた者」です。世にあっても世のものではない「神の子」として、神によって呼び出された者なのです。

 イエス・キリストを信じましょう。それは、すべてが新しくされるということです。イエスのうちにあるなら、人生のどこにあっても常に「新しい出発」があります。信じることに、遅きに失するなんてことはないのです。いくつになっても、人生に主を認めるなら、そこから始まる神と共にある人生があるのです。

 いつでもどこでも、イエスさまを認めましょう。キリストのうちにあるならすべては新しい。これが神の教えです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年9月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年9月4日水曜日

覚醒の時

 かれこれ30年近く前の事になります。3番目の子どもを死産したということをきっかけに、私はうつ病を発症しました。そして、そこから精神の病との長い付き合いが始まりました。

 精神に作用する薬は、太りやすいといいます。私も例外ではなく、最も太っていた時は、体重が80キロを越えていました。服薬を守り、安静にするという医者の指示に従い、それらを守ってきましたが、体重増加や眠気が出たりして動きが鈍く、生けるしかばねのような状態でした。

 散々ダイエットを試みても成功しませんでした。一切食事を取らないという手段に出て、一時体重が50数キロになりました。しかし、激しいリバウンドが来て、さらに体重は増加。一向に瘦せる気配はなく、もう諦めていました。

 そんな中、ある日不思議な体験をしたのです。募る憂いを祈りつつ、どうか虹を見せてくださいと求めました。すると、すぐに雨がパラパラ降って来て、あれよという間に目の前に虹が出現したのです。驚いて「これがあなたから来たものであるなら、もう一度虹を見せてください」、と祈りました。すると、別な方向から虹が現れました。「もう一度試させてください」、と祈ると今度はアーチの虹がかかりました。そして、4度目の虹が出ると、その時、ご臨在のうちに「あなたが目覚める時が来ました」という主のことばを受けたのです。すると再び、消えた虹がよみがえり、5番目の虹となりました。その日、1、2時間の内で合計5度の虹を私は見ました。

 この体験の後から、不思議なことにどんどん私の体重が減っていきました。かつての自分を取り戻すかのように私は変わっていきました。何をやっても痩せなかった私が、何の苦も無くマイナス20キロ以上も減量したのです。また、私はこの30年間を、精神の病で棒に振ってしまったのではないかという悔いを抱いていました。けれども、今はもう苦しむ必要はないこと、それらすべてが過ぎ去ったことを知ったのです。

 まだ患難のただ中にいる時、主は私にエレミヤ書31章4節の一文を約束してくださいました。「おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう」。というものです。「あなたは建て直される」、という神の主権に満ちたことばは、強く心に響き、必ず神がそうしてくださると信じることができました。

 私にはできなくても、神はどんなことでもおできになります。そのことを今、私は自分の身をもって体験しています。訓練の時は終わりました。いよいよ新しいことが、約束の成就が私たちに用意されています。私たちに覚醒の時がやって来たのです。召しに立つこと前進すること、これらのことをしっかりと務めてまいりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年9月4日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年8月28日水曜日

いのちの水

 私の母は、白馬に行くたびに安曇野の水がとてもおいしいと言います。北海道に住む私は、北海道の湧水がとてもおいしいと思っています。少し前の日本の社会通念では水はタダでした。私たちは、まさに湯水のように、良質な水を惜しげなく使ってきました。これは他の国々と比べると、うらやましがられる程の恵みです。

 今、北海道の水源を外国資本が相次いで購入しています。彼らは、水の価値がよく分かっているのです。生きてゆくためにまず確保しなければならないのは、飲み水です。モーセに率いられイスラエルの民が荒野を行く時、しばしば問題になったのも水でした。人や家畜が飲む水が十分に調達されなければ生きていけません。出エジプト記17章で、民はこの飲み水のことでモーセと争いました。神はモーセの杖(つえ)でホレブの岩を打つよう語り、そこから水がほとぼしり出て、荒れ地に川のように流れ、ご栄光が現されました。

 アブラハムの昔から、水を求めて荒野で井戸を掘ることは、彼らの民族にとって重要な仕事でした。しかも、水であっても飲めない悪い水もあるのです。これらは死んだ水です。流産や病が引き起こされる原因ともなりました。世界では、このように水を求めて苦労した歴史があるので、日本の水がいかに上質なものか、彼らは着目して、手に入れようとしているのです。

 上質で豊富な水は日本に与えてくださった神さまの祝福です。少し前なら、お金を出してペットボトルの水を買うなんて考えられませんでした。しかし、今またこれからは、買うばかりか安全な飲み水を求めて資源を奪い合う時代となるでしょう。また、先日ペットボトルの水から発がん性物質が検出されたというニュースもありました。水の問題はいのちに直結する問題なので、間違いなくこれからの時代をひもとくカギとなると思います。これからは、水を制する者が世界を制するようになると、私は思っています。

 ヨハネの福音書によるとイエスさまは、祭りの終わりの大いなる日に大声でこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(7章37、38節)

 また、井戸水をくみに来たサマリヤの女に主イエスは語りました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(4章13、14節)

 世には多くの飲み物があります。けれども、本当に渇いた時は水です。水を欲します。しかし、世の水は飲んでもまた渇くのです。ですが、イエスさまが下さる水は、渇くことなく、あるいは泉となってわき出で、あるいは心の奥底から生ける水の川が流れるようになる、というのです。サマリヤの女は「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と言いました。私たちも同感ではないでしょうか。

 黙示録22章には、天の都の大通りの中央に、水晶のように光るいのちの水の川があることが書かれています。川の両岸にはいのちの木があって、12種の実がなり、毎月実ができ、また、その木の葉は諸国の民をいやします。マーリン・キャロザース師は、存命中に天国に行かれましたが、その時、実際にいのちの水の川や生ける水を見たそうです。そしてその水のことを「生きている」と形容しました。それは生きていて、互いに喜んでささやきあっているような、いのちあふれる水だと述懐されています。天国には、地上の良い水よりもさらに優れたいのちの水の川がその中央を流れており、神の子である私たちはこれを心ゆくまで飲むことが許されています。

 それゆえ、イエスさまはこう言われました。「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(17節)。渇く者は幸いです。イエスが下さるいのちの水を頂きましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年8月28日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年8月21日水曜日

願うことの力

 聖書の福音書の中に「長血の女のいやし」として広く知られる逸話があります。恐らく婦人科系の病であろう長血を、12年もの間患っている女性がいました。彼女は多くの医者からひどいめに遭わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった上、病状は悪くなる一方でした。

 もはや彼女にとって頼りとなるのは、イエスさま以外にありませんでした。多くの人をいやされたあのイエスさまならきっと私をいやしてくださる。そのお着物にでも触ることでもできれば、私は必ず直る。一心に願いまた信じた彼女は、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスさまの着物にそっと触れました。

 すると、たちまち血の源が枯れて、ひどい痛みが直ったことを体に感じました。イエスさまもご自分のうちから力が外に出ていったことに気づいて「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言いました。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、ひれ伏してイエスに真実を余すことなく打ち明けました。イエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」——そう言ってくださいました。

 彼女がしたことは、「願った」それだけです。そして、いやしてほしいという強い「願い」は、いつしか、きっといやしてくださるという信仰に変わったのです。そして、事実その通りになりました。「願い」とは求めることです。そして、求めることは信じることにつながります。

