リバイバルについて
私は、1980年代の半ば、アメリカ主導のゴスペル全盛期に、主イエスを信じて救われました。ウオークマン(携帯音楽プレーヤー)をポケットに入れ、賛美を聞きながら、いろいろな道を歩いて回りました。深い慰めや力が注がれて、救われて間もないにもかかわらず、ご臨在さえ知るようになりました。霊歌もまた不思議で素晴らしく、イエスさまをより近くに感じました。
いつの事かは忘れてしまいました。しかし、そう遠くはならないうちに、「リバイバル」という言葉を知るようになりました。それは、「復活」という言葉で、映画で過去に人気のあったものを「再流行」として、改めて用いられるそんな意味もあります。
私たちにおいて、「リバイバル」は憧れです。イエスさまが来られた時と同じような力あるわざがなされるのではないか。死人はよみがえり、病人はいやされ、しるしや奇跡が現されます。こんなみわざ、私も見てみたいと、ずっと祈り求めてきました。多くの聖徒たちも祈り、その日を待ち望んでいます。
「リバイバル」と呼ばれるような不思議なみわざは、最近では、アズベリー大学で起こった神の働きを挙げることができるでしょう。祈りが止まらず、みな夜も家に帰ることもなく、祈り続け、神の栄光を見ました。素晴らしい働きではあったのですが、「リバイバル」とは認定されず、その後、元の状態に落ち着いていると聞いています。
また、少し前には、「トロントブレッシング」がトロントで起こりました。ホーリーラフィングに代表される解放やいやしがありました。これに関しては、神から来たものと、他の霊から来ているものとを見分けるように、というコメントが教会で語られました。テサロニケ人への手紙第一5章21節にも「すべての事を見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい」と書かれています。霊的なものと実際的なものを見分けることは、正しく主に聞き従うためにはとても重要です。
どんなリバイバルが来るのでしょうか。以前本で読みましたが、ある建物が焼けていると消防に連絡が入ったそうです。彼らが到着すると、火は消えないのです。建物もそのままで焼け落ちる被害がありません。何なんだこれは、と皆が集まって来て、不思議に思う中、「リバイバル」が起きたという実話があります。
恐らく「リバイバル」は私たちの思いもしない形で来るのではないかと思います。というのも、使徒の働き2章をお読みください。「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話し出した」
これは、ペンテコステとして知られる神の「聖霊降臨」の日のことです。炎のような分かれた舌が現れて、一人一人の上にとどまる、というのは、ちょっと想像がつかない光景です。しかも、一人一人他国のことばで話しているのです。
これから始まる後の雨「終末のリバイバル」はこれを受け継ぐものとなるでしょう。さらに大きな神のみわざを起こすとイエスさまは約束されました。教会ではリバイバルは既に始まっていると語られています。私たちは今、「終末のリバイバル」に最も近い所にいます。その信仰を用いてさらに「リバイバル」を期待しましょう。
「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。」(ハバクク書2章3節)