2016年5月23日月曜日

弱さは恵み
私の父は、1月1日生まれで本当に稀有な人でした。家は貧しかったのですが、一代で財を築き、成功しました。
 父と気性の似ている私は父の成功を受け継ぐ者として育てられました。幼いころは父の期待に添えられたようです。しかし、自我に目覚め、クリスチャンになってから全ては一変しました。
 イエスさまを信じ、神の子となった私は神の愛にほだされ、ごく自然に献身の道に進みました。すると次の段階がやってきました。予期せぬ病という試練でした。洗礼を前にしながら半年も入院する病気に見舞われたのです。生まれて初めての挫折でした。父はそんなに弱くてどうする、と私を嘆きました。
 以来、弱さは私のコンプレックスになりました。しかし、神の目にはこれこそが祝福であったのです。
 聖書を読むと、パウロが弱さに関して興味深いことを語っています(コリント人への手紙第二12章参照)。パウロは素晴らしい啓示を受けました。それ故、高ぶることのないよう肉体に一つのトゲを与えられました。彼は、これを去らせてくださるよう三度も主に願いました。しかし、それに対して主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(12章9節)と語られたのです。
 弱さは悪いものと考えがちです。しかし、神にあってはそうではありません。主の力は、弱さの内に完全に現れます。それ故パウロは、「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(同節)と語ったのです。
 弱さは私を変えました。徹底して弱くされることによって、私たちは神の大いなる恵みを知るのです。弱さは祝福です。弱さを感謝しましょう。(イスラエル北野)

み声新聞2016年5月22日号(第885号)より転載—

0 件のコメント:

コメントを投稿