 サムエル記第一1章に、ハンナという人物が登場します。ハンナは不妊の女でした。夫エルカナにはぺニンナというもう一人の妻がいます。ぺニンナには何人も子がいるので、子のないハンナをいら立たせることをわざとします。それで、ついにハンナは主の宮に行き、激しく泣き、心を注ぎ出して願いまた祈ります。「はしために男の子を授けてください。そうすれば私はその子の一生を主にささげます」。祈った後の彼女の顔は、もはや以前のようではなかった、と聖書は記しています。事実、その後ハンナは身ごもり、子が乳離れした後、その子サムエルを祭司エリのもとに連れていき、誓願を果たしました。

 願うこと、これは力ある営みです。それは、信仰の扉を開きます。確かに願わなければ何も起こりません。しかし、願うなら、願い続けるならやがてそれは確信となり信仰となって、ついには神の手が動くのです。願ったことはきっとかなえられると信じるその信仰を、神は決してむげにはなさいません。

 ヨハネの手紙第一5章14節にもこう書いてあります。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」 

 信仰は、「願う」ことから始まります。神は、私たちを愛してくださっているので、私たちが何を願いまた求めているのか、常に関心を持ってくださっています。ですから、ハンナのように問題を主の手にお委ねするまで心を注いで祈り、祈り切るまで願いまた求めましょう。みこころにかなう「願い」は決して地に落ちることはなく、最善の時に成就します。それゆえ熱心に神に「願い」ましょう。神は必ず願ったその実を結ばせ、ご栄光を現してくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年8月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年8月14日水曜日

イエスさまを信じて間もない方であっても祈りは聞かれます

 生ける神のみわざにあずかるためには、長い修行に励んだり、あるいは特別に選ばれた人だけに起こる奇跡だと思っていませんか。私も以前はそう思っていました。ところが、イエス・キリストを信じクリスチャンになってみて、まったくその考えが変わってしまいました。

 主を信じてわずか2、3カ月の頃です。ある牧師が興味深い話をされました。韓国のクリスチャンが、具体的な条件を挙げて祈ったところ、祈った通りのものが与えられたというのを聞いて、ご自分でも具体的に祈り、主が応えてくださるか試してみたそうです。

 求めたものは机です。与えられた時に、偶然ではなく神から来たと分かるよう牧師は具体的に条件を挙げて祈りました。ねずみ色の事務机がいい。それには深い引き出しがあって、ファイルをしまえるように。また、引き出す時グーッという音がするものがいい、などです。時は流れ、そんな祈りをしたことも忘れた頃、ある日、引っ越す方があり、言われたそうです。「不要な机が二つあるのですが、要りませんか」。牧師は「良い方の机を置いていって」と答えたそうです。しばらくして、階下に降りてみたところ驚きました。まさに祈った通りの机がそこにあったのです。

 感動した私は、救われてまだ2カ月でしたが自分も祈ってみようと思いました。ボーンアゲイン(新生)を機に引っ越しをして、駅から遠くなったので、通学や教会に通うための自転車を必要としていました。そこで、思いつく限り具体的に自転車に注文をつけて祈りました。黒いメッシュのかご、変速機能がついたもの、カギは二つ、ライト付き、横に傾いて止まるもの、ブランドもので、小さめの車体、色は赤かそこらのもの、などです。

 しかし、人間は罪人、業の深い者です。神が本当に生きているということを知りたいのです。ですから、どうかこの祈りを聞いてください、と真剣に求めたにもかかわらず、私は一方で自転車をくれそうな人に電話して、もらうという話をつけました。その自転車はママチャリで、祈ったものとは違います。でも、自転車はもらえたのだから、教会に行って報告して喜ぼうと決めていました。

 ところが、2、3日後その人から突然電話がかかってきました。「ごめん。実は自転車が盗難にあってしまって…」。これを聞いた瞬間、これは「神の手だ」とはっきり分かりました。私のふた心を主は射貫かれました。私は神に求め、同時に世の手段にも訴えたのです。これは神への欺きでした。

 猛省して、悔い改めました。すると赦してくださり「保証人の方に引っ越したことを報告しなさい」という促しがあり、連絡しました。すると、「駅から遠くなるなら自転車要らないか」と向こうから聞いてこられました。そう聞くや否や、これこそ祈った通りの神の自転車だと確信したのです。そして、日曜日。待ちに待ったその自転車と対面しました。驚くことに、すべて祈った通りの自転車がそこにありました。私は奇跡を見たのです。

 信仰に年月は関係ありません。信仰は完成品であり、成し遂げてくださるのは主です。信仰を用いて祈るなら、私のようなわずか2カ月のベビークリスチャンでも、信仰歴数十年の人と同じものを受けるのです。実に神は、信仰に働かれ、恵みによって願いに応えてくださいます。誰であれ、信仰を用い祈るなら、この瞬間にも生ける神のみわざを見ることができます。

 マタイの福音書にも次のように書かれています。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(21章22節)。祈りをもって私たちが神に近づく時、神もまた私たちに近づき、ご栄光を現してくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年8月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年8月7日水曜日

自分のふんどしで~見分けの重要性

 私は、ある教会の、屋根裏部屋で救いにあずかりました。ですから、自然と日曜ごとにその教会に通い、教会生活にもすんなりとなじむことができました。

 教会また教会時代というのは、イエスさまによって生まれたものです。イエスさまが世に来られる前は、律法を守ることが救いへの道でした。しかし、罪ある私たちはとても律法を守ることができません。それで、時満ちてイエスさまは世に来られ、十字架の死と復活によって私たちを贖(あがな)い、罪の赦しを成し遂げ、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えてくださいました。旧約時代は律法を守ることが救いの条件ですが、新約時代では、イエス・キリストを信じることが救いの条件となったのです。

 こうして救われた者たちの群れ、それが教会です。ですから、教会につながるということはとても大切なのです。信じて救われたのだから自分一人で信仰を守る、そう語る方も中にはおられますが、これはサタンのささやきで、教会につながっていないと、信仰は必ずおかしくなっていきます。自然界でも、群れを離れた動物は真っ先に敵に狙われます。イエスさまは教会のかしらで、教会はキリストのみからだであると言われていて、信じる私たちは、互いにその各器官です。教会のカバーの中で私たちは守られ成長していくのです。教会に属することがいかに重要か理解していただけたでしょうか。

 その上でお話ししたいのは、見分けるという視点を持つことです。教会の決定に従うことが重要なことは分かっていただいていると思います。しかし、盲従はいけないのです。あなたの信仰は、他人任せの信仰になっていないでしょうか。長い物には巻かれろという言葉があります。教会の、力ある立場の人の言葉に巻かれて、教会に従っていれば大丈夫だ、みんなと同じにしていれば間違いないだろう、こんな安心を抱いて直接神に聞くことをやめていませんか。確かに教会の言うことを聞いていれば守られます。それは間違いありません。でも、自ら神にまた聖書に聞いていなければ、大きな落とし穴に落ちる、そんなこともあるのです。

 第2次世界大戦が起こった時、日本の多くの教会は過ちを犯しました。その時代、天皇は現人神(あらひとがみ、人の形を取った神)として崇拝されていました。けれども、私たちクリスチャンにとっては、神は、天地を造られた創造主以外にありません。礼拝の対象も、唯一の神以外にありません。たとえ命を失っても、この信仰を貫き通すというのが私たちの取るべき信仰ではなかったでしょうか。でも、残念なことに私たちの先人の多くは世に迎合したのです。「われら基督教信者であると同時に日本臣民であり、皇国に忠誠を尽くすを以って第一とす」としたためて、日本基督教団が立ちました。もちろん、迫害されてまで正しい教えを貫いていった教団もあります。

