2024年11月6日水曜日

しつこさ

 私の妹は、誰に似たのかとてもしつこいところがあります。世には「一念岩をも通す」という語がありますが、妹は一念を抱くと、岩を通すまでしつこく粘るタイプです。決して簡単には諦めません。

 目下のところ、彼女の一念は母の心臓病のいやしにあります。母の体調が優れないとすぐに電話がかかってきて、母のために祈ってちょうだいと催促します。ところがこれがまた、こちらが辟易(へきえき)とするほどしつこいのです。私も私なりに祈っていますから、あたかも祈ってないかのように催促されると、さすがに良い気は致しません。

 ところが、妹はそんなことお構いなしに、なおもしつこく食い下がってくるのです。「頼むよ。絶対祈ってね。完全にいやされるようにだよ。お願いよ」等々。気持ちは分かりますが、押しつけがましいところが正直ウザく感じることもあります。しかも、身内である私に求めるならともかく、既に私の知らない所で、いろいろな方々に連絡しては「母がいやされるようお祈りください」とお願いしているようなのです。それを知って、驚き呆れました。

 妹にしてみれば、なりふり構わず、ともかくいやされてほしいという一念で助けを求めたのでしょう。彼女の素は粘り強く、しつこいのです。でも、そのしつこい願いを嫌がることなく聞き届け、善意をもって実際祈ってくださった兄弟姉妹には心から感謝致します。祈りによって、母は多くの病をいやしていただきました。

 しつこさということにおいては、ルカの福音書11章に興味深い記述があります(5~9節参照)。ある人が、真夜中に友だちのところに行きパンを三つ貸してくれと頼みます。旅の途中、友人が来たのに出してやるものがないのだというのがその理由です。友だちは、「めんどうをかけないでくれ。戸締りをして寝ているので、起きて何かをやることはできない」と断ります。それに対してイエスさまはこう言いました。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」。しつこく求めることは友情に頼るよりも勝るのです。しつこく求めて粘るなら、忍耐の末に必ず約束のものを手にします。

 他にも、スロ・フェニキヤの女と呼ばれる人物が、イエスさまの称賛を買いました(マルコの福音書7章25~30節参照)。ギリシャ人である彼女には、汚れた霊につかれた小さい娘がいました。女は自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスさまに願い続けました。しかし、イエスさまはつれなく「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と言いました。ユダヤ人を後に回して、異邦人にわざを行うことはしないよ、ということです。

 しかし、お母さんはそのことばにひるむことなくこう言いました。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」イエスさまは、「そうまで言うのですか」と驚嘆され「それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました」と言われ、その通りになりました。

 しつこいことは大概、人には嫌われます。しかし、神においてはそうではありません。神はしつこく求めることに信仰を見てくださり、その信仰に報われるのです。それゆえ忍耐を働かせ、しつこくまた粘り強く神に祈り、神の解決を求めていきましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年11月6日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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