願うことの力
聖書の福音書の中に「長血の女のいやし」として広く知られる逸話があります。恐らく婦人科系の病であろう長血を、12年もの間患っている女性がいました。彼女は多くの医者からひどいめに遭わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった上、病状は悪くなる一方でした。
もはや彼女にとって頼りとなるのは、イエスさま以外にありませんでした。多くの人をいやされたあのイエスさまならきっと私をいやしてくださる。そのお着物にでも触ることでもできれば、私は必ず直る。一心に願いまた信じた彼女は、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスさまの着物にそっと触れました。
すると、たちまち血の源が枯れて、ひどい痛みが直ったことを体に感じました。イエスさまもご自分のうちから力が外に出ていったことに気づいて「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言いました。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、ひれ伏してイエスに真実を余すことなく打ち明けました。イエスさまは、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」——そう言ってくださいました。
彼女がしたことは、「願った」それだけです。そして、いやしてほしいという強い「願い」は、いつしか、きっといやしてくださるという信仰に変わったのです。そして、事実その通りになりました。「願い」とは求めることです。そして、求めることは信じることにつながります。
サムエル記第一1章に、ハンナという人物が登場します。ハンナは不妊の女でした。夫エルカナにはぺニンナというもう一人の妻がいます。ぺニンナには何人も子がいるので、子のないハンナをいら立たせることをわざとします。それで、ついにハンナは主の宮に行き、激しく泣き、心を注ぎ出して願いまた祈ります。「はしために男の子を授けてください。そうすれば私はその子の一生を主にささげます」。祈った後の彼女の顔は、もはや以前のようではなかった、と聖書は記しています。事実、その後ハンナは身ごもり、子が乳離れした後、その子サムエルを祭司エリのもとに連れていき、誓願を果たしました。
願うこと、これは力ある営みです。それは、信仰の扉を開きます。確かに願わなければ何も起こりません。しかし、願うなら、願い続けるならやがてそれは確信となり信仰となって、ついには神の手が動くのです。願ったことはきっとかなえられると信じるその信仰を、神は決してむげにはなさいません。
ヨハネの手紙第一5章14節にもこう書いてあります。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」
信仰は、「願う」ことから始まります。神は、私たちを愛してくださっているので、私たちが何を願いまた求めているのか、常に関心を持ってくださっています。ですから、ハンナのように問題を主の手にお委ねするまで心を注いで祈り、祈り切るまで願いまた求めましょう。みこころにかなう「願い」は決して地に落ちることはなく、最善の時に成就します。それゆえ熱心に神に「願い」ましょう。神は必ず願ったその実を結ばせ、ご栄光を現してくださいます。
MIKOE NEWSから転載」 2024年8月21日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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