 近世にあれほど多くの殉教者を出した国なのに、大戦下の昭和の時代には世を恐れ、天皇崇拝を受け入れ加担したのです。名ばかりの教会になってしまいました。世には教会を名のっていても、救いの実質を失った教会があります。たとえば、中国の三自愛国教会がそれでしょう。形は教会でも、福音を語ることや神に聞き従うことは語られません。国の政治と一致していることが求められるのです。このような教会は、もはや実質を失った単なる一宗教です。また、正しい神の教会でも、自分で聞かなければならないことを教会に依存していては、段々信仰が曖昧になり、いざ試しが来ると自分ではどうしてよいか分からず倒れてしまいます。

 ですから、教会に属するとともに自分の信仰をしっかりと持つことが大切です。よく「他人のふんどしで相撲を取るな」と言います。ですから、いうなら自分のふんどしで相撲を取りましょう。これは信仰のことを言っているのです。教会のカバーの中で自分の信仰を用いて一つ一つを確認し、自ら責任をもって決断し、つながってゆくのです。これは非常に重要です。

 聖書にも「すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」(テサロニケ人への手紙第一521節)と書かれています。自ら見分けを持たないでは、道を踏み外してしまいかねません。教会につながるとともに、信仰の自立を目指しましょう。

  MIKOE NEWSから転載」 2024年8月7日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月31日水曜日

小野小町のつぶやき

 平安時代の歌人、絶世の美女として誉れ高い小野小町は、こんな歌を残しています。「花の色は移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに」(現代訳 桜の花はむなしく色あせてしまった。春の長雨が降っていた間に。――私の容姿もすっかり衰えてしまった。生きていることのもの思いをしていた間に。)

 人生があっという間に過ぎ去ってしまったことを小町は、色あせた桜を見ながらしみじみと回想しているのです。美しい桜もやがて見頃が過ぎます。美人の誉れ高い小町も容色の衰えを自覚しました。私もまた今、小町同様しみじみと自分の人生を振り返っています。

 子どもの頃は、時間の流れが緩やかでした。11日がとても長く感じられました。ところが、年を取るとだんだん時間の流れが早くなって、510年があたかも一日かのように飛ぶように過ぎて行きます。

 私は、まもなく還暦を迎えます。現在はぎりぎり59歳ですが、59という数字は私にとってとても大きな区切りとなるものです。昔から60歳からは老人であるという頭がありましたので、何もなさないままこのまま現役を終えるのかと、心に思秋期の風が吹き、初めて老いに向かい合い、また来し方を振り返るようになりました。

 時は残酷です。なぜならそれは一方通行で進んで行くものだからです。あの頃に戻りたいと思っても逆行することはできません。ここで時間を止めたい、立ち止まりたいと思っても淡々と時は流れ先に進んで行きます。まだまだやりたいことがあると思っても、できない状況が増えてきます。

 振り返れば、人生にはすべて「時」がありました。すべての事がいつまでもずっと開かれているのではなく、それぞれの年齢(時)でしかできないことがある、ということに、私はこの年になってようやく気づきました。たとえば、お産がそうです。あくまで一般論として述べさせていただくのですが、子どもを産むことができるのは長く見ても若い頃からおよそ40年ほどの年月です。それを過ぎたら体は老化し、もう子どもを産むことはできなくなります。どんなに欲しいと願っても、過去にさかのぼって始めることはできないのです。時を逃すと閉じてしまう扉が人生にはたくさんあります。今さらやってももはや時遅しということを私も体験し、ずいぶん悔しい思いをしました。年を取ればこういうことは増えてきます。しかし、それが世の習いでありまた神の定めであって、人生には何事にも「時」があるのです。

 ソロモンは伝道者の書に「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」(121節)と書きました。人生の時間を用いるに当たっては、創造主を知ることが重要です。あなたが何をするために生まれたのか、それをご存じなのはあなたをお造りになられた神であるからです。また、何かをするにはやはりまとまった時間が必要です。それゆえ若い日に働きをスタートすることが大切なので、ソロモンはこう書きました。若いというだけで持っているその可能性は甚大です。世を去る前に実を残したいと思うなら、このことばに聞きましょう。

 また、コリント人への手紙第二416節には「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」という一文があります。内なる人とはキリストを信じた私のことを言います。キリストにあれば、私たちは死からいのちに移っています。老いもまた御国の希望で祝福されているのです。小野小町のようにもの思いに沈む必要はありません。

 強く雄々しくありましょう。命が始まったら、そこからはノンストップです。天に帰るまで、地上での生涯は前進あるのみです。そして、行き着いたなら、私たちは、やがて永遠という時代を神と共に生きるようになると知ってください。

  MIKOE NEWSから転載」 2024年7月31日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月24日水曜日

 リバイバル

 TLEAが、まだ国分寺クリスチャンセンターであった頃、すなわち教会のスタート当初から、この教会には海外宣教が開かれていました。私たちは、ロサンゼルスに行きオンザウエイ教会の祈りのチャペルで祈り込み、また某国へ聖書を運ぶ宣教に加わりました。そして、フィリピンのダバオで、初めて本格的なクルセード(大衆伝道)に立たせていただきました。

 クルセードは私たちには未経験の働きでした。ダバオに着いてみると、いやしと奇跡をうたうクルセードとして大々的に宣伝されていて、どうしようかと皆で顔を合わせました。しかし、神の導きは「やりなさい」というものだったので、ともかく行おうと信仰に立ちました。

 おっかなびっくり現地の牧師たちとともに、いやしの祈りを始めると、現地の牧師に集合がかかり、日本チームが壇上に残されたまま、奉仕は継続しました。そこでチームリーダーが耳の聞こえない女性を祈ったところ、なんと聞こえると言うのです。ハレルヤ、ハレルヤと喜び主をたたえる彼女を見て、聴衆の態度が一変しました。多くの者がいやしを求めて一斉に壇上に上がって来たのです。

 そこから起こったこと、まさにそれはリバイバルといえるようなものでした。今まで一度もいやしを祈ったことのない者もチームにはいました。けれども聖霊さまが大きく働かれました。白内障を祈ると、なんと白目に黒い点が現れて点がどんどん大きくなっていきました。そしてついに黒目になり、完全に見えるようになりました。また、足の悪い方は、祈ると片方の足がもう片方の足の所までみるみるうちに伸びて、いやされました。

 後日、帰国したメンバーの一人は、ためらいながらこう述懐しました。「自分に信仰があればこうなることも分かるんです。けれども、僕にはいやしの信仰がなかった。なのに、その僕を通してさえどんどん人々がいやされてゆくのです。これはどう理解すればよいのでしょう。」

 思うに、信仰は神のことばに従うことにあります。私たちの内側の確信も大切です。けれども、たとえ確信がなくても、行いによって神さまのことばに従うなら、神さまのみわざが現されます。フィリピンのクルセードという神の計画に従った結果、主は既にその働きの実さえも用意されていたのだと思います。

 そして、これはリバイバルを約束されるために、神さまが前もって教会に、また私たちにその一部始終を見せてくださったのだと私は確信しています。また、そこで起きた聖霊さまの顕著な働きに関しては、フィリピンという国自体に働く聖霊の動向がこの働きと密接に関係していたと考えています。

