2024年8月14日水曜日

イエスさまを信じて間もない方であっても祈りは聞かれます

 生ける神のみわざにあずかるためには、長い修行に励んだり、あるいは特別に選ばれた人だけに起こる奇跡だと思っていませんか。私も以前はそう思っていました。ところが、イエス・キリストを信じクリスチャンになってみて、まったくその考えが変わってしまいました。

 主を信じてわずか2、3カ月の頃です。ある牧師が興味深い話をされました。韓国のクリスチャンが、具体的な条件を挙げて祈ったところ、祈った通りのものが与えられたというのを聞いて、ご自分でも具体的に祈り、主が応えてくださるか試してみたそうです。

 求めたものは机です。与えられた時に、偶然ではなく神から来たと分かるよう牧師は具体的に条件を挙げて祈りました。ねずみ色の事務机がいい。それには深い引き出しがあって、ファイルをしまえるように。また、引き出す時グーッという音がするものがいい、などです。時は流れ、そんな祈りをしたことも忘れた頃、ある日、引っ越す方があり、言われたそうです。「不要な机が二つあるのですが、要りませんか」。牧師は「良い方の机を置いていって」と答えたそうです。しばらくして、階下に降りてみたところ驚きました。まさに祈った通りの机がそこにあったのです。

 感動した私は、救われてまだ2カ月でしたが自分も祈ってみようと思いました。ボーンアゲイン(新生)を機に引っ越しをして、駅から遠くなったので、通学や教会に通うための自転車を必要としていました。そこで、思いつく限り具体的に自転車に注文をつけて祈りました。黒いメッシュのかご、変速機能がついたもの、カギは二つ、ライト付き、横に傾いて止まるもの、ブランドもので、小さめの車体、色は赤かそこらのもの、などです。

 しかし、人間は罪人、業の深い者です。神が本当に生きているということを知りたいのです。ですから、どうかこの祈りを聞いてください、と真剣に求めたにもかかわらず、私は一方で自転車をくれそうな人に電話して、もらうという話をつけました。その自転車はママチャリで、祈ったものとは違います。でも、自転車はもらえたのだから、教会に行って報告して喜ぼうと決めていました。

 ところが、2、3日後その人から突然電話がかかってきました。「ごめん。実は自転車が盗難にあってしまって…」。これを聞いた瞬間、これは「神の手だ」とはっきり分かりました。私のふた心を主は射貫かれました。私は神に求め、同時に世の手段にも訴えたのです。これは神への欺きでした。

 猛省して、悔い改めました。すると赦してくださり「保証人の方に引っ越したことを報告しなさい」という促しがあり、連絡しました。すると、「駅から遠くなるなら自転車要らないか」と向こうから聞いてこられました。そう聞くや否や、これこそ祈った通りの神の自転車だと確信したのです。そして、日曜日。待ちに待ったその自転車と対面しました。驚くことに、すべて祈った通りの自転車がそこにありました。私は奇跡を見たのです。

 信仰に年月は関係ありません。信仰は完成品であり、成し遂げてくださるのは主です。信仰を用いて祈るなら、私のようなわずか2カ月のベビークリスチャンでも、信仰歴数十年の人と同じものを受けるのです。実に神は、信仰に働かれ、恵みによって願いに応えてくださいます。誰であれ、信仰を用い祈るなら、この瞬間にも生ける神のみわざを見ることができます。

 マタイの福音書にも次のように書かれています。「あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます」(21章22節)。祈りをもって私たちが神に近づく時、神もまた私たちに近づき、ご栄光を現してくださいます。

MIKOE NEWSから転載」 2024年8月14日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/ 

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