2016年6月19日日曜日

 
 黙示録3章に、ラオデキヤにある教会に宛てた神の神さまの私信があります。そこには「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」(15節)と書かれています。
 クリスチャンになりたてのころ、私の内側は熱く燃えていました。問題の解決を求め熱心に祈り、求める手を下ろしませんでした。ところが、これといった問題も無くなると、その燃えるような神さまへの求めがなくなってしまうのです。これでいいや、と知らぬ間に安逸をむさぼっています。
 神さまが、約束の地カナンにイスラエルを導いてくださった時、最後まで聞き従ったのはヨシュアとカレブ2人だけでした。戦いの時にはイスラエルは日々神さまにすがりしっかりとつながっていましたが、カナンに入ると生活が一変したのです。
 カナンに入ると今までイスラエルを荒野で養った神のパン(マナ)が降らなくなり、民はカナンの地でとれたものを食べるようになりました。つまり、生活の安定を得たのです。民は、戦うことより、そこそこの生活で落ち着く方を選びました。
 神のみこころを行うという使命を生涯全うするというよりも、もうこれ以上苦労したくない、このままでいい、そっとしてくれ、これが本音でしょうか。信仰生活に妥協が入ってきました。
 歴代誌第二16章9節には「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」と書かれています。神さまの心をわが心とし、熱心に主の召しを全うする人生を求めていきましょう。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年6月19日号(第889号)より転載—

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