 聖霊が働くところ、人を選ばないということは確かにあると思います。滝のように聖霊が臨む時、その働きを取り次ぐのは、特別な器ばかりでなく、そこここにいる私たちもまた、聖霊の働きを流す管として用いていただけるのです。それを地で行くかのようにこの無名のチームは豊かに用いられ、多くの神の栄光が現されました。

 フィリピンでの最終日、チームはデボーション箇所を通して主からこう語られました。「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカによる福音書17910節)

 彼らは皆、「私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」こう告白して帰国の途に就きました。全員の内に心に大きな喜びがあったことは言うまでもありません。

 MIKOE NEWSから転載」 2024年7月24日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月17日水曜日

岩の土台・砂の土台

 試練が来ると、私たちの土台が試されます。マタイの福音書7章には、二つの家のことが書かれています。一つの家は岩の上に建てられた家で、もう一つは砂の上に建てられた家です。外から見た場合、この二つは何ら変わるところがありません。

 ところが、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、岩の上に建てられた家は、びくともしませんでした。でも、砂の上に建てられた家は倒れてしまい、しかもそれはひどい倒れ方をしました。

 イエスさまは、この両者の違いは、主のことばを聞いてそれを行うか行わないかの違いであるとおっしゃいました。神のことばを土台にするか否かでこれほどの違いがあるのです。いうまでもなく試練は、私たちの土台が試される機会です。付け焼き刃で信仰を持とうとしてもそんな簡単にいくものではありません。日々の信仰生活の中で神のことばに聞き、それに従っていたかどうか、はからずもそれが問われてくるのです。

 同様な記事がコリント人への手紙第一3章にも見受けられます。私たちの人生のことなのですが、私たちはイエス・キリストという既に据えられた土台の上に、それぞれが、金、銀、草、わらなどでそれぞれ建物を建てます。そして、やがて主の日が来、火をもってそれらの建物は試されます。もし、建物が残るならその人は報いを受け、建物が焼ければ、損害を受けますが自分自身は、火の中をくぐるようにして助かる、と書かれています(1015節参照)。いずれにしても、建物の真価が試される日というのが必ず来るのです。

 一人一人が、人生という建物を建てます。しかし、その良し悪しは決して見た目では分からない、これが私たちにとって難しい所です。後の日に、火が真価を試すのです。また、試練の大水や大風が吹き付けてくると、その時、何を土台としていたかが明らかにされます。

 先日来、私はある悩みの中に置かれています。その中で私は自分の土台を見せられました。思っていたより遥かにもろかったです。というのも、神のことばがあったにもかかわらず、あまりにも状況が厳しいので、恐れに支配され、神のことばを信じるより現状に右往左往されました。つまり私は、自分という砂の上に土台を置いていたのです。神により頼むということを聞いてはいましたが、真に悟ってはいなかったのです。

 揺るがないもの、それは神でありそのことばです。イザヤ書にも「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(408節)と書かれています。たとえ天地が滅びても神のことばは立つのです。永遠に変わらない神のことばを土台とすること、これが岩の上に家を建てるということなのです。それを神は教えてくださいました。実に神は、私たちの戦いを戦ってくださるお方です。何が起こっても恐れるに足りません。

 皆さんは人生の土台にどちらを選びますか。どうか神と和解し、この岩なるキリストの上にあなたの人生を建て上げてください。

 MIKOE NEWSから転載」 2024年7月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月10日水曜日

 たとえ一人であっても

 自分1人の力では何もできない、時々私たちはそう考えるものです。何かを成し遂げるには人との協力が必要だということは、私たちにとって自明の理でありそれを否定することはできません。しかし、もし神が共にいてくださるのなら、たとえ1人であっても、できないことは何一つないのではないでしょうか。

 神が共におられるなら、たとえ1人であっても戦いに勝利する。このような話は聖書に幾つも記載されています。顕著な例はダビデです。サムエル記第一17章はペリシテ人とダビデの戦いを記しています。ペリシテ人ゴリアテは職業戦士で、朝夕イスラエルの陣営をなぶりに来ます。「お前らの内から1人を出せ、さしで勝負しようじゃないか」。するとイスラエルの陣営の戦士たちは震え上がるのでした。

 兄を訪ね戦場に来たダビデは、たまたまそれを聞き、激高します。そして、単身ゴリアテに立ち向かいました。ダビデは言います。「おまえは、剣と、槍(やり)と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。(中略)この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」(4547節)

 こうして、ダビデは投石袋から石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ゴリアテの額を打ちました。すると石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れました。ダビデには一振りの剣もなかったのですが、一つの石でいとも簡単にこのペリシテ人を打ち殺してしまいました。これが、主の戦いというものです。戦われるのは実に神なのです。ですから、奇跡と呼べるような勝利がもたらされたのです。ダビデは1人でした。けれども、主の戦いに立った時、その1人のダビデを通して、神は圧倒的な勝利を与えられました。

 同じように、たった1人で神の陣に立ち、勝利した人がいます。列王記第一18章に登場する預言者エリヤです。エリヤは、ひとり残った主の預言者でした。そして、異教の神バアルを信奉するバアルの預言者は450人いました。主の民でありながら、バアルに心を寄せ、心の定まらないイスラエルの民に対して、エリヤはある提案をします。

 「それぞれ雄牛を1頭用意し、それを切り裂き、たきぎの上に載せ、火をつけないでおく。そして信じる神の名をそれぞれが呼び、天からの火をもって答える神が真の神だ」。こう言うと、民はみな答えて、「それがよい」と言いました。

 まずバアルの預言者たちから始まりました。大声でバアルの名を呼び、ならわしに従って剣や槍で自分の身を傷つけ血を流しました。しかし、何の声もなく答える者もなかったのです。

 エリヤは、民全体に「私のそばに近寄りなさい」と言いました。そして、主の祭壇を立て直し、全焼のいけにえの雄牛とたきぎの上に多くの水を注ぎました。水は祭壇の回りに流れ出すほどでした。そして言います。「主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください」。すると、たちまち主の火が降って来て、全焼のいけにえとたきぎと石とちりを焼き尽くし、水もなめ尽くしてしまいました。これを見て民は、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言い、主に立ち返ったのです。

 たとえ1人であっても、その心が主とまったく一つであるなら、神はご自身の御力を現し、圧倒的な勝利を与えてくださいます。人にはできないことでも、神におできにならないことは一つもありません。それゆえ主を信頼し、しっかりと信仰に立ちましょう。あなたが直面している戦いは神の戦いです。たとえ1人であっても、あなたが立つなら、神は必ず栄光を現してくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年7月10日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年7月3日水曜日

喜びに満たされて

 今は天国におられるマーリン・キャロザース師は召される直前まで私たちに、すべての事を感謝するということを教えてくださいました。悪いと思われることも感謝しましょう、それもすべて神は益としてくださいます、と語り、大きな声でプレイズ・ザ・ロードと主をほめたたえていました。

 そのマーリンさんを見て、私はびっくりしました。輝いているのです。体じゅうが明かりがともったように、一点の曇りもなく明るいのです。ハレルヤ!と喜ぶ様子は、さながら地上で天国を生きているかのようでした。こんな喜びが世にあるとは思いもしないくらい全身が明るく照り輝いていました。

 旧約聖書にモーセという人物がいます。彼もまた神の人で、4040夜シナイ山で主と共にいて、あかしの石の板2枚を持って下山します。彼は、主と話していたので自分の顔の肌が光を放っていることを知りませんでした。でも、アロンとすべてのイスラエル人が下山したモーセを見ると、何と彼の顔の肌が光を放つではありませんか。それで、彼らは恐れてモーセに近づけませんでした(出エジプト記342830節参照)。モーセは、顔と顔を合わせて神と交わっていたので、神の栄光を反映していたのです。これもまた稀有(けう)な事例です。

