2024年12月5日木曜日

 永眠

 この季節になると、毎年喪中欠礼の葉書が届きます。何某が何歳で「永眠」しました、という一文を見ると、いいようのない思いが胸に去来します。ご遺族さまには誠に残念なことで衷心よりお悔やみ申し上げます。

 「永眠」という言葉はまことに美しい日本語だと私は思います。今まで何日も何年も、眠っては目を覚まし、また働く、その繰り返しがあって、やっともう覚めることのない永遠の眠りに、その安息についたのです。その人生に敬意を表し、ゆっくりお休みください、という思いになります。誰であっても人生の最期を迎える時が来ます。2度と覚めない眠りにつきます。だからそれを「永眠」と呼ぶのです。決してあからさまに「死」にました、とは言いません。文末には、そこにも触れてみたいと思います。

 天国にはその人がどういう生涯を送ったかを記録した本があると言います。また、天国にはそれとは別に「いのちの書」という本があり(ヨハネの黙示録20章12節参照)、これには、イエス・キリストを自分の救い主と信じた人々の名が記録されています。あなたが、世に生きていた間に主イエスさまをご自分の救い主として信じたなら、間違いなくあなたの名前もこの書に記されています。そして「この者は、イエスを主と告白し信じた。それゆえ、この者の一切の罪はキリストの十字架によってすべて無効である」「天国に入ってよし!」という宣言の声を聞くのです。

 長短ありますが、おのおのににこの世における人生があります。神が下さった地上での生涯です。この時間をどのように用いたかが、神さまが人に問われるところだと聞いています。神のみこころをわが心として行い、祝福のしるしに朽ちぬ冠を授けてくださることもあります。冠は、永遠の評価、神の評価です。天では天での報いがまたあるのです。人生を神のために用いる者は幸いです。その者は決して後の日の報いに漏れることはありません。

 さて、冒頭で私は、「永眠」について言及しました。覚めることのない眠りの意ですが、しかし、正確には「永眠」した死者は一度よみがえります。それはおのおのが神のさばきの前に立つ「最後の審判」の時にです。

 ヨハネの黙示録にはこう書かれています。「海はその中にいる死者を出し、死もハデス(黄泉)も、その中にいる死者を出した。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。『いのちの書』に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」(20章13、14節)

 この箇所で、海の中から、死の中から、ハデスの中からたくさんの「死者」が出されたことが分かります。彼らは「死者」でした。「永眠者」でありません。そして、死とハデスは火の池に投げ込まれ、先ほどの「いのちの書」に名が記されていない人物、すなわちイエスの救いを受けなかった「死者」もみな火の池に投げ込まれました。これは「第二の死」と呼ばれるものです。

 「第二の死」というものがあるなら、当然第一の死というものがあったはずです。あくまで私の推論であり、全員に当てはまるかどうかも未定ですが、第一の死とは「肉体の死」です。ちりから出た人はちりに還ります。私たちが失うのは肉体だけです。

 また「第二の死」は、イエスを信じなかった者たちへのさばきでもあります。海から死からハデスからすべての「死者」が出され、神による最後の審判を受ける時、神は人の霊魂(れいたましい)の価値を測られます。神に従ってきた者とそうでない者がいます。前者には永眠が、後者には火の池が用意されています。

 イエス・キリストにあって永眠した者たちは、今、休みを得ているのではないでしょうか。御使いの号令とラッパの音で目が覚め、天に引き上げられるまで休んでいるのです。そして、ヨハネの黙示録にあるこの「第二の死」こそ、本当の意味での最終点である「死」であるのではないでしょうか。

 聖書には、さばきと赦しという二つのものがその根幹にあります。その二つを一つにされたのがイエスさまなのです。十字架の主を信じ、永遠のいのちにあずかりましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年12月5日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

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