2016年12月19日月曜日

恵みと律法
 クリスチャンであるAさんは、時に、同じクリスチャンである奥さんのことを、律法学者M子・パリサイ人M子と呼ぶと言います。どうやら妻という存在は、夫に近すぎて、自分ができないことを棚に上げて、無理に夫に理想を押し付けてしまうところがあるようです。また、良かれと思って夫に進言することにおいても、それが度を越すと、あれをやっていない、これもできていない、といつのまにか夫を責めるようになります。こうして、まんまとサタンのわなに掛かってしまいます。
 しかもそれがサタンの仕業だと気づくのは、大概全てをやり終わってしまった後です。夫はスーパーマンではなく痛みも弱さもある生身の人間であり、その中でも精いっぱい頑張っていてくれるのだということが、妻には見えなくなっているのです。サタンに惑わされ、しなくてもいい戦いを、幾度重ねたことでしょうか。
 イエスさまは、マタイの福音書で「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない、とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(9章13節)とおっしゃいました。あわれみは恵みであり、いけにえは律法です。恵みは律法に打ち勝ちます。イエスさまが私たちに図ってくださるのはあわれみです。
 さらに同12章にはイエスさまについてこう書かれています。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(20節)いたんだ葦、くすぶる燈心は、私たちの弱さのことを言っています。もう駄目だ、という状態であっても、イエスさまのあわれみは尽きません。イエスさまは最善をなしてくださいます。律法には救いがありません。神の恵みこそ、私たちが立つべき土台です。
 
(イスラエル北野)

み声新聞2016年12月18日号(第915号)より転載—

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