 マタイの福音書6章でイエスさまは、このように語られました。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう」(2223節)

 目は心の窓といいます。人の内側の状態は目に現れます。マーリンさんの目は喜びにあふれていました。そして、この聖書のことば通り、その喜びその明るさは、前述したようにからだ全体を照らすほどのものであったのです。

 反対に、目が死んでいるということもあります。病気、世の煩い、諦念、心配、絶望それらはすべて目に宿ります。目は口ほどにものを言い、というように目は内側の心を反映させるのです。あなたの目はどうでしょうか。健全でしょうか。健全でありたいですね。そのためには、何より心が健全であることが必要です。

 健全な心とは、神が下さる喜びに満たされることです。これがこの輝きの答えです。主イエスを喜ぶことは私たちの力です。喜びは泉のようにこんこんと湧き上がり、あなたから周りにあふれ広がっていきます。

 イエス・キリストを救い主としてあなたの心にお迎えしましょう。そうすれば救われ、今まで経験したことのないような喜びを、神はあふれるばかりにあなたの心に注いでくださいます。そして賛美することで、さらにこの喜びは増し加わります。それは尽きることがなく、あなたの全身を明るく照らし、この地にあって私たちに天の喜びにあずからせてくださるのです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年7月3日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月26日水曜日

教会時代

 今から、約2千年前にイエスさまはこの世に来られました。罪により死に定められている私たち人間に救いを与えるため、十字架で死なれ3日目によみがえり、私たちの罪の贖(あがな)いを全うされました。そして昇天され、今は天で神の右に座しておられます。

 イエスさまは、世の終わりに再び世に来られること、すなわち「再臨」を約束されました。その日が来るまでは「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」(詩篇1101節)のことばに従って、地上での働きを私たちに委ね、サタンがご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 その再臨までの期間に「教会時代」が挿入されました(ダニエル書92527節参照)。これは、主イエスによって導入された時代また期間です。主の働きは、イエスさま個人を通したものから、教会を土台とし教会を通して行われるものに変化しました。イエスさまは教会のかしらであり、教会はキリストの花嫁だといわれています(エペソ人への手紙5章、ヨハネの黙示録19章、21章参照)。主イエスの再臨に備えて、花嫁なる教会を一つのみからだとして御前に立て上げてゆくことがこの時代における働きの中心です。

 また、神は地上における大患難の苦難から私たちを守るため「携挙」という奥義をもって私たちを天に引き上げてくださることを約束されました(テサロニケ人への手紙第一417節参照)。これは空中再臨と呼ばれ、その後患難時代後半の大患難時代に入って教会時代は終わり、終末の黙示録の最後の時代となります。そこでは花嫁なる教会と子羊イエスの婚姻がなされ、新しい天と新しい地がもたられることが書かれています。

 このような流れがあって、今のこの教会時代にイエスさまは、みこころをもって天に留まっておられるのです。それは、より優れた宣教の働きのためです。ヨハネの福音書1232節でイエスさまは「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」とおっしゃいました。確かに、地上での宣教には限界があります。肉にあるうちは、どう頑張っても一度に1カ所にしか居られません。けれども、天に行くなら、主は地球上のあちこちにあまねく遍在することができ、働きは比べ物にならないほど広がります。

 また、同16章では「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(7節)というイエスさまのことばがあります。その約束はペンテコステの日に実現しました。そしてこの聖霊降臨を境に、教会が、教会時代がスタートしたのです。助け主とは、聖霊さまのことで、聖霊は日々私たちに神の道を教え、信仰に堅く立つよう導いてくださいます。

 この終わりの時代、イエスさまはその宣教の使命を教会に委ねられました。エペソ人への手紙では、「神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(12223節)と書かれています。

 教会は神の奥義です。そして私たちは、それぞれこのキリストのみからだなる教会の一器官なのです。互いに和合し、時を見分け、かしらなるキリストに聞き従い、主が再び来られるその道を備えてまいりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月26日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月20日木曜日

 ご臨在

 TLEAが、まだTLCCC(主の十字架クリスチャンセンター)であった初期の頃、神さまはいろいろな海外宣教を体験させてくださいました。当時、多くの者が20代やそこらで、皆、本当に若かったです。そろいもそろって、お金もありませんし英語もできません。にもかかわらず、神さまの導きを信じ、主を求め、祈り、不思議と備えられた余ることもなく足りないこともないぴったりのお金、それを用いて、海外宣教に出て行きました。

 初期の頃によく行ったのは、ロサンゼルスにあるオンザウエイ教会でした。そこのプレイヤーチャペルで祈るということが導かれました。このプレイヤーチャペルは、オンザウエイ教会の最初の会堂でした。ある時、この会堂の四隅に天使が立ち、一面霧のようなものが立ち込めるということが起こりました。その霧のようなものは、神のご臨在でした。そして、この不思議な現象を境に、オンザウエイ教会に人々が集まるようになり、いろいろなわざが起こり、どんどん教会は成長していきました。今は万という人数が集まっています。

 当初は、3週間の予定で宣教に行っていたので、私たちは、来る日も来る日もプレイヤーチャペルに通いました。天使が立ったという四隅に立って祈ったり、この臨在を日本に持ち帰ろうと熱心に求めました。チャペルには、神の平安と慰め、そしてやすらぎがありました。何とも言えない神への慕わしい思いが紡がれていくのです。恵まれすぎて、祈りの格好をしたまま寝入ってしまうこともありました。それらを含めて、私たちは深いご臨在のうちに包まれていたのです。そして、1度と言わず、何度も私たちはロサンゼルスを訪れ、祈りの時を過ごしました。これは、感謝し尽くせないほどの恵みでした。

 さて、臨在とはどんなものかというと、詩篇でダビデはこう歌っています。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」(1611節)。ご臨在のある所には、神のくださる喜びがあり楽しみがあるのです。ずっとこのままでいたいと切望するような、立ち去りがたいご愛を感じます。プレイヤーチャペルでの臨在がまさにそれでした。

 また、ダビデは詩篇23篇で「私の杯は、あふれています」(5節)とも歌いました。ご臨在は尽きない泉のように私たちの心の奥底からこんこんと湧きいで、ついにはあふれ出るのです。そこでは、誰に教えられなくても、皆が、神さまのご愛がここにあると知るのです。そして大勢の人々が泣きながら神のもとに帰ってゆきます。

 詩篇223節に「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と書かれています。ご臨在と賛美には密接な関係があります。賛美には聖なる主、生ける神が、住まわっておられるのです。だからこそ、賛美する時にはそこに強いご臨在が現されるのです。リバイバルでは、ますます賛美が用いられていくでしょう。賛美の中には神がおられます。そして神はご臨在をもって私たちの賛美に応えられます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月20日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月13日木曜日

神から受ける慰め

 あまりにもつらいことが起こった時、人は、慰められることを拒みます。マタイの福音書218節にこんな記述があります。「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ

 ラケルはなぜ泣いているのでしょうか。それは、自分の子が殺されたからです。ユダヤ人の王として生まれたというイエスさまの誕生を恐れたヘロデが、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男児をひとり残さず殺させた、という史実があります。ラケルの子も、おそらくこのように殺されたのでしょう。それで、慰めを拒んで泣いている、というのです。

