認知症
一昔前には「痴呆」と呼ばれていた老年期の衰えを、最近は「認知症」と呼び、国を挙げてその取り組みがなされるようになってきました。以前は還暦を迎えると、第一線から退き余生を楽しむご隠居さんになるのが常でした。けれども、今は60歳が仕事に新規採用されるという時代です。70歳を超えてなお第一線で仕事をしている人も珍しくありません。瀬戸内寂聴さんは99歳まで、日野原重明医師は105歳まで生き、最後まで現役で活躍されました。還暦を越えてさらに約40年の年月を壮健に生き、なおかつ仕事を続けられたのです。これは特筆すべき快挙であると思います。
医学の進歩とともに、老年期は相当長いものになりました。そして、人生の幕引きをどうするかという、今までにはなかった課題が出てきています。昔と違い簡単には死ねない時代になったのです。
私には、86歳になる母がいます。神に守られ長寿の恵みにあずかっており、衰えたとはいえ、まだかくしゃくとしています。けれども最近、何かの拍子に「あれっ?」と小さな物忘れをすることがあるようです。さすがに「認知症」ではないようですが、これから老いと向かい合うことが増えてくるだろうと思います。
「認知症」は、回復が難しい進行してゆく病気です。Aさんは「認知症」の奥さんとともに生活されています。奥さんはご飯を食べ終わったばかりなのに、「そろそろ食事にしようか」と言うのだそうです。今したことを、もう忘れています。「まいっちゃうよ」とAさんは苦笑しておられました。今は、「認知症」を予防する薬はありますが、発症した「認知症」を治療する薬はありません。当人が何をするか分からないので片時も目が離せません。しかも、今の長寿社会では往々にして老老介護になるので、看る人の負担も決して小さくありません。
「認知症」は人間の尊厳にかかわる病気だと思います。程度にもよりますが「認知症」になったら、脳の老化で、持っていた記憶をどんどん失っていきます。その人にとってどれほど大切な情報であっても、だんだんそれを理解することが困難になってきます。症状がひどくなると、自分自身に関しても、自分が何者なのかということさえも忘れてしまいます。それでも、天に召されるその時まで、忍耐を持って生き続けてゆかなければならないのです。誰に自分を任せばよいのか。また、自分のこともいつまで自分で覚えていられるのか。こんな不安とも戦っているのです。そしてついにはそのことも忘れてしまい、「恍惚(こうこつ)の人」になります。こういった病気です。ただ、どんな状態になってもイエスさまは私を守ってくださる、こう信じることがそれらの人の慰めとなり、心のよりどころとなり、ひいては治療ともなります。
この中で求められるものは、神への信頼です。全能なるお方は、昨日も今日もいつまでも同じです。私たちのことを常に変わらず愛してくださっています。イザヤ書46章にはこんな記述があります。「胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(3、4節)
神の愛は実に深いのです。神は決して私たちを捨てたりはしません。胎内にいる時からしらがになった今に至るまで、神はずっと私たちを背負ってきてくださいました。そして、これから先も救い出してくださると約束してくださっているのです。たとえ「認知症」を患う事態になったとしても、変わらぬ神は変わらぬ愛を注いでくださいます。恐れに変えて平安を下さり、お約束通りすべてを益にしてくださいます。時には苦しみがあるでしょうが、その中で私たちは神さまとその助けを今まで以上に見ていくでしょう。神さまから頂いた私たちの人生です。死に至るまで主を信頼し、地上での一時(いっとき)の生涯を全うしていきましょう。
MIKOE NEWSから転載」 2024年10月30日、リンク先:https://www.mikoe-news.com/
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