2024年10月17日木曜日

『時』について思うこと

 幼い頃、浦島太郎のお話をよく聞かせてもらいました。ご存じの方も多いと思います。浦島太郎が砂浜で子どもたちに乱暴されていた亀を助けたところ、恩返しに亀に連れられ竜宮城に行きました。そこでは、乙姫さまがいて、盛大な祝宴が設けられました。それはもう楽しくてあっという間に3年の月日が過ぎました。ある日、両親のことを夢で見た太郎は家へ帰ることを決意します。別れ際、乙姫様は太郎に玉手箱を渡し言います。「決してこの箱を開けてはなりません。人間の一番大事な宝が入っていますから」

 浦島太郎が、帰ってみると何と300年の年月がたっていました。さみしさのあまり、太郎は開けてはならないその玉手箱を開けてしまいます。一番大事な宝、それは寿命だったのです。玉手箱から立ち昇る煙の中で太郎は瞬く間に白髪の老人となってしまいました。

 幼い頃は、その結末がとにかく恐ろしかったです。竜宮城での3年が、人間社会では300年もたっていたというタイムラグの話に、それまで経験しなかったような怖さを覚えました。浦島太郎の話はあくまでも物語です。しかし、これは実際あり得ることだそうです。アインシュタインの特殊相対性理論は、これを証明しているとも言われています。同じ「時間」であっても速度というのはどこで観測するかによって変わります。しかし、光は例外でどの立場で観測しても光の速度は「光速度不変の原理」で同じだそうです。それゆえ、私たちの移動速度が光速に近づけば近づくほど私たちに流れる時間は遅くなるというのです。これを「時間の相対性」と呼ぶそうです。

 「時」とは、何と壮大なものでしょう。「時」は神さまのもの、神さまと切り離せないものです。過去、現在、未来と「時」は一方通行で流れていきます。戻ることも、立ち止まることもできません。神さまが「時」を終わらせない限り、「時」はどこまでも進行し続けます。そして、時を知ることは神を知ることにつながります。ソロモンの伝道者の書3章1節には「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」と書かれています。また、同11節では「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」とも記されています。

 私は「時」は強力な「力」であると思っています。というのも「時」が来れば、どんなに変わるまいと思っていたことさえも変わるからです。かつてドイツは二つに分かれ「ベルリンの壁」がそれを仕切っていました。東ドイツはソ連をバックにした社会主義国に、西ドイツは米英仏などとともに資本主義国にと、一国が壁を隔てて二つに分断されていました。この壁がなくなることは絶望的だと多くの人が思っていました。けれども1989年11月9日、この壁は崩れました。神の「時」が来たのです。

 また、ソ連も社会主義国でしたが、ゴルバチョフ政権のもと、1991年12月24日に、ソ連は崩壊し、その名もロシアに戻りました。人の目には遅いと見えても、神の時は必ずやってくるのです。また、大きな事ばかりではなく、個人においても、立ち直れないほどつらいことがあっても、「時」がその人をいやすことを数多く見てきました。

 神さまは問題を通して、私たちに永遠への思いを与えてくださるのです。問題があったというのは、何かが悪いというのではなく、神を見出すために神が置いておられるものなのです。確かに神の「時」を待つには非常な忍耐が必要です。けれども必ず「時」は来ます。そして、やがてはすべて過ぎ去っていきます。ペテロの手紙第二3章8節には「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」と書かれています。全能なる神は、時を支配されるお方です。私たちは、私たちの目をこのお方に向けましょう。

MIKOE NEWSから転載」 2024年10月17日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/

0 件のコメント:

コメントを投稿