 イザヤ書には「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか」(4915節)という一節があります。これは、父なる神さまのことばです。神さまは分かってくださっているのです。母親にとって子を失うことが、どれほどつらいことかご存じなのです。

 私のことを話させていただくと、私は、9か月まで育ったおなかの子どもを、突然亡くしました。胎の子を深くあわれみ、あわれみは高じて病気になりました。「うつ病」を発症したのです。生きることを放棄した年月がありました。およそこの30年間のことです。もちろん教会で教えられた通り、私はこのことが益と変わることを信じました。それゆえこのことを感謝しました。でも、心は動きませんでした。私は、良くなりたくなかったのです。なぜなら悲しみにふけること以外、私がその子にしてやれることはもう何もなかったからです。その子の生きた証しをとどめておくために、私は泣き、そして慰めを拒みました。愚かしいと思われることでしょう。人生を棒に振ったかもしれません。しかし、これが私の真実なところだったのです。

 多くの年月が必要でした。しかし、ついにある時神さまの前に出ました。神がこのことをどう見ておられるのか、それを知りたかったのです。もし、神さまが「感謝しなさい。すべては益になります」……そうおっしゃったら、それは本当にその通りだけれど、そうした時には、もう私の弱さを持っていく場所がありません。神さまは何と語られるのでしょうか。

 それは、まったく思いもよらないことばでした。神さまは、私に寄り添い、静かな声で一言こう語ってこられました。「娘よ。わたしもまた子を失ったのだ」……それを聞いた時、私は走馬灯のようにイエスさまのご生涯を思い起こしていました。ああ本当にそうでした。神は、確かに愛するひとり子イエスさまを、私たちのために失っておられました。子を失う痛みを誰よりもご存じなのは他ならぬ父なる神さまだったのです。それに気づいた時、波のように押し寄せてくる神の愛と、深い慰めに包まれたのです。

 コリント人への手紙第二1章にこのように書かれています。「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」(34節)

 神は、慰めのお方です。最高の慰め主です。私たちが慰められることはもちろん、その慰めによって、他の人と慰めを分かち合うこともできるのです。私たちは深い神の愛に満たされています。今は私も、すべての事を心から神に感謝しています。

MIKOE NEWSから転載」 2024年6月13日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年6月5日水曜日

AI

 先日、私たちの教会の牧師をAIで加工した映像を見ました。驚きました。あまりにも見事に作られていたからです。牧師が英語で説教している様子で、顔の表情も口元も声も牧師そのものです。誰が見ても牧師が英語で話しているとしか見えないでしょう。

 近年、AIの進歩には目覚ましいものがあります。もし、誰かがAIを用いて牧師にこれこれのことをしなさいと言わせたら、聞いた私たちがそのまま信じてそれを実行するであろうほどのレベルです。驚きとともに、恐れを抱きました。何でも聞く通りに答えてくれ、しかも秩序正しく完璧な答えがわずか12秒で手に入るわけですから、これはもう時代を席巻しているといえるでしょう。

 「クレヨンしんちゃん」というTVアニメがあります。しんちゃんのお母さんはみさえさんといいます。みさえさんが「晩ご飯は何がいいかしら」とAIに聞くとAIは「ピーマンの肉詰め」と答えたそうです。すると、何か取りつかれたような顔をしてピーマンとお肉を買いに行こうとします。それどころか、夕飯のメニューの他にも、あらゆる事柄をAIに聞き始めます。街に出ると、スマホを耳に当て、AIに聞いている人だらけです。おかしいと気づいたしんちゃんが、みさえさんからスマホを取り上げようとして、強引に引き離したところ、はっといつものみさえさんに戻りました。興味深いシーンで、これは決してアニメの世界の話ではなく、こういう現実は既に始まってきていると作者が警告しているのではないかと思いました。

 人類はさまざまな歴史をたどってきました。私たちの遠い祖先は生きてゆくために「狩り」をしなければなりませんでした。そして、それが人類が「道具」を用いていくことの始まりとなったのです。釣った魚が針から落ちないように「鉤(かぎ)」を付ける発見があり、また動物を仕留めるための槍(やり)や刀を作りました。これらは「道具」と呼ばれるものであり、私たちの生産の働きを向上させるために創られたものです。これが「狩り」を優位に行うために生まれた古代の文化であったのです。

 近代になると、今度は産業革命が起こります。そこでは「機械」が出現し、「道具」の時代と作業効率は、比較にならないほど大きなものとなりました。「道具」と「機械」の違いは、私たちを主体としたものか、機械を主体として仕事能率を上げたものか、による違いがあると思います。そして現代ではAIが主体になって私たちの働きを今までとは比べ物にならないくらいに飛躍させています。

 現代または近未来、AIは作業効率においては究極の形として登場しました。AIすなわち「人工知能」の出現は、産業革命以降に訪れた最も著しい社会変化であるのです。これから、ますますAIは多くの分野で用いられ、時代を変えていくでしょう。しかし、「肉詰めピーマン」ではありませんが、これを用いる私たち人間が、いつのまにかAIの僕(しもべ)になってしまっているような事態は避けなければなりません。

 ヨハネの黙示録13章に興味深い記述があります。「また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした」(1617節)

 これは、もはや半ば成就している預言です。刻印といえば、ディズニーリゾートの受付では、目には見えない印が手に押され、それを読み込むことによって自由に外に出たり中に入ったりできるので、技術的にはもう刻印を受けさせることはできます。また、人々を掌握するためにマイナンバーカード制度が力を得てきています。これらが重なるとどうなるでしょうか。

 「道具」の時代から「機械」の時代へと、より多くの作業効率を追求して進化し、動かしていた主役は人間でした。ところが、AIはその圧倒的な作業効率と引き換えに、私たちが管理するという主役の座を降りて、自分たちをAIに管理させるというあり方を取っているように思います。これが、今までと違うところで、AIによって民族や国々の垣根が取り除かれ、今や世界は一つになろうとしているのです。

 こういった時代背景の中でAIは大きく用いられています。そして、これからが本番です。便利だから使う、用いる、は自然な流れです。しかし、何でもAIに聞くということはAI依存になりかねません。自分で考えるということをしなくなります。そしてそれは敵の狙いの一つです。また、AIで私たちに返事をしてくれる人はいったい誰でしょう。それが何者か考えたことはありますか。確かに、21世紀の私たちにはもはやAI抜きの生活はあり得ません。しかし、便利さと引き換えに、失おうとしているものもまたあることを知っておきましょう。

 世の終わりは近いです。自分の力でAIを見分けることはほぼ不可能でしょう。AIは、私たちの手を離れた人工知能なのです。時々刻々と進化します。それでもAIが精巧に造った仮想現実の行く末を、しっかり見届けることがこの時代に生きる私たちの使命ではないでしょうか。

 MIKOE NEWSから転載」 2024年6月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年5月29日水曜日

神さまほど誤解されているお方はない

 学生時代、私は求道者でした。夏目漱石が『行人』の長野一郎に語らせた「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」という一文は、全くの同感で、私もまた自分の前途を見いだせずにいました。

 特に、信じるということには懐疑的で、それが分からず、信じることは、結局は当人が思い込むことだと思っていました。ですから宗教に入ることは、信じていない自分にとって自分を偽わることであって、救われたいがための無理な取引であるとしか見えませんでした。

 世の中には、私と同じように考える方は決して少なくはないと思います。しかし、今なら分かります。この考え方の背後にはサタンが働いています。サタンが神はこういう方だよと、偽りの情報や誤った思いを入れてくるのです。そして、人はその偽りを見抜くことができずサタンの言葉を信じ、神を敵としてしまうのです。だから、神に愛されているにもかかわらず、それが見えないでいるのです。

 神さまほど誤解されているお方はおられません。いかに神が私たちを愛しておられるか、それは、御子イエスを下さったほどです。ヨハネの福音書にはこう書いてあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(316節)

 神は、鋼鉄のような心の持ち主なのではありません。私たちと同じような血肉(ちにく)通う心で、ありのままに痛みや苦しみを抱かれます。神であるからということで、何の情も伴わず合理的に淡々とイエスを死に渡されたわけではありません。これは、やむにやまれぬ中で神が出してくださった結論です。イエスは神がこの上もなく愛する子であり、しかもひとり子です。イエスに代わるものはないのです。にもかかわらず、神はこのイエスを、世に、また私たちに下さったのです。そこに神の痛みがなかったと言えるでしょうか。

 大いにあったのです。でも、神はその痛みより私たちへの愛を優先させられました。御子を失うほどまでに、私たちを惜しんでくださったのです。神のこの痛みは私たちの救いのために味わわれたものであり、これが私たちに対する神の「愛」なのです。神は私たちのすべての罪をイエスに負わせ、さばきを下されました。イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死なれました。そして、神の大能の力によって3日目によみがえられ、ここに罪の贖(あがな)いが完成し、人類に「救い」が入りました。

 ローマ人への手紙に「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう」という一文があります(832節)。イエスさまを下さったということは、すべてが与えられたということに等しいのです。これほどまで大きな愛で、神は私たちを囲んでくださっています。

 確かに世にあっては試練や困難があります。神がいるならどうしてこんなことが許されるのかと憤るようなこともあるでしょう。サタンはそれに対して同情を装って、それは君が神に愛されてないからだと言い、見えない神への反発を抱かせます。サタンは被造物一の大うそつきなのです。しかし、試練は神が許されたものであり、神とともに乗り越えてゆくことによって神を知り、大きな祝福をもたらす良きものです。神にあっては、すべては益で、悪い事さえ益となり、その愛は変わることがありません。神はあなたに、最善以外の事はなされないのです。

 まことに、神さまほど誤解されているお方はおられません。多くの人がサタンの口車に乗せられて、実際知りもしない神を憎んでいます。しかし、神はそれを訂正しようとはなさいません。心を向けさえすれば見つけられる所に神は立ち、私たちが自由意志でご自身の元に帰ってくることを待っておられるのです。それゆえ神はこう語られます。

 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(エレミヤ書333節) 

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月29日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年5月23日木曜日

芝桜

  先日、ある方から芝桜の苗床を頂き、副牧師が教会の庭に植えてくれました。私は、北海道に来て初めて芝桜というものを知りました。桜と言っても、木のように枝や幹を持ちません。芝生のように地面を覆い、強烈な原色の桜が、白、ピンク、赤と、辺り一面に敷きつめられ、花を咲かせた様子は圧巻です。また、この芝桜は、強く根を張ることで知られていてどんどん周りに増え広がってゆきます。

 今回、皆さんとお分かちしたいのは、この「根を張る」ということです。マタイの福音書13章でイエスさまは、群衆に「種蒔きのたとえ」というお話をされました。種とはみことば、すなわち神のことばで、種が蒔(ま)かれる土壌は、大きく分けて4通りあります。

 一つ目の種は、道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。これは、御国のことばを聞いても悟らないというケースで、せっかくの神のことばなのに、ことばがサタンに持ち去られてしまいます。次は、土の薄い岩地に落ちた種で、これはすぐ芽を出します。しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまいます。これは、みことばを聞くと喜んで受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまうというケースです。

 また、別の種はいばらの中に落ちました。これは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため実を結ばないというケースです。最後は、良い地に落ちた種で、これは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人は100倍、60倍、30倍の実を結びます。

 今日はこの2番目の、土の薄い岩地に落ちた種について考えたいと思います。私は、5人家族の中の初穂として救われました。ところが父は宗教嫌いで、時には暴力をもってしても、棄教するよう迫ってきました。父は神を憎んでいたかもしれません。その憎しみは神を知ったと明言した私に遠慮会釈なく向けられ、この父のもとで信仰を持つ困難さは、大げさではなく命懸けでした。友達やその家族は、こんな苦労もなく救われて教会に行っている、平和で祝福されている、なのになぜ私と私の家族だけこんな目に遭うのかと、何が違うのだろうかと、ずいぶん悩みました。

 しかし、時は流れ、やがて神の時が来て、聖書で約束されているように、私たちの家族は父を含めて全員が救われました。主は真実です。そして、私は知るのです。私にとっては迫害と言えるほどの困難をくぐったのは、主のこの上ない祝福であったと。神は困難の中で、私の信仰の根を岩地の中深く育てていてくださったのです。

 父に背いても受洗すると決意した12月、しかし私はその時病院のベッドの上でした。身じろぎ一つできない中で、幻を見ていました。それは、土の中にある一つの種です。その種は私だったのでしょう。神さまは、「この種は死んでいるのですか生きているのですか」と問うてこられました。「主よ、あなたがご存じです」と言うと、土の中にある種からかすかに根らしいものが生えいでてきたのです。そして、見るたびに少しずつその根が伸びてゆくのです。根は地中深く下ろされていきました。そして、次に芽が造られようとした頃、入院して教会や礼拝から離されていた私に、「まもなくここを出て、地上に芽吹く。そこは聖霊の風が自由に吹き、光が照らす新しい世界だ」。神は私にこう語り、それを約束してくださいました。

 試練は恵みです。父が私のそそり立つ壁となってくれたゆえに、私はこの宗教の真偽を根本から問いました。迫害されたゆえに、信仰が鍛えられました。問題がないことは祝福のように見えます。でも、信仰の面から見ればそうではないのかもしれません。問題があるからこそ、神の近くにいられるのですから。そして、困難の中には必ず神の深い慰めがあります。この慰めこそ私たちの報い、そして取り分です。

 芝桜はその根をしっかり広げます。私たちもまた信仰の根を広げましょう。そして、この地を占領し、おびただしく増え広がりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月23日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

2024年5月15日水曜日

肩書

  人というものは、高ぶりやすく、機会がありさえすれば肉(自分)を誇ります。北海道の政治家に、鈴木宗男さんがおられます。氏はロシアとの関係の第一人者を自負されており、病を押して今も活躍されておられます。なかなかできないことです。けれども、いただけないと思ったのは、ご自分の手柄としてできあがったものに、自分の名前である「ムネオ」の文字を入れるのです。鈴木氏の働きで実現した踏切には「ムネオ1号、ムネオ2」と連綿と書かれていますし、北方領土で互いの交流の場として作られた施設は「ムネオ・ハウス」といいます。自分の名を出す、残す、ということをあからさまに行っているので、彼の働きを評価する一方、人々の失笑を買っています。

 人が偉くなると、自分を偉大な者とする誘惑が来るのか、学歴に関して誇ってみたり、時には虚偽の学歴を公表したりします。真偽はさておき、東京の小池都知事も今それで揺れているようです。また少し前になりますが、ある野球監督の奥さんに、特別待遇の海外留学があったかどうかをめぐって、マスコミがこぞってたたいたことがありました。

 結局、真実は分かりませんでした。しかし、それでいいと思います。というのもこれは誰にでも起こり得ることだからです。人間、偉くなったら、次は肉を誇りたくなるのです。過去にさかのぼって自分は特別な人物であったと世に知らしめたいのです。学歴詐称はどちらかといえば妄想に近く、まったくのうそではないだろうと思います。けれども、話すうちに尾ひれ背びれがくっついて、ついに高ぶってしまい、事実と違う偽りをあたかも事実として主張するようになるのだと思います。

 顧みるに、私たちは何と肩書きに弱いのでしょう。私も役職名を連ねた名刺を頂くことがあります。拝見してお忙しいのだな、と思いはします。しかし、その人を役職で判断することはいたしません。あくまで自分の判断を優先させます。けれども、肩書きを通して自分を見てほしい、自分はこういうものなのだ、すごいだろうと肩書きに身を隠して小さな世界に生きている方は少なくないように思います。ありのままの自分に自信が持てないのでしょうか。肩書きに酔いしれて、立場や役職を手に入れ、自分の前でラッパを吹きます。

 ここで、聖書から1人の人物を紹介したいと思います。それは、パウロです。パウロがもし名刺を持っていたら、どんな役職が付いているでしょう。八日目の割礼者、きっすいのへブル人、生まれながらのローマ市民、律法についてはパリサイ人、最高学府であるガマリエル門下生、とざっと数えても彼は人もうらやむほどの経歴(肩書き)の持ち主なのです。彼はこれ以上ないほど多くの肩書きの持ち主であったのです。

 しかし、そのパウロがそのことをどう語ったか、ピリピ人への手紙3章をお読みください。「しかし、私にとって得(とく)であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」(78節)

 いさましい言葉です。ここにパウロに起こった大きな変化が述べられています。パウロは、主イエスを知ったことによって、かつては「得」であった持てる肩書きのすべてを、「ちりあくただ」と言い切りました。これはまた、私たちクリスチャンにとっても同様で、私たちの唯一の肩書きは救い主であるイエス・キリストご自身であり、それ以外には無く、かつそれで十分なのです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月15日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年5月8日水曜日

時間泥棒

 21世紀は情報過多の時代です。情報はあふれかえっており、情報の選択に絶えずさらされています。パソコンの前に座って、朝から夜までずっと動かないで画面を見ている、こんなこともあるのではないでしょうか。画面を見始めたら最後、次から次へと新しい情報が入ってくるので気が付くと3時間、4時間たっていたということも珍しいことではありません。

 確かに情報によって知らないことを知ることができますから、それなりに充実感があります。しかし、これではいけないと私の心は警鐘を鳴らしています。その時間、他にするべきことがあったかもしれません。私の場合、最も打撃を受けやすいのは聖書を読む時間です。毎日ノルマを課して聖書を読むようにしています。でも、ネットに夢中になって、ついその時間を落としてしまいそうになることもあります。

 と同時に、速く速くという、せっつかされているようなスピード感が出てきました。情報が次から次へとどんどん入って来るので待てなくなるのです。敵もさるもので、1分とか30秒のショート動画を用意し、隙間時間もネットにくぎ付けになります。気に入ることだけ取り出すと後はスキップして次に向かいますから、忍耐もなく待てなくなってきた自分を知るのです。必要な情報がすぐ出てこなければ、もう違うことをやっています。

 さらに、提供される情報にも注意が必要です。だれがどのような意図をもって情報を流したか、その出どころに関して追求することはあまりしません。都合よく隠され、偽りを信じるよう働くこともあります。本当の情報か、偽りの情報か、ネット内では常に混在しているのです。

 また抱える人数というのがおびただしいのです。ネットは世界をつないでいるので、その影響力もまた甚大なものなのです。今日家に咲いたチューリップの画像を地球の裏側の人が即時に見ることができるのは、もはや当たり前のことになりました。見せ、拡散し、共有し、やがて民心を捉えるなら、AIITが政治的な利用をなされることは想像に難くありません。むしろこのために、情報化社会が構築されているのだといっても過言ではないでしょう。

 さて、話を元に戻しましょう。時間は無限にあるわけではありません。21世紀は最後の世紀で22世紀はないという考え方をする人がいます。確かに、今、世界は第3次世界大戦へ向けての戦争が始まっていて、いろんな国々に戦禍が飛び火しています。これはイエス・キリストの再臨が近いというしるしです。ですから、しっかりと目を覚まし、頭を上げましょう。そして、時間を大切に用いましょう。

 マタイの福音書633節ではこう書かれています。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」。まず、神を第一に求めること、生活の中で神さまに関わる事を優先すること、こうすれば時間泥棒があなたの時間を盗むことはできません。

 第一にすべきものを第一にしなければ、すべてがなし崩しになります。秩序ある生活を送ることは大切です。それゆえ聖徒は皆、まず神の国とその義を求めましょう。今日あるこの日も、また明日も、神さまが私たちのために作ってくださった祝福の1日です。ネットではすぐにでも終わりが来たかのようにあおります。けれども、終わりはすぐには来ません。情報を見分け、振り回されないようにしましょう。そして、まず神のみ口のことばを聞き、いのちを得ましょう。イエスさまはこう語られました。「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(34節)。与えられた時間をどのように用いるか、私たちは神から委ねられているのです。

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月8日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

2024年5月1日水曜日

託された宣教

  かつて、イリエ・コロアマさんという預言者の方から興味深い話をお伺いしました。たくさんのお子さんに恵まれたので、子を授からないようにしていたところ、夢にイリエさんが知らないイリエさんの子どもたちが出てきて、懇願してきたそうです。「お父さん。私たちも生んでください。私たちも地上で主のための働きをしたいのです」というのです。

 天国という所は、筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい所で、いのちに満ちあふれていると聞いています。死んで天国に行き、後によみがえったある人は天国から引き離されたことが悲しくて33晩泣いて過ごしたそうです。それほどまで天国は素晴らしい所なのでしょう。しかし、イリエさんのお子さんが願ったように、天国にいてはできないことがただ一つだけあるのです。それは、地上で直接福音を語り、人々のたましいを神の元に勝ち取ることです。宣教の働き、人々の救いは、キリスト・イエスから託された私たちの使命です。

 少し神学的な話になりますが、イエスさまが昇天された後、イエスさまの再臨に至るまでの間に教会時代という時代が挿入されました。イエスさまは教会のかしらで、みからだなる教会はキリストの花嫁で、私たちひとりびとりはその各器官です。終わりの時代の神の働きは、教会を土台として展開していきます。

 お弟子たちは、イエスさまが世から去るということを聞いた時、悲しみました。しかし、イエスさまはヨハネの福音書167節で「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」と語られ、現にそのことば通りにペンテコステ以降、助け主である聖霊の顕著な働きが始まり、教会がスタートしました。

 また、同1232節には「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」と主イエスは語っておられ、この今の時代、主イエスは天に留まられ、聖徒たちによって敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。

 聖書によると、復活されたイエスさまは、11人のお弟子たちにガリラヤに行き、イエスが示された山に登るよう指示されました。そこでイエスさまは近づいて来て彼らにこう言われました。

 「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます(マタイの福音書281820)

 これは、大宣教命令として広く知られている聖書の箇所で、このことばをもって、イエスさまは宣教の使命をお弟子たちに、ひいては私たちに委ねられたのです。私たちの使命、それは、全地に福音を宣べ伝えることです。天におられるイエスさまの心をわが心として、私たちは救いを携え、地の果てまで宣教に出て行きましょう。聖書にも次のように書かれています。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(テモテへの手紙第二42節)

MIKOE NEWSから転載」 2024年5